〈4日目〉 平成24年12月1日 土曜日 粕壁宿〜杉戸宿 晴れの予報→曇りのち雨のち晴れ
5か月ぶりの日光道中

 10月に甲州道中を踏破してから街道歩きには出かけていない。東海道・中山道があまりにも良かったから、ついつい日光道中へは積極的に出かける気になれないのかもしれない。それでも五街道踏破の誓いをたてたからには、史跡の残っていないつまらない道も歩いてゆかねばならない。

今日は天気予報は晴れマークのみで、気温は低めだが歩くには最高のコンディションと思い出かけることにした。車を前回終えた「大袋」駅前の駐車場に入れ、続きをスタートする。さすがにこの辺りは駅前でも一日500円と地方都市並みの駐車場料金だ。

〈前回歩き終えた東武伊勢崎線 大袋駅〉

〈このあたりの日光道中は何の史跡も残っていないようだ〉

〈紅葉が見事〉
テバチャンコ

 テバチャンコ?

名古屋名物手羽のから揚げとちゃんこ鍋の店のようだ。埼玉県では神奈川県にはない面白い店を発見できることもあるが、どうもすでにつぶれてしまっているようだ。でも、なんで手羽とちゃんこなべ?

名古屋つながりでもないし、あまり入りたくなる店でもないね。

〈テバチャンコ〉

〈どぶのような川だが鴨が数羽泳いでいた〉

〈歓喜院〉
武里

 この辺りは武里という地名だ。実は前職の部長に仲人をお願いしたのだが、その部長がこの武里に住んでいたため一度あいさつに来たことがある。今から32〜33年前のことだ。

日本橋から32kmということは西へは横浜・関内当たりではなかろうか。昨年3月11日の東日本大震災の日は、横浜みなとみらいまで歩いて帰ったが、その時の距離が約30kmだった。
いま思い出してもよく歩いたものだね。

〈日本橋から32km〉

〈国道4号線沿いにこんな風景が残っている〉

〈それにしてもつまらない道が続くが・・・〉

〈大落古利根川との間には広い敷地の家もある〉

〈国道4号線(日光街道)の右側にはこのような自然も残る〉

〈日本橋から33km〉

〈史蹟備後一里塚跡碑〉

〈大落古利根川 岸では釣りをする人が・・・〉

〈誰の趣味だか・・・クリスマス好きなひとらしい〉

〈日本橋から34km〉

〈日本橋から35km〉

〈粕壁宿に入った 前方にはロビンソン百貨店〉
粕壁宿

 粕壁宿(かすかべじゅく)は、江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つで、日光街道の江戸・日本橋から数えて4番目の宿場である。

宿駅として成立したのは元和二年
(1616)。古利根川を通じて、江戸と結んだ物資の集散地として栄えた。尚、江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取ったようである。

〈ベンチに日光街道粕壁宿〉
 天保14年(1843)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、規模は
23宿のうちの6番目であった。 街道沿いには青物店、穀物店、精米・精麦店、飲食店などが建ち並び、
4と9のつく日には六斎市が開かれ、地域経済の中心地となって発展した。 近年の急速な都市化でかつて
の宿場町としての面影は薄くなっているが、当時からの商家もいくつか残っている。
〈ウィキペディアより抜粋〉
   

〈ロビンソン百貨店、セブン&アイグループだそうだ 経営は厳しそう〉(案の定2013年2月末で廃業、西武に転換したそうだ)
かすかべの由来

 「かすかべ」の表記は何度か変更されている。南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされるが、その後江戸時代正保年間(1645年頃)には糟壁、糟ヶ辺という表記が交互で使われており元禄年間(1700年頃)に粕壁、糟壁と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。

伊能忠敬らによる大日本沿海輿地図では粕壁と記されている。東武鉄道の春日部駅も開業時から1949年まで粕壁駅という漢字表記で使われていた。1944年に南埼玉郡粕壁町と同郡内牧村が合併した際に南埼玉郡春日部町とし、表記を改めた。
(ウィキペディアより抜粋)のだそうだ。

〈旧宿場らしい家も残る〉

〈田村本家 この辺りは田村さん一族の土地だったようだ〉

〈かろうじてシャッターに情緒が残る〉

〈粕壁宿の表示はあるが・・・〉
永嶋庄兵衛商店

 渇i嶋庄兵衛商店は慶長年間創業以来約400年に亘り米穀問屋を営み、19代を数える伝統ある企業です。当社のこだわりとは、創業以来の伝統である【信用と堅実な商い】という基本を大切に、時代にしなやかに適応する良識ある企業として継続することです。(HPより)

