〈六日目〉 平成25年3月30日 土曜日 曇り時々小雨 栗橋宿〜中田宿〜古河宿〜野木宿〜間々田宿
 
〈栗橋宿 八坂神社〉
 
〈狛犬の代わりに鯉の災除が・・・鯉を撫でて体をさすれば霊験あらたかとか〉
3か月ぶりの日光道中

 2月24日の鈴木静一メモリアルコンサートのために、毎週日曜日は新宿のオペラシティ大リハーサル室に練習に通ったから、しばらく街道歩きはお休みだった。

身体もなまってきたことだし、久しぶりに喜多さんと歩きに出かけることにする。この春は5月の陽気になったり真冬に逆戻りしたり、どんな服装で出かければよいか迷うことが多い。
本日も家を出るときにはそんなに寒くはなさそうだったが、栗橋宿についてみれば結構冷え込んでいる。一日中8℃くらいのものだろう。

車は駅前の駐車場に入れ日光街道に戻るが、この辺りになると駅前でも一日400円〜600円程度で駐車料金を気にしなくて済むのはありがたい。

〈利根川の土手に菜の花が満開〉
 
〈利根川の真ん中で埼玉県から茨城県古河市に入る ここからは中田宿〉
利根川

 群馬県と新潟県の境、三国山脈中の大水上(おおみなかみ)山の東小沢に水源を発し、関東平野をほぼ南東流して千葉県銚子で太平洋に注ぐ大河川。延長322キロメートルで長さでは信濃川に次いで全国2位、流域面積は1万6840平方キロメートルでわが国最大である。坂東太郎の別称がある。

ということで、さすがに川幅が大きい。今は水量も少なく穏やかに流れているが、昔は洪水・氾濫も多かったのであろう。

〈渡り終えた利根川橋を振り返る〉
房川渡と中田関所跡

 日光道中で唯一の関所と、渡船場の両方があったところだという。利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を「房川(ぼうせん)」と呼び、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。

将軍の日光参詣の時には、3か月かけて川に60〜70艘の舟を並べその上に板を渡して橋としたそうだが、将軍日光参詣の時だけの船橋で、役目が終わるとすぐに取り壊されたという。

案内板はすでに判読できないほど風化している。もう少し埼玉県は文化の伝承に力を入れてもよいのではないでしょうか。

〈房川渡と中田関所跡〉
鶴峯八幡神社

 養和元年(1181)の創建と伝えられる。源頼朝が相模の国鶴岡八幡宮の分霊を勧請したもので、新田義貞が北条高時追討の際戦勝祈願したという。

という、由緒正しい神社なのであった。

この辺りにはりっぱな神社やお寺が多い。

〈鶴峯八幡神社 桜が満開〉

〈光了寺 静御前が後白河上皇から下賜された舞衣が寺宝〉

〈有名な寺のようだが説明板はこの通り〉

〈光了寺本堂〉
光了寺

 光了寺の創建は大同年間(806〜10)弘法大師空海が開山したのが始まりと伝えられており、当初は高柳寺と称し栗橋にあった。

文治5年(1189)、源義経を追って奥州平泉へ行く途中、この地で義経の訃報を聞いた静御前は高柳寺(光了寺)で義経の菩提を弔い、同じ年に自らも亡くなったと言われている。

光了寺には静御前が京都神泉苑で雨乞いの舞を舞った時に使用した「蛙蟆龍
(あまりょう)の舞衣」を始め、御前の守本尊、義経から拝領した懐剣、鐙などが保管されているという。寺宝の1つである木造聖徳太子立像は鎌倉時代から南北朝時代ころに制作され(行基作伝)像高96p、檜材、寄木造、玉眼入、彩色の像で茨城県指定重要文化財に指定されている。

〈歴史も由緒もあるお寺だった〉


〈中田宿の松並木 東海道にもこれほどきれいな松並木はない

〈と記されていたそうだが道路拡張と戦時中の松根油採取で全滅

〈青い舗装は自転車専用道〉

〈古河二高の校庭に原町一里塚が〉

〈浄善寺〉

〈古河宿に入った〉
古河宿

 日光街道の日本橋から数えて9番目の宿場である。将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城はと並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであったそうだ。

