〈二十九日目前半〉 平成22年 9月23日 土曜日 雨のち曇り 関ヶ原宿〜今須宿〜柏原宿〜醒ヶ井宿
 今年の夏は暑かった。

連日34〜36℃、夜中でも30℃を下回ることのない日もあった。
もともとエアコンの風があまり好きでないので寝るときはつけずに寝るのだが、今年ばかりはエアコンなしでは寝られない日が多かった。

7月9日〜11日は、平塚の母親と喜多さんとで網走〜知床〜羅臼〜釧路あたりを観光してきたが、北海道もやはり暑かった。


網走では、朝早く目覚めたのでホテルの近くを一人で散歩してきたが、早朝の道の駅には四国・中国・九州あたりのナンバーを付けた車が
たくさん止まっている。

弥次さんより少し年上の感じの男性と話をすると、熊本から来て車で北海道を巡っているのだそうだ。
りっぱなキャンピングカー仕様の車もあったが、ホテル代を浮かすために普通のワゴン車に寝泊まりしている人も多いようだ。


8月の夏休みは珍しく娘が一緒に行くというので、車で金沢〜能登を一周してきた。
4日間でちょうど1700kmのドライブだったが、意外と疲れていない。


こうしてみるとやはり弥次さんは旅好きなのだろう。本当は周防大島出身の民俗学者、宮本常一さんのような旅がしたいのだが。
宮本常一さんは、生涯16万キロを歩いて民俗学的な説話や写真などを収集した民俗学の第一人者だ。

そこまでは無理だが歩く旅は面白い。車で行く旅も面白い。もちろん電車や飛行機も面白い。こりゃ、死ぬまで退屈しないですむね。
彦根城でひこにゃんと出会う

 ということで、今年の異常な夏の暑さも一段落したので、中山道の続きを歩きに出かけることにした。本当は、9月11日〜12日に出かける予定だったのだが、予報では滋賀県は34℃だ。とても歩ける気温ではない。だから2週間延期したのだが大正解だった。

予定通り朝の5時ころ車で横浜の家を出た弥次喜多道中は、順調に彦根ICで降りるが、外は結構な雨が降っている。午後からはやみそうなので、街道歩きは午後からにして、先に彦根城を見学することにする。

彦根城といえば「ひこにゃん」。
お城より、「ひこにゃん」目当ての若い女性が多い。

雨が降っているから「ひこにゃん」の登場は博物館の中だ。
おじさんとしては、ちょっと・・という感じだが、せっかくなので若い女性にまじって「ひこにゃん」の写真を撮る。

〈ゆるキャラNo.1 ひこにゃん〉
 
〈確かにかわいいけどそれよりファンの多さにびっくり〉
国宝彦根城

 彦根城は、元和8年(1622)に20年の歳月をかけて完成。唐破風、千鳥破風、火灯窓をつけた華やかな天守は国宝に指定され、彦根の象徴ともなっている。また、天守をめぐる石垣と内濠、中濠を持ち、城郭が往時のまま現存し、全国でも数少ない名城として名高い。(彦根城観覧券より)


ということで、6月に訪れた犬山城や松本城、姫路城とともにお城としては4城しか国宝に指定されていない彦根城を見学する。

〈お堀を渡って彦根城へ〉

〈彦根城は4国宝城の一つ〉

〈お堀は広大〉

〈彦根城の全容〉

〈石垣も素晴らしい〉
 
〈さすが国宝 彦根城〉
 
〈彦根城からの琵琶湖遠望 彦根城は自然の曲り木を組み合わせて建築されている〉
【関ヶ原続き】
 雨も小やみになったので、彦根の宿「彦根サンルートホテル」の駐車場に車を置かせてもらい、彦根駅から関ヶ原駅まで東海道線で戻る。570円也だ。

彦根駅で東海道線に乗ろうと思ったら、改札が騒然としている。どこかに落雷があって電車が動いていないそうなのだ。しかし、彦根〜米原間は近江鉄道に振り替え輸送しているようなので、少し待って近江鉄道で米原へ。さらに東海道線に乗り換えて関ヶ原駅に着いた。 

6月以来3カ月ぶりの関が原だ。
前回「ひつまぶし」を食べた「魚しげ」の前を通り、コロッケを買った「高木精肉店」を横目で見て、弥次喜多道中は西に向かう。

〈関ヶ原から続きを歩く〉
西首塚

 ここは関ヶ原の合戦後に、東西両軍の戦死者数千の首級(遺体)を葬ったところなのだそうだ。前回、関ヶ原を自転車で巡った時には「東首塚」があった。その「東首塚」に対して「胴塚」とも呼ばれるそうだ。

1900年の鉄道敷設工事の際には、相当数の白骨が出たといわれ、当時はかなりの規模の塚だったと推定されているそうだ。

午前中の暴風雨でのぼりがみんな倒れてしまっている。


その先で国道21号線から左の旧道に入る。
関ヶ原の戦いの際、西軍を裏切って家康方に走った小早川の陣跡「松尾山」が見えるが、2.4kmもあるのでわざわざ見に行くわけにはいかない。

〈西首塚〉

〈国道21号線から旧道へ〉

〈小早川陣跡 松尾山〉
不破の関庁舎跡と大海人皇子の兜掛石・沓脱石

 このあたりに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約1町(108m)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が立ち並び、周辺土塁内には兵舎・食糧庫・兵倉・望楼などが建っていました。

ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられ、左斜め後ろには同皇子使用の沓脱石があります。

                                        関ヶ原町


ということで、民家の庭先の畑の中にこのような史跡が残っている。

街道を歩くと、日本武尊が杖をついた坂とか、家康が腰かけた石、秀吉が兜を置いた岩など、ウソかホントか残っているが、このような史跡があるから街道歩きも面白い。

〈不破の関庁舎跡と大海人皇子の兜掛石・沓脱石〉

〈不破の関関庁跡と兜掛石〉

〈大海人皇子の沓脱石〉
不破の関跡

 東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛発関(あらちのせき)とともに、古代律令制下の三関(さんげん)の一つとして、壬申の乱(672年)の後に設けられたとされています。

延暦8年(789)に停廃されて後は、関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきました。


                    
                関ヶ原町

〈不破の関跡〉
不破の関資料館

 基本的に、資料館や美術館には立ち寄ることにしているので、「不破の関資料館」にも立ち寄ってみる。100円也。

資料館のパンフによると、
『成立は壬申の乱(672年)の勃発にあたり、大海人皇子の舎人であった美濃出身の村国連男依(むらくにのむらじおより)らが、「不破道」を塞いだことが、『日本書紀』に記されている。乱後、不破道の重要性から関が設置され、大宝律令(701年制定)の中に東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに東山道の美濃不破関として定められた。

とある。

延暦8年(789)7月14日、三関は突如として停廃された。その維持には大きな負担がかかり、長岡京・平安京の造営という大事業の推進のためにも三関の停廃が余儀なくされたという。

〈不破の関資料館〉
関ヶ原宿から今須宿へ

 不破の関資料館に、このあたりの空撮写真があったので、こっそり撮影してきた。

今でこそ、このように空から地形を見れるが、関ヶ原の戦いや、壬申の乱のころには全体を俯瞰できる能力を持った参謀が作戦を練っていたのだろう。

歩いてきた中山道が白い糸のように見えている。


〈不破の関あたりの空撮〉
 
〈関の藤川(藤古川) 壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣を構えた〉
大谷吉隆(吉継)の墓 七丁の碑

 大谷吉継は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、越前敦賀城主であった。名は吉隆とも。らい病を患い、顔を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名だ。

関ヶ原の戦いでは、三成に再三勝算がないことを指摘し無謀だと諫めたが、三成の固い決意に熱意をうたれると、敗戦を予測しながら息子とともに西軍に馳せ参じたが、
奮戦むなしく、裏切った小早川隊に猛攻撃を受け自害。側近の湯浅隆貞の手により、関ヶ原に埋められたという。

この義理堅さ、誠実さが今の「歴女」の人気を呼び、大谷吉継の墓を詣でる「歴女」があとをたたないという。

しかし、墓は中山道から600m入ったところなのでパスすることにする。

〈大谷吉隆の墓 七丁の碑〉
矢尻の池(井)

 この窪みは、壬申の乱(672)のとき、水を求めて大友皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものだと伝えられています。

長い年月を経た今では、その名残をわずかにとどめているに過ぎません。

                                        関ヶ原町


見れば、本当に窪みでしかなかったが、1300年以上の前の言い伝えがこのように伝承されているところに、このあたりの人々の熱意を感じる。

〈矢尻の井〉
  
〈弘文天皇御陵候補地 自害峯の三本杉〉                 〈歩道橋を渡り右の旧道へ〉                         〈歩いてきた道を振り返る〉
 それにしても、このあたりは壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)や、関ヶ原の戦いで敗れた大谷吉継、平治の乱で敗れた源義朝の側室であった常磐御前の墓など、悲しい人のお墓が多い。
〈大谷吉継の墓 600m 常磐御前の墓250m〉
黒血川

 壬申の乱(672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突がおきています。7月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら)(関ヶ原町玉)を経て、大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし大海人軍はこれを撃退、その後この不破の道を通って近江へと出撃して行ったのです。

 この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄まじい様子を今に伝えています。

 この川は青野ヶ原や関ヶ原の戦いなど、古来軍事上しばしば利用されてきました。

                                         関ヶ原町


このあたりでは、その昔凄まじい戦いがあったのだ。

〈黒血川〉
火除けのおまじない

 このあたりの入母屋造りの家には、屋根に「水」の文字がある家が多い。喜多さんと何の意味があるのだろうね・・・と言いながら歩いてきたが、これは明らかに火除けのおまじないだ。

昔は庶民の家は茅葺だから、「水」とい文字を屋根に書いて火から守ろうとしたのだろう。

〈屋根に水の文字が〉
常磐御前の墓

 都一の美女と言われ、16歳で義朝の愛妾となった常磐御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常磐は今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。

 伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追ってきた常磐は、土賊に襲われて息を引き取ります。

哀れに思った山中の里人がここに葬り、塚を築いたと伝えられています。

                                        関ヶ原町


義経の母親の常磐御前は、このようなところで亡くなっていたのだ。

〈常磐御前の墓〉

〈見真大師〉

〈常磐地蔵〉

〈踏切を越えて山中に〉

〈今須宿へ続く中山道〉
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