〈1日目〉 平成27年1月24日 土曜日 晴れ 倉賀野宿〜玉村宿〜五料宿〜柴宿〜境宿 | |
〈平成20年6月に歩いて以来の倉賀野追分に戻ってきた 右が中山道 左が日光例幣使街道〉 |
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6年半ぶりに戻ってきた倉賀野宿 昨年6月に五街道を歩き終えて、次はどこを歩こうかとずっと考えていた。 魅力があるのは軽井沢を過ぎた「追分宿」から分岐する「北国街道」。長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県を経て、滋賀県の中山道鳥居本宿に達する長大な街道だ。 |
〈右江戸道 左日光道の道標 閻魔堂は建て替え工事中だった〉 |
他には、奈良県の「山の辺の道」。聖徳太子も歩いたという、日本最古の道と言われている。 あるいは、山口県の萩から山口へ通じる「萩往還」、維新の志士たちが歩いたであろう道も魅 力的だ。しかし、現実的にはなかなか遠すぎて実行するに至らない。とりあえず、中山道を歩 いた時に気になっていた倉賀野宿から日光今市宿へ至る「日光例幣使街道」を歩いてみよう と思う。正確には栃木県の楡木宿からは「壬生通り」(日光西街道)と合流して日光に向かうこと になるそうだ。 |
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車の伴走付き街道歩き 喜多さんは、このところ腰を痛めているらしく20kmも歩く自信はないと言う。一人の方が気楽なので電車で行く計画を立てていたが、是非ともついて行きたいという。ならばと足手まといにならないよう、車で行って伴走してもらうことにした。 7時過ぎに横浜の自宅を出発した弥次喜多道中は厚木から昨年開通した「圏央道」を経由して関越道をひた走り、予定通り10時前には群馬県高崎市倉賀野の追分に到着した。ここから弥次さんは歩き始め、喜多さんは3〜4km間隔で適当なところに車を止めて弥次さんの到着を待つという寸法だ。 |
〈例幣使街道と倉賀野常夜灯案内板〉 |
〈例幣使街道案内〉 |
〈次の宿 玉村宿へはまっすぐ進む〉 |
〈街道の左手に見えるのは赤城山か〉 |
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〈粕川の白銀橋を渡る〉 |
〈太陽光パネル設置断固反対 自然エネルギー礼賛も難しい〉 |
〈例幣使街道に沿って日本原子力開発機構の広大な敷地が〉 |
〈日本原子力開発機構のフェンスが延々と続く〉 |
日光例幣使街道 徳川初代将軍家康は元和二年(1616)4月17日、駿府城において75歳の生涯を終えた。その遺骸は 久能山に埋葬されたが、朝廷は幕府の要請に応えて東照大権現の神号を下賜し、次いで正一位の 神階宣下を行った。幕府は直ちに天海大僧正を中心として日光に浄地を求め社殿を造営、久能山 より日光山へ改葬、以来朝廷においては随時勅使を派遣して奉幣せしめていたが、正保三年(1646)、 長年、絶えていた伊勢神宮への例幣使を復活させるとともに、日光東照宮に対しても、毎年4月16日、 勅使をもって奉幣することを定めた。そして、それは幕府が瓦解する慶応三年(1867)まで続いた。 (平岩弓枝 はやぶさ新八御用旅 日光例幣使道の殺人より) ということで、221年にわたって一度も途絶えることなく続いた日光東照宮に対する、朝廷からの奉幣 の行事は、4月1日に京を出立し、倉賀野宿までは中山道を、倉賀野宿から例幣使道に入り、4月16日に 日光で奉幣後、4月末までに日光道中、東海道を経て京に帰るという行程が続けられたという。 |
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〈上州綿貫不動尊 不動山古墳の上に建っている〉 |
〈五世紀後半に作られた前方後円墳だそうだ〉 |
〈不動尊の御本体〉 |
〈古墳に埋葬されていた舟形石棺 蓋は不明とある〉 |
〈第1回目合流地 昭和病院で次の合流地を決める〉 |
〈群馬の森には県立近代美術館 県立博物館がある 時間があれば寄ってみたかった〉 |
〈残念ながら歴史的建築はまったく残っていない〉 |
〈トレーラーハウスを売っていた 安いので400万円くらいから〉 |
〈左手には雪をかぶった赤城山 玉村宿に入った〉 |
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神頼み 母親は今年の4月で満90歳になる。30歳の時に弥次さんを産んだから弥次さんは必然的に今年60歳になる。 両親の歳というものを明確に覚えている人がどれくらいいるか知らないが、弥次さんの場合は自分の歳プラス40歳が父親、プラス30歳が母親で非常に計算しやすかった。昭和30年生まれで、西暦でも1955年と足し算も引き算もしやすい。 |
〈稲荷神社〉 |
その父親は17年前に亡くなったが、母親は足と耳が弱ったものの元気で、頭もしっかりしていて 助かっている。・・・と思っていたところに兄から携帯に電話があった。母親がかなり弱っていて、 救急車で病院に搬送されたというのだ。道々の神社仏閣に立ち寄るたびに回復をお願いする。 神頼みの甲斐なく、母親は2月1日に逝去しました。神も仏もなく、生き物は必ずいつか死ぬ摂理なのでつらいけど仕方ありません。 |
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〈玉村八幡宮 戌年と亥年の人に特に霊験があるそうだ〉 |
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〈木島本陣跡歌碑〉 |
〈天保14年(1843)帰りも中山道を通った参議有長の歌〉 |
