〈八日目〉 平成20年9月14日 日曜日 晴れ 倉賀野宿〜高崎宿〜板鼻宿〜安中宿 | |
7月・8月の真夏には、さすがに歩く気にはなれない。 ましてこのあたりは日本の最高気温の記録を作ったところだ。 |
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倉賀野宿からスタート 9月の3連休のうち1日は歩きに出かけたいと思っていたが、初日の土曜日は家の用があったので、中日の日曜日に一人で出かけることにした。だんだん歩く始点が遠くなるので、歩き始める時間も遅くなる。前回歩き終えた倉賀野駅に着いたのは10時10分ころだ。 本日は、高校時代からの友人のFが浦和にいるので、都合がよければ帰りに会って帰ろうと、駅から中山道に向かって歩きながら自宅に電話をしてみた。電話には奥さんが出て、実は奥さんも同級生なのだが、今日は会社にでているという。 「世の中は3連休なのに、ワシは3連勤じゃ」といって出かけたらしい。 |
〈倉賀野宿脇本陣跡〉 |
倉賀野神社と岩国弁の会話 街道よりちょっと左に入ったところに倉賀野神社があったので、立ち寄ってみる。ここには良寛を世に知らしめた国学者・飯塚久利の碑があるとあったが、勉強不足の弥次さんは知らない人だった。 ちょうど神社に入りかけたときに、Fから電話をもらった。「おうN(弥次さんの名前)徘徊を始めたっちゅうじゃないか」「いや徘徊じゃないが(せめて放浪と言ってくれんかのう)、仕事中にわるいのぅ」「いや、仕事ちゅうても期限のある仕事じゃないけぇ、ちょっと片付けに来ただけなんじゃ。お前が来るっちゅうのを聞いたら、仕事もやる気がないなったけぇ、午前中で帰ることにするいや。」「じゃけど、これから安中まで歩くんで、行けても夕方ど」「ほうか、Kも呼んどくけぇ、夕方また連絡してくれるか」というような、岩国弁丸出しの会話があって、弥次さんは本日のゴール安中宿を目指して歩き始めた。 |
〈倉賀野神社〉 |
〈いかにも古そうな石仏〉 |
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〈安楽寺 南北朝の頃の石碑らしい〉 |
〈寺の後ろは古墳のようだ〉 |
〈立派なイチョウ並木〉 |
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〈お〜、あれも古墳みたいだ〉 |
〈次の宿までの距離を教えてくれる〉 |
【第13次 高崎宿 本陣も脇本陣もなかった 城下町のため大名が泊まりたがらなかったためだ】 | |
〈木曾街道六拾九次之内 高崎 広重画〉 |
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宿場まんじゅう 高崎線に沿った中山道を歩いていくと、上越新幹線のガードをくぐり高崎の宿に入った。りっぱな並木が続く。 高崎はこのあたりの中核をなす都市で、東京方面、軽井沢方面、新潟方面、栃木方面と四方に鉄路が延びている。前に来たときにはダルマ弁当をお土産に買って帰ったが、今回は通り過ぎるだけだ。 街道沿いに「宿場まんじゅう」の看板があった。この高崎には江戸時代も四方から人や物が集積したことだろう。 |
〈宿場まんじゅう〉 |
〈中山道から高崎駅を見る〉 |
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〈安中は左に〉 |
〈日陰がうれしい〉 |
日本一しょうゆ しかし暑い。 9月も中旬になったから少しは歩きやすい季節になったかと思い出かけて来たのだが、今日の暑さは予想以上だった。お茶で水分を補給しながら帽子とサングラスで顔をおおい、日焼け止めをしっかり塗ってできるだけできるだけ日陰を歩く。 本町3丁目の信号で左折すれば板鼻宿・安中宿へ続く道だ。左に「日本一しょうゆ直売」と自信たっぷりに掲げてある、いかにも実直にしょうゆを作っている感じの家があった。裏にはレンガの煙突もあり、このしょうゆ工場では本当に自信を持ってしょうゆを作って売っているのだろうと思う。是非1本買って帰ろうと思ったが残念なことに定休日だった。 |
〈日本一しょうゆ直売とあった〉 |
〈お寺かと思ったら個人の家らしい〉 |
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〈雰囲気のある家が〉 |
〈路地もいい感じ〉 |
〈からす川を渡る〉 |
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〈からす川 碓井川と合流する〉 |
〈君が代橋〉 |
からす川を渡る からす川にかかる「君が代橋」を渡り、右へ折れるとその道が旧中山道だ。右矢印で「榛名山」の案内標識も見える。 車では、安中は新しい道をまっすぐに進むことになるが、街道歩きの弥次さんはこういう標識にはだまされなくなった。東海道を歩き始めた頃は、つい歩きやすい方へ歩いてしまったために引き返すことが多かったが、最近の弥次さんは旧道がにおいでわかるようになった。 |
〈旧中山道は右へ〉 |
〈かつては草津の湯を目指した人も歩いた中山道〉 |
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〈板鼻宿0.5km〉 |
〈くさつみちの道標〉 |
〈相変わらず誰もいない中山道〉 |
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〈あちこちの家にこののぼりが〉 |
〈五目焼きそばがおいしかった中華料理店〉 |
