〈八日目〉 平成25年5月5日 日曜日 子供の日 晴れ 小金井宿〜石橋宿〜雀宮宿
 
〈小金井一里塚〉
GW二度目の日光道中

 4月27日に間々田宿から小金井宿まで歩いたばかりであるが、天気も良いしこの際続きを歩いておくことにする。
日光の杉並木は、春の杉花粉の時期や夏の炎天下を歩くよりは、やはり秋晴れの日に歩きたいので、暑くなる前に
できるだけ杉並木に近づいておきたい。
前回同様、横浜発8時7分の小金井行湘南新宿ラインのグリーン車に乗り込めば、終点の小金井駅に10時8分に到着。
乗り換えなしで快適に前回歩き終えた小金井宿に着いた。
国指定史跡 小金井一里塚 大正十一年三月八日指定

 この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(1884)ですから、この日光街道は約280年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。
 一里塚は、江戸の日本橋を基点として一里
(約3.927km)ごとに築かれました。小金井一里塚はその二十二番目の塚で、江戸から二十二里(約86.4km)の地点であることを示しています。(実際の距離は90km以上あります)
 塚は五間
(約9.1m)四方の四角形に築かれ、榎が植えられていましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と檪(くぬぎ)の巨木が同居しています。
 一里塚は荷物や人を運ぶ賃金の標準となり、旅人にとっては道のりの目安になって大変便利でした。また、現代の私たちにとっては町のシンボルであり、過去と未来を結ぶ文化財です。大切に保存しましょう。
 平成2年(1990)建立 国分寺町教育委員会

〈国指定史跡 小金井一里塚説明板〉

〈歩いてきた旧日光道中はここで行き止まり〉

〈この幅が江戸時代の日光道中 結構広い〉

〈榎とくぬぎが同居〉

〈慈眼(じげん)寺 新田義兼により建久7年(1196)創建された古刹 将軍が日光社参の際は昼休所として使用〉

〈道路改修の際に集められたのだろう 十九夜・二十二夜・二十六夜碑も〉

〈江戸時代から残る鐘楼〉
 
〈金井神社 小金井宿の鎮守〉

〈見世蔵 呉服屋だったらしいが傾いている〉

〈この辺りは整備されすぎて何も残っていない〉
 
〈麦畑の緑が美しい このあたりの旧日光道中は農道として残っている〉
 
〈稲荷神社参道口 笹原新田を開拓した住民が万治2年(1659)に創建したという〉
自治医科大学

 1972年開学。へき地医療、地域医療の充実を目的に、各都道府県の共同の出捐によって作られた学校法人の形態を取る。このため、大学の運営には各都道府県の負担金や、「全国モーターボート競走施行者協議会」による競艇収益金の寄附金、大学のある栃木県が発行する特別の当選金付証票〈宝くじ、地域医療等振興自治宝くじ、愛称レインボーくじ)の収益金が充てられたりしている。

名目上は学校法人自治医科大学が設置する私立大学となっているが、実際には自治省(現総務省)が設置した大学であり、総務省の自治系職員が大学に出向し事務局を統括し、元総務事務次官が理事長を務める。入試面では私立大学らしく大学入試センター試験には参加しない大学独自の方法で行うが、医学部ではその設置趣旨のためか各都道府県の定員枠(2名ないし3名)により選抜するという異色な方法をとる。
〈ウィキペディアより抜粋〉

休日おでかけパスの北の終点はこの自治医科大駅。

〈自治医科大学〉
 
〈本当はまっすぐ続く旧日光道中だがここで棄てられた道になっている 今は通れない〉
 
〈本日の昼食はとんかつに決定 黒豚とんかつ合掌 久しぶりのとんかつはおいしかった〉
黒豚とんかつ合掌

 本日の昼食は、ラーメンかそばに傾いていたのだが、街道の右手に「黒豚とんかつ合掌」「大型バス歓迎」のインパクトのある看板が見えてきた。よし、久しぶりにとんかつでも食べるか。

店の入り口に大きな木が置いてある。『この杉は樹齢370年。東照宮建造の時に植えた御神木とも言われ、屋久杉、秋田杉と共に日本の銘木に数えられています。この杉は平成10年2月に古枯れで危険なため伐採された杉です。』 
とある。日光杉並木が近いことを彷彿とさせる。

このところ体重を気にしてとんかつ類は遠ざけていたのであるが、おいしくいただいた。

〈日光杉並木の立ち枯れた大杉〉
 
〈合掌の隣の城門 説明によると慶応・明治の討幕戦争の際、戦費調達のため譲渡したものを再移築したとある〉

〈城門の奥にある古民家風 いわれが良くわからない〉

〈日本橋から91km〉

〈道路拡幅工事の際集めたのだろう 石仏群〉

〈日本橋から92km〉

〈宇都宮まで16km〉

〈日本橋から93km〉

〈愛宕神社 創建天平宝宇3年(759)という古社〉
 
〈開雲寺 3代将軍家光日光社参の際に境内に御殿所が建てられのちに下賜されたという〉
上三川町(かみのかわまち)