〈日光例幣使道は明和元年(1764)道中奉行の直接支配となり五街道に次ぐ道路として整備・管理されたとある〉 |
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〈例幣使は強請(ゆすり)たかりの語源になったほどこの街道で金品をたかったそうだ〉 |
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例幣使 「これは京で耳にしたことでございますが、例幣使にえらばれた公家の家は、祝いの客で門前市をなすようだと申します」 「その公家の家に出入りする商人は、俄かに物腰が低くなるとか」 「家格が上る故か」 「いえ、長年の借金を払ってもらえるからだそうでございます」 「やはり、お暮し向きはきびしいのでございましょうな」 |
〈例幣使も目にしたであろう常夜灯〉 |
「例幣使にえらばれるほどの公卿家でも、二百石足らずとか漏れ承りました」 「例外はありますけど、例幣使を承るのは大方、参議に列せられるほどのお家柄です。それでも、百五十石、二百石ですよってに」 「それに、お公卿はんいうのんは何百年も前から続いているお家が多くて、先祖の作った借金、孫子の代になっても返されへんて、よう笑い話にされてます」 |
〈しかし街道沿いには歴史的建築物は何も残っていない〉 |
それでも代々の出入りの商人が嫌な顔をしつつも手を切らないのは、いつ一陽来復の日が廻って来る かしれないので、そうなればこれまでの借金を何倍にもして取り返せるという算盤が働くせいであった。 その良い例が日光例幣使で、一度えらばれれば三代前の借金まで払い終えるなぞといわれる。幕府から 京都所司代を通じて支給される道中のお手当てが余程よいのか、と新八郎は思ったものだが、雪路の話 では、 「それだけやのうて、まだ、いろいろと・・・・・」 笑って、それ以上は流石に口に出さなかった。 平岩弓枝 「はやぶさ新八御用旅」日光例幣使道の殺人より抜粋 要するに、沿道の人々の接待や寄進だけでなく様々な役得があったということだ。 |
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〈五料宿に入った〉 |
〈平徳山 常楽寺〉 |
〈利根川にかかる五料橋を渡る 利根川と赤城山が美しい〉 |
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〈浅間山が富士山のように見える〉 |
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〈こちらは草津白根山 苗場方面か 雪で真っ白〉 |
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〈伊勢崎市に入った〉 |
〈柴宿に入ったが見事に普通の地方の町〉 |
〈柴宿にわずかに歴史を感じさせる道が残っていた 水路は復元したもののようだ〉 |
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〈お〜 立派な松の木が と思ったら柴宿本陣跡 関根家〉 |
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〈雷電神社と鏝絵(こてえ) 鏝絵とは左官職人がしっくいに左官こてで描いたもの〉 |
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〈大きなめだかやさん〉 |
〈曹洞宗 昌雲寺〉 |
〈旧日光例幣使道の脇には立派な東京福祉大学が それにしても群馬県に東京福祉大学?〉 |
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〈豊武大神〉 |
〈伊勢崎織物 大絣発祥の地碑〉 |
〈芭蕉句碑 涼しさやすぐに野松の枝の形(なり) はせを〉 |
〈住吉山 延命寺〉 |
〈子供の森公園 伊勢崎 広くてりっぱ〉 |
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〈道祖神 庚申塚〉 |
〈上州名物焼まんじゅう 忠治茶屋 そばを食べたばかりでパス〉 |
〈受験合格祈願 菅原神社〉 |
〈群馬県といえばネギだが下仁田ネギではないようだ〉 |
〈国道の脇に残っている旧道 輿で居眠りをしていた勅使が迎えの役人に起こされて乳母の懐に抱かれていたようじゃのう・・・と言ったとか〉 |
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〈正一位一本松稲荷大明神 御嶽山 遠方まで出かけなくても信仰できるようにと木曽御嶽山の霊場を分祀〉 |
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〈歩いてきた旧日光例幣使街道を振り返る〉 |
〈境宿 織間本陣跡〉 |
本日の歩き旅は、倉賀野宿〜玉村宿5.8km、玉村宿〜五料宿4.8km、五料宿〜柴宿1.0km、 柴宿〜境宿9.0kmと合計約20kmだ。初めて車の伴走つき歩き旅をを敢行したが、3〜4kmごとに コンビニや郵便局の駐車場で待ち合わせることにして、自分のペースで歩けて良かった。 人間は確実に歳を取ってゆく。定年になってからゆっくりとなど考えていると、その前に歩けなく なっているかもしれない。実際に喜多さんは東海道や中山道を一日20〜30km歩いたこともあった のに、今は「絶対無理」と言っている。次回は一人で電車で来るかもしれないから、東武伊勢崎線 の境町駅近くで本日の旅を終えて帰ることにする。 |
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