〈五日目〉 平成25年1月6日 日曜日 晴れ 杉戸宿~幸手宿~栗橋宿
新年初歩き

 年も明け平成25年、2013年となった。1月4日を休めば9連休という絶好のカレンダーであったが、そこは某部署センター長という役職だけ立派で何もしていないのであるが・・・とはいえ、新年式と協力会社との新年年賀会があるので休むわけにはいかない。

6日の朝目覚めると快晴、喜多さんが歩きに行こうと張り切っている。

では、日光道中の続きを歩きに行くか・・・。

〈杉戸宿 本陣跡地前〉

〈前回はこの交差点から東武動物公園駅に向かった〉

〈雰囲気の残る日光道中〉
 
〈宝性院と境内の日光道中碑〉
宝性院(杉戸学校跡)

 明治5年(1873)8月、太政官より近代的教育法規である「学制」が出されると、同7年4月、ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉松村の児童を教育するために杉戸学校が設立された。児童数は、男117人、女35人、教員は5人であった。(同9年調べ)
 同10年3月には、杉戸下町(現在の杉戸1丁目付近)の鈴木彰氏宅内に校舎を新築し鶏鳴(けいめい)学校と改称した。しかし、同13年3月清地村が組合から分離したために、杉戸宿と倉松村は鶏鳴学校を閉鎖し、再び宝性院を仮校舎として杉戸学校を開校した。やがて児童数の増加にともなって、施設・設備が不足し同34年11月、内田地内に校舎を新築し移転した。このように、初期の初等教育においては、寺院を借用するものが多かった。
杉戸町教育委員会

ということで、このお寺は明治初年に小学校になったそうだ。

〈すぎと七福神のうち毘沙門天〉

〈東京駅という名の居酒屋〉

〈古民家 渡辺家〉

〈日光道中杉戸宿をゆく〉

〈この先で国道4号線と合流〉

〈このあたりの人は東京にあこがれているのか〉

〈親孝行通りとあるから何かと思ったらレストランへの道だった〉

〈この辺りは特筆するものは何もない〉

〈幸手市に入った〉

〈国道4号線から再び旧道へ〉

〈この辺りには珍しい石仏が〉

〈東武日光線を越える〉

〈旧道は田園地帯〉

〈日光方面の山が見えてきた〉

〈建設中の圏央道〉

〈日光道中と日光御成道合流点説明板〉

〈左が日光道中、右が日光御成道〉
 
〈神宮寺 中世には村全部が寺領だったのだそうだ〉

〈明治天皇行在所碑は本当にあちこちにある〉

〈知久家と中村家に宿泊されたそうだ〉

〈幸手駅へのメイン通りのようだが人がいない〉

〈民家がペット屋さんになっている〉

〈日光街道標識〉
 
〈幸手宿本陣 知久家跡 そういえば知り合いに埼玉県出身の知久さんがいる〉

〈レトロな建物〉

〈道のようだが公園になっている〉

〈幸手一里塚跡〉

〈すでにどこが跡かも定かでない〉

〈このあたりの日光道中には見るべきものは残っていない〉

〈お昼は台湾ラーメン380円 割とおいしかった〉

〈東京からやっと50km〉

〈右手は権現堂さくら堤〉

〈中川にかかる行幸橋を渡る〉

〈旧日光道中は国道4号線の左手に沿って続く〉
 
〈追分 右つくば道の道標 左が日光道中〉

〈のどかな風景の先に日光の山が見える〉

〈雷電社湯殿社合殿〉

〈4号線の脇の旧日光道中〉
 
〈小右衛門の一里塚跡に弁財天祠堂が建ててある 日本橋から13番目の一里塚〉
 宇都宮まで54km、小山まで24km、古河まで10km。ちょうど日本橋から宇都宮までの半分くらいを歩いてきた。

中山道の和田峠を越えた時には、二泊三日で60kmを歩いたからその気になれば、今月のうちにでも宇都宮まで歩けそうだが、何かと忙しい。そうそう歩きに来るわけにはいかない。

2月24日には、サントリーホールで「鈴木静一メモリアルコンサート」に出演するので、1月14日から毎週日曜日は、新宿オペラシティー大リハーサル室で集合練習があるのだ。

当分街道歩きはお休みだ。

〈宇都宮まで54km〉

〈川通神社〉

〈北広島地蔵 会津見送り地蔵の道標〉
 
〈これは姫リンゴか?〉

〈焙烙地蔵〉

〈焙烙地蔵説明板〉
焙烙地蔵

 利根川の関所を通らないで「関所破り」を行った者は、火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。・・・が、火あぶりになぞらえて「焙烙地蔵」とはずいぶんなネーミングだと思う。

焙烙地蔵さんの足元にはたくさんの焙烙焼きが納められていた。

〈焙烙地蔵尊〉

〈本日は栗橋駅で終了〉

〈静御前のお墓への参道〉
静御前之墓

 栗橋駅に向かう途中に「静御前墳参道」があった。静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から
鎌倉時代初期の女性、白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。

『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、
義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ
山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186)3月に母の
磯禅師とともに鎌倉に送られる。同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、

  • しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
    (倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
  • 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
    (吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)。

と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と
取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、
上下みな興感を催す」と絶賛している。

この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏7月29日、静は男子を産んだ。
安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と娘の大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。

『義経記』によると、日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、
100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効験がなかったが、静が舞うとたちまち黒雲が現れ、
3日間雨が降り続いた。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜った。また法皇は、静を見て「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆したと言う。
その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたという。
(ウィキペディアより抜粋)

 このあたりの伝説では、
『静御前は源義経の内妻で、文治5年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げました。
その時、侍女琴柱は遺骸を当時この地にあった高柳寺(現・中田光了寺)に葬り、1本の杉の木を植えそのしるしとしました。
弘化3年5月(1846年)利根川氾濫により枯れてしまいこの時、杉の代わりに銀杏を植えたそうです。
「静女の墳」は、静御前の墓にしるしがないため、中川飛騨守忠英が、享和3年5月(1803年)に建てたものと考えられています。
また、静御前墓所内には『静女塚碑』をはじめ静御前にまつわる石碑などがあります。』

ということのようだが、静御前の墓の伝説は北海道から九州までたくさんあるようだ。

中山道、今須宿を歩いた時には「常磐御前」の墓もあったね。


〈静御前の墓が栗橋駅前にあった〉

〈伝説では静御前は奥州への旅の途中で亡くなったという〉

〈絶世の美人だったらしいが現代とは基準が違うだろう〉

〈新しい静女之墳〉

〈元の静女之墳は大事に保管されている〉

〈栗橋駅前 この駅はJRと東武が連絡している〉

〈栗橋駅から見る日光の山々 たどり着くのは何か月後だろう〉
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