ということで、慶長年間創業のこの店は19代目だ。東海道関宿を歩いた時にあった老舗「関の戸」の御主人もは18代だと言っていた。創業400年くらいだが、昔は20歳くらいが一世代だったのだろう。それにしても400年もつぶれずに米屋を営んでいるとは代々堅実な人が多かったのだろう。

〈400年続く永嶋庄兵衛商店〉

〈大落古利根川にかかる新町橋を渡る〉

〈小渕一里塚跡碑〉

〈追分の道標がある道 左が日光道中だ〉
追分道標

 東海道でも、中山道でも、甲州道中でも追分には必ずこのような道標があった。昔の旅人にとってこの道標は心強い道しるべだったことだろう。

現代のように正確な地図があるわけもなく、道も少なかっただろうが、この道標は「左日光道」と明確に教えてくれる。右の小さいほうの古い道標には「左方阿ふ志う(奥州)道」と刻まれている。

〈左が日光道 奥州道と教えてくれる道標〉

〈手前の道標は比較的新しいものだろう〉

〈観音院 崩壊の恐れがあるらしく中には入れない〉

〈市指定有形文化財 元禄2年の建立と 伝えられる〉
杉戸町

 杉戸町(すぎとまち)は、埼玉県の東部にある人口約4万7千人の町。かつての日光街道の宿場町。埼玉県内で最も人口の多い町である。2010年3月23日、喜多葛飾郡最北端に位置していた北葛飾郡栗橋町が久喜市と合併したため、当町が最北端になった。(HPより抜粋)

そうで、埼玉県は南北には距離が少ないから、この先の幸手を抜ければすぐにちょっとだけ茨城県に入る。

〈杉戸町に入った〉
突然のにわか雨

 この手前で雲行きが怪しくなってきた。本日の天気予報は快晴だ。雨など降らないと雨具は一切置いてきた。コンビニがあったので、トイレ休憩をしていたらみるみる雲が黒くなりヒョウや雨が降ってきた。ラッキーだった。この先には雨を避ける建物はない。このコンビニで30分以上雨宿りしていたが、雨はやみそうにない。仕方ないから500円の傘を買って歩き始めることにする。

右の地球儀は北緯36度線と国道4号線との交差する地点に設置した休憩所で、杉戸町のウエルカム・モニュメントとして親しまれているそうで、「すきすきすぎーと36」というのだそうだ。

〈杉戸町のウェルカムモニュメント〉
山田うどん

 前に「秘密のケンミンSHOW」で、埼玉県人なら知らない人はいない、埼玉県人のソウルフードという紹介をしていたので、一度は入ってみたいと思っていた「山田うどん」があった。

もともとうどんは好きなので、嫌がる喜多さんを無視して、かつ丼とうどんのセットを注文する。喜多さんはもつ煮込とうどんのセットを注文していた。お客さんはそこそこ多い。出てきたうどんもかつ丼も,、量はたっぷりだが、はっきり言えば口に合わなかった。残念。多分二度と入らないだろう。

〈山田うどん〉

〈日本橋から40km 雨上がりの日光道中をゆく〉

〈杉戸宿の老舗お茶のいとや〉

〈杉戸宿 関口酒造〉

〈再び大落古利根川を渡り東武動物公園駅へ向かう〉

〈東武動物公園駅〉
 本日歩いた粕壁宿も杉戸宿も史跡らしい史跡はほとんど残っていなかった。やはり埼玉県あたり
では期待するほうが無理というものか。それでもこの道を歩かないことには日光の杉並木にはたどり
着かないから、頑張って続きを歩くつもりだ。


〈余話
12月2日(日)に中央自動車道笹子トンネルで天井が崩落し、車3台が巻き込まれるという大変な事故
が起きた。
10月21日には、甲州道中最後の旅で通ったばかりだったし、他人ごとではないよな・・・・
と喜多さんと話していたら、翌日弥次さんの会社の社員がこの事故に巻き込まれて亡くなったことが
わかった。入社4年目の27歳の優秀な若手だった。これは明らかに人災と言ってよいだろう。神田の
シェアハウスに住んでいた仲良しグループで、温泉に行った帰りに巻き込まれたという。DNA鑑定で
7日にようやく本人と認められた。

両親はちょうど弥次喜多夫婦くらいの年齢で、一人息子を突然亡くした衝撃はいかほどのものだろう。
これから結婚し、孫ができということを夫婦で語り合っていたのではないだろうか。

12月16日(日)に金沢文庫でお別れの会が催されるというが、ご冥福を祈りたい。
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