日本三大長谷観音の一つ

 鎌倉の長谷観音は有名で何度も行ったことがあるが、日本三大長谷観音の一つと言われてもピンとこない。一つはこの古河宿にある長谷観音で、もう一つは奈良県の初瀬長谷観音なのだそうだ。見に行きたい気もしたが、少し距離があるようなのでパスすることにする。

 日本三大観音の一つである古河長谷観音は今を去る事500余年前、室町幕府を開いた足利尊氏公の血脉をひく足利成氏公により建立された。

〈日本三長谷観音の一つがあるそうだ〉
 足利成氏公は宝徳元年(1449)に室町幕府の命を受け、京より関東管領として鎌倉に派遣され鎌倉公方と称されたが、関東豪族上杉氏と敵対したため幕府と対立し康正元年(1455)下総国古河に移り古河公方と称し、関東に足利成氏有りとの威厳を誇った。

 明応二年(1493)足利成氏公60才のとき、青春時代を過した鎌倉への望郷の念により、又長谷観音信仰によって、古河城の鬼門の地に鬼門除けとして明観山長谷寺を建立し、鎌倉長谷寺より御丈六尺八寸一分の木造長谷観世音菩薩様を勧請し御安置なされて以来、政氏公→高基公→晴氏公→義氏公と崇敬され、 特に義氏公の女氏姫様長谷観世音菩薩を一心に信仰され、その霊験あらたかな御利益により義親様を御誕生され、まさに観音経の子宝の文に「若し女人ありてたとえ男子を求めんと欲して観世音菩薩を礼拝供養せばすなわち福徳智恵の男子を生まん、たとえ女子を求めんと欲せば便ち端正有相の女子を生まん」のごとくでありました


とのことで、やはり鎌倉の長谷観音の分霊みたいなものらしい。

〈久しぶりの宿場風〉
 
〈古河は鷹見泉石が生まれたところらしい〉

〈古河城下高札場跡碑〉

〈跡ばかりで何も残っていないようだ〉
ないものはナイ

 自慢の品ぞろえなのだろう。「ないものはナイ」と豪語している店があった。

万が一ないものがあったら、そのときは「ないものはナイ」と開き直るのではないだろうか。

どちらにもとれる面白い言葉だ。

〈ないものはナイ
昼ごはん

 ちょうど12時になったので、なにか食べようと食事ができるところを探しながら歩くが、意外と店が少ない。

大きな町並みなのに、外で食事をする人は少ないのだろう。あまりきれいとは言えないが「やまご寿司」という寿司屋さんがあったので、入ってみることにする。

12時過ぎのお昼時だというのに、お客さんは一人だけで大丈夫かいなと思ったが、弥次さんはちらしずし、喜多さんは刺身定食を注文。

結論から言えば、800円のランチメニューであったが、魚の種類がたくさんで非常においしかった。大満足であった。

〈よこまち柳通り〉

〈長久山本成寺 さくらは満開だがイチョウは刈り込まれている〉

〈松原出口〉
一日で三県を歩く

 ここまでまだ8kmくらいしか歩いていないが、埼玉県の栗橋宿から、利根川を渡り茨城県中田宿古河宿と歩いて栃木県に入った。わずか3時間弱で三県を歩いたことになる。

歩いてきた道を振り返れば「茨城県」「古河市」の標識はあるのだが、反対側に当然あるはずの「栃木県」「野木市」の標識がない。自治体によっては手を抜く役所があることは、東海道・中山道を歩いてよく知っている。「野木市」は、ここから「栃木県」ですよという標識さえ建てるつもりはないらしい。

