〈2日目〉 平成27年5月15日 金曜日 晴れ 境宿〜木崎宿〜太田宿〜八木宿
日光例幣使道続き

 5月2日にコンサートも無事に終え、オーケストラのHPの更新とCDの作成も済んだ。

何か月も練習してきて、440席のホールがほぼ満席ということでは上出来だったが、音楽的には弦以外との練習不足でいまいちな演奏になってしまった。でも、喜多さんはすごく良かったと言っていたので、ま 良しとするか。


〈佐野駅から東武伊勢崎線境駅へ移動〉
それはさておき、喜多さんが日光例幣使道の続きを歩きに行きたいというので、一泊で出かけることに
した。朝7時過ぎに横浜を出発した弥次喜多道中は、車で首都高から東北自動車道をひた走り、佐野IC
で降り、9:30には佐野駅近くの駐車場に車を停める。ネットで調べても出てこなかったが、1日単位
の駐車場を見つけたので、2日分1000円を払って佐野駅から前回歩き終えた境駅まで移動する。
   

〈11:34東武伊勢崎線境駅に着き、前回歩き終えた駅前から歩き始める〉
落語家 第五代 古今亭今輔

 5代目古今亭今輔、明治31年
(1898)〜昭和51年(1976)は、群馬県佐波郡境町(現伊勢崎市)出身の落語家。

本名は、鈴木五郎。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。
(ウィキペディアより抜粋)


〈落語家第五代 古今亭今輔生家 の標識が〉
 ということで、名前は知っていたが、昭和48年(1974)には、6台目春風亭柳橋の後任で日本芸術協会
2代目会長に就任、ちなみに3代目会長は4代目桂米丸だそうだ。

昭和6年(1931)には、3代目桂米丸を襲名し、昭和16年(1941)に5代目古今亭今輔を襲名したのだそうだ。
4代目桂米丸さんの落語は好きだったが、今年
(2015)亡くなってしまった。
   

〈板倉屋薬局の渋い建物〉

〈左 旧例幣使道木崎宿方面の標識〉

〈稲荷神社〉

〈二十二夜待塔〉

〈一級河川 早川 この水量で一級河川?〉

〈早川には鴨も泳ぐ〉

〈太田市に入った〉

〈地図の通り歩くとこんなところも歩く 国道で分断されている〉

〈辻地蔵の旧日光例幣使道道標〉

〈地蔵尊は椎名長兵衛が観音札所の西国三十三か所、坂東三十三か所、秩父三十四か所を無事に参詣したのを記念して建立したとある〉

〈医王寺 木崎宿が宿場で盛んなころ、目病で苦しむ方々の参拝者で知られた・・・とある〉

〈日光例幣使道 木崎宿の碑が新しい〉

〈照光山 長命寺は参道が長いのでパス〉
木崎宿

 江戸時代の木崎宿は、飯売女がたくさんいて、女たちは前借年季奉公で遠出が制限されていたことから、宿はずれのこの地蔵さまを参詣したことから、何時の頃からか「色地蔵様」と呼ばれるようになったといわれています。木崎宿色地蔵は、木崎音頭の一節にも唄われる高さ73cmの石地蔵尊で、風邪のはやる季節に亡くなった子ども達の霊をなぐさめ、子ども達の成育を祈願して建立されたといわれています。(WEB GUNMAより)

事前のリサーチが足りずに「色地蔵様」は見ずに通り過ぎてしまったが、木崎宿は飯盛り女のたくさんいる男のパラダイスだったようだ。

〈日光例幣使道 上州木崎宿碑〉

〈上州はうどんの産地 喜多さんの視線の先には広大な麦畑が〉

〈この辺りは旧道の雰囲気を探すのは難しい〉

〈なんてことない道をひたすら歩く〉

〈清酒 群馬泉と日光例幣使道〉
新田義興

 新田 義興(にった よしおき)は南北朝時代の武将。新田義貞の次男。建武4年(1337)、奥州の北畠顕家が西上する。これに呼応して上野で挙兵し、顕家の奥州軍に加わる。吉野で後醍醐天皇に謁見し元服。父義貞の戦死後越後に潜伏したとみられる。観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵する。尊氏が没した半年後の正平13年(1358)、義興は尊氏が亡くなったことを時期到来とばかりに鎌倉奪還のため挙兵、鎌倉をめざしたが、義興と主従13人は、多摩川の矢口渡で謀殺された。齢二十八。(ウィキペディアより抜粋)
挙兵したのがこの辺りだったということだろう。

〈新田義興卿菩提寺〉

〈旧日光例幣使道碑〉

〈碑のそばにはトイレとおっさん顔の子どもの像が しばし休憩〉

〈富士重工業群馬製作所  町名もスバル町 従業員用の駐車場は当然のことながらすべてスバル〉

〈追分地蔵〉

〈日光例幣使道と古河道の追分〉

〈享和3年(1803)太田宿の永竹幸助義信により建立とある〉

〈日光例幣使道 馬洗い場跡〉

〈アンパンもある自販機 江頭2:50の地元?と思って調べたら佐賀県出身だった〉

〈鳥居の上の大蛇を知らせようと吠えて例幣使の共侍に切り殺された犬を供養した、鳥居があったから大蛇がそこへ上がったのだ・・・〉

〈・・・ということで鳥居を外したそうな〉

〈一番左は弁財天と字が彫ってある 姿を彫るより楽だったのだろう〉
八木宿の八木節

 栃木県と群馬県地方で歌われる民謡。樽をたたきながら,明確なリズムに乗って歌う一種の口説で,大正中期頃から有名になった。

『国定忠治』『鈴木主水』
(もんど) 』などの曲目がある。本来は江戸時代、日光例幣使街道にあたっていた旧八木宿で歌われた盆踊唄であった。(ブリタニカ国際大百科事典)

〈八木宿に入ると八木節を歌い広めたという堀込源太の碑が〉
 日光例幣使街道の八木宿(栃木県足利市)を中心に栃木・群馬・埼玉3県境一帯で行われる民謡。
七・七調の口説
(くどき)形式の盆踊り歌で、酒だる・笛・鉦(かね)などの伴奏で歌う。明治後期、堀込
源太が歌い広めたので、源太節ともよばれた。
(デジタル大辞泉)

♪ハ〜 ちょいと出ました三角野郎が 四角四面の櫓の上で・・・というような八木節をその昔
テレビで聴いたような。三角野郎とは南伸坊さんのような三角顔のことを言うのでしょうか。

本日は、この八木宿のホテルルートインに宿泊。
   
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