  上三川町(かみのかわまち)は、栃木県南部に位置し、河内郡に属する町である。 現在、河内郡で唯一の自治体となっている。

上三川町は関東平野の北部、栃木県中南部に位置し、東京から直線距離で約90km北方に位置する。町域は平地部と河川から成り山は無い。町の北部は宇都宮市、東部は真岡市、西部と南部は下野市に接し、町の中心部には田川が南北に流れ、江川を挟んで真岡市との市町境には鬼怒川が流れる。市西部の下野市堺には東北新幹線と宇都宮線が南北に走り、下野市域にある石橋駅(下野市石橋)には東口が設けられており、当町の最寄駅となっている。
〈ウィキペディアより抜粋)

とのことだが、宇都宮市にも下野市にも与しない理由はなんだろうか。それにしてもどうしてこれを「かみのかわまち」と読めるのか。

〈上三川町に入った〉
 
〈凝って造った割にはつぶれてしまった飲食店 どんなコンセプトだったのだろう〉

〈肖像画の店〉

〈鞘堂地蔵尊 戦死した兵の鞘を集めて埋めたという〉

〈星宮神社〉

〈下野市にちょっとだけ入る 前方は北関東自動車道〉

〈北関東自動車道を真下から見る〉
宇都宮市

 宇都宮は、蝦夷平定のためこの地に足を踏み入れた豊城入彦命が開祖といわれており、当時「池辺郷」といったこの地に命を神として祀った宇都宮二荒山神社(社伝によると353年と創祀)の門前町として、また二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家道兼流・宇都宮氏の直轄地として栄えた。

江戸時代になると徳川家康との廟所となった日光へ向かう日光街道と奥州白河へ向かう奥州街道が整備され、二つの街道の分岐点(追分)となる宇都宮宿の宿場町ともなった。

1868年の戊辰戦争の折には、藩主・忠恕は新政府方に就くが、大鳥圭介・土方歳三ら率いる旧幕府軍の侵攻に退散を余儀なくされた。宇都宮城に入った旧幕府軍と巻き返した新政府軍は、宇都宮市六道の辻〜宇都宮城・二荒山神社付近で激戦を繰り広げ、物量に長じた新政府軍は新田町の延命寺と桂林院に砲台を並べ、旧幕府軍が陣取る宇都宮城などに砲弾を浴びせ、優勢となった新政府軍が宇都宮の地を旧幕府軍より奪還、旧幕府軍は明神山から日光方面に向け退却した。この折の戦火で、城下町を含む宇都宮城下の主たる建造物が焼失してしまった
〈ウィキペディアより抜粋〉

〈宇都宮市に入った 歴史のある町〉

〈自衛隊の車輛が垣間見える〉

〈もどれ!! まだ間に合う かなり強引なジパング麺〉
陸上自衛隊 宇都宮駐屯地

 へ〜、こんなところにも陸上自衛隊の基地があったとは。住宅地のすぐそばだが、自衛隊の車輛が駆け抜けていくのが住宅の隙間から見える。

今年も4月7日(日)に創立63周年記念祭が行われ、観覧行進や訓練展示が行われたそうだ。訓練展示と書くと単に展示してあるように思えるが、実戦さながらの訓練を目の当たりにできる。昨年8月には東富士演習場での演習を見学したがものすごい迫力だ。


やっと憲法改正論議が活発になってきて、自衛隊の存在意義がまっとうに語られるようになったが、それでも自衛隊を認めたくない人がいるようだ。どうして日本を守る自衛隊が軍隊だったらいけないのか。自衛隊の若者たち、めげずに日本の防衛を頼んだぞ。

〈日本橋から97km〉
 
〈陸上自衛隊 宇都宮駐屯地正門〉
雀宮(すずめのみや)

 日本橋からほぼ100kmの雀宮宿で今回の街道歩きの旅は終了。
このあたりの日光道中は、ほぼ国道4号線に拡幅工事されていて、本陣跡や一里塚跡など石碑さえないところがほとんどだ。
日光には数えきれないくらい訪れているが、まず東北自動車道から日光宇都宮道路を走るから、このあたりの国道4号線を車で走ったこともまずない。

きれいに整備された道路からは、この道がかつて徳川代々の将軍が日光社参の行列を組んで通った道という風に感じることは難しいだろう。

雀宮(すずめのみや)とは、いわれが気になるがさまざまな言い伝えがあり定かではないようだ

〈本日は雀宮駅で終了〉
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