〈ここで茨城県から栃木県へ〉

〈野木神社への長〜い参道 500m近くあるらしい〉

〈野木宿周辺の松並木は見事だったそうだ〉

〈日本橋から64km歩いた〉

〈野木宿は江戸から10番目 下野最初の宿〉

〈満願寺の桜も満開〉

〈野木の一里塚跡〉

〈日本橋から65km 小山まで12km〉

〈「是より大平に至る」 の道標〉

〈かつては日光への裏道〉

〈野木周辺は縄文時代前期には東京湾が広がっていたそうだ〉

〈十九夜碑 安産の神様 如意輪観音〉

〈観音堂にお参り〉
佐野ラーメン

 栃木県に入っとたんに「佐野ラーメン」の店があった。広い駐車場にも車がいっぱいで地元では有名なのか、たくさんの人が入っていた。

先ほど寿司屋さんでおいしいお昼ご飯を食べたばかりなので、残念ながら食べられない。残念。

〈佐野ラーメン すごく流行っていた〉

〈宇都宮まで41km〉

〈日本橋から68kmを歩いてきたぞ〉

〈法音寺 応永2年(1395)創建 芭蕉の句碑があるそうだが素通り〉
小山市

 栃木県野木町から小山市に入った。人口は約16万人で、2005年12月に足利市の人口を抜き、県内では宇都宮市に次いで栃木県第2位の人口をもつ都市となったそうだ。

小山は鎌倉時代、鎌倉幕府の有力武家藤原秀郷流小山の居城、祇園城(ぎおんじょう)の城下であった。室町時代に幕府が京に移ると、守護の地位は国司・宇都宮氏や関東管領・上杉氏に授けられた。

江戸期の小山市域は日光街道の宿場町及び、江戸川に通ずる思川の舟運によって栄えた。思川の河岸である乙女河岸は世に言「小山評定」(徳川家康が関ヶ原合戦のため上杉景勝討伐をやめ、西に向かう評定をしたこと)後、兵馬の運搬に使われ、以降、幕府の厚い恩恵を受け日光東照宮造営のための資材船下ろし場となるなどして発展した。
〈ウィキペディアより抜粋〉

〈小山市に入った〉

〈日本橋より69kmポストをゆく〉

〈乙女一里塚跡〉
日本橋から70km

 平成12年1月7日、日本橋を出立して6日目でやっと70kmを歩いてきた。その間に甲州道中を下諏訪宿まで踏破しているのだが、東海道や中山道に比べて歩くペースが明らかに落ちている。

東海道で70kmといえば、大磯宿を過ぎたあたり。中山道では熊谷宿と深谷宿の間あたり、甲州道中では吉野宿、駅でいえば藤野駅あたりだ。

東海道では1/7、中山道では1/8、甲州道中でも1/3くらいの距離で、まだまだ江戸を出てすぐといった感じだが、日光道中はゴールの日光東照宮まで150km足らずなので、もう半分歩いたぞと胸を張れる距離だ。

〈やっと70km〉

〈仏光寺も桜が満開 徳川秀忠から10万石の寺領を与えられたという〉

〈若宮八幡宮〉
乙女河岸

 乙女とは何かしら由来がありそうな地名だが、これといった由来は分からないそうだ。

慶長5年(1600)徳川家康が会津の上杉景勝討伐に際し、武器や兵糧米を陸揚げしたことを契機として発展した河岸。

同年、小山で評定を終え関ヶ原の戦いに臨む徳川家康は、ここから乗船して江戸に下ったという。この時に、掛川城主山内一豊は家康にゴマをすりまくり、掛川城を家康に明け渡す約束をしたという。それが関ヶ原ののち土佐二十四万国を手に入れる契機となる。

日光東照宮が造営された時も、江戸からの資材はここで陸揚げされて日光まで運ばれた。
・・・

歩いてみなければわからないことが多い。

〈ここは乙女という地名〉
間々田宿

 間々田宿(ままだじゅく)は、江戸日本橋から数えて11番目の宿場である。天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒づつ設けられ、旅籠が50軒(大5,中17,小28)あった。宿内の家数は175軒、人口は947人であったそうだ。

本日は約16kmをあるいて終了。車を置いた埼玉県栗橋駅まで東北本線で戻る。

本日は一日で埼玉県→茨城県→栃木県と、3県を歩いた充実した街道歩きだった。何とか今年中には日光東照宮にたどり着きたいが、かなえられるだろうか。

〈本日の終点 間々田駅に到着〉
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