高崎だるま さすがにこのあたりは高崎達磨の本場だ。歩く道々に、「高崎だるまあります」というのぼりが立っている。一見普通の民家にしか見えない家にも、「だるまあります」ののぼりが立っている。このあたりの人は内職にだるまを作っているのだそうだ。 型から出したばかりのだるまが外に干されていた。こんなだるまに色をぬって、ひげを描くのを各家庭でやっているのだろうか。高崎のだるまは全国の80%のシェアがあるそうだ。 1時になり、おなかがすいたので中国料理四川という店で、五目焼きそばを注文した。横浜の中華街でも通用するおいしいそばだった。 |
〈化粧前のだるま〉 |
茶屋本陣跡 若宮八幡宮を過ぎた左手に「茶屋本陣跡」という看板があった。早速あがりこんで見学する。案内のおばさんがうちわを貸してくれたので、汗の流れる顔に風を送りながら部屋を見せてもらう。 茶屋本陣というのは、宿泊する本陣ではなく、休憩のための本陣のようで、大名の参勤交代や上級武士・公卿の喫茶や昼食のために用いられた休憩施設です・・・と案内にはある。 宝暦7年(1757)には日光例幣使であった五条宰相菅原為成が、また文久元年(1861)には皇女和宮御下向の際に公卿などが客人として立ち寄ったともある。今は群馬県の指定史跡となっている。 |
〈茶屋本陣跡〉 |
〈200年前の庭だそうだ〉 |
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少林山達磨寺 どうもだるまが気になる。 少し街道を外れるが、少林山達磨寺へ行ってみるしかあるまい。 欄干にも達磨が置いてある橋を渡り、300メートルも歩くと長い階段のある達磨寺があった。 |
〈少林山達磨寺山門〉 |
〈少林寺達磨禅寺〉 |
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〈DARUMAはインターナショナルになったか〉 |
〈高崎はどこもかしこも達磨だらけ〉 |
〈日本のだるま 全国にいろいろなだるまがあるもんだ〉 |
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〈長い階段を上るとさらに達磨が〉 |
〈本堂にもだるま だるま〉 |
〈中曽根さん、小渕さんの必勝だるま〉 |
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〈ここでは絵馬ではなく絵だるま〉 |
〈ちゃんと願がかなったのか〉 |
だるまもこれだけあちこちにあれば少し食傷気味になる。 長い階段を上った先の本殿には、両目が入って願のかなったと思われる達磨がたくさん奉納してある。 地元群馬県の中曽根さんや小渕さんの必勝だるまもだるま資料館にあった。ここでは願をかける絵馬も絵だるまなのだ。 |
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〈上野国一社八幡宮の大鳥居〉 |
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〈達磨寺へ渡る橋から碓井川〉 |
〈安中市にはいった〉 |
【第14次 板鼻宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠54軒 上野7宿で旅籠が最も多かった】 | |
〈木曾街道六拾九次之内 板鼻 英泉画〉 |
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〈板鼻宿本陣跡〉 |
〈双体道祖神〉 |
板鼻堰 街道の裏手にきれいな水が流れているところがあった。これは「板鼻堰」といって、碓氷川と九十九川の合流点から取水し、安中市東部から高崎市西部に配水する用水だそうだ。 横浜あたりだと鯉が泳いでいたりするが、魚はまったく見えなかった。もっと実用的な用水路なのだろう。 |
〈水のきれいな板鼻堰〉 |
〈鷹ノ巣橋からの碓井川〉 |
〈安中宿はすぐそこ〉 |
高校の同級生と宴会 今日はFとの約束があるので休憩もほとんど取らず歩き続けた。安中駅3時15分という電車があったのだが、 達磨寺に立ち寄ったせいで間に合わなくなってしまった。途中で走ろうかと思ったが、さすがにそんな元気は 残っていない。3時半頃に安中駅に着いたが、次の電車は4時13分だ。あせっても仕方ないと駅のベンチで くつろいでいたら、アナウンスが流れてきた。「本日のみの臨時列車が3時45分発で高崎駅に出発します」と いうもので、くつろいでいた弥次さんは、超ラッキーとばかりに止まっている電車に飛び乗った。 幸福と不幸はうらおもてというが、喜んで乗った電車が走り始めてからサングラスがないのに気がついた。 気に入っていたサングラスだったが、走って電車に乗り込んだときに落としてしまったらしい。でもまあ、 たかがサングラス。6時過ぎに東浦和駅に着いたが、Fが迎えに来てくれていた。Fと奥さん娘さんと、それ から練馬からわざわざ来てくれた、やはり同級生のKと夜遅くまで楽しく飲んで話をした。もちろん全員が 岩国出身なので、岩国弁しか話さない。ストレスの発散になるね。 F子さん、突然お邪魔してすっかりご馳走になってすいませんね。 いや〜、同級生って本当にいいものですね、と水野ハルオさんの口真似をして、磯子の家に着いたのは 1時半を過ぎていた。磯子駅行きの最終電車だったが、桜木町駅でドーンという大きな音に振り向くと、 40代と見える体格のいい男性が床に倒れて頭から血を流している。 駅員さんが担架を持ってきて5人がかりで運んでいったが、大丈夫だっただろうか。 飲みすぎには気をつけよう。 |
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