〈七日目〉 平成20年6月28日 土曜日 曇り時々晴れ 本庄宿〜新町宿〜倉賀野宿
【第10次 本庄宿 本陣2軒 脇本陣2軒 旅籠70軒 家数1,212軒 人口4,554人の中山道最大の宿場町だった】

〈木曽路の駅 本庄宿 神流川渡場 英泉画〉
ホリデーパス

 今日は一人で前回歩き終えた本庄駅から歩く。喜多さんは、先週中学時代の友達と京都・大阪の旅行に行ってきたばかりで、今週は掃除、洗濯に専念するという。

前回に引き続き、ホリデーパスを利用して本庄駅に着いた。このホリデーパスは、東は成田、西は奥多摩・大月、南は平塚、北は熊谷まで一日乗り放題で2,300円というすぐれもののお得なキップなのだ。

ちなみに、普通乗車券を買うと磯子〜熊谷往復で3,780円、実に1,480円もお得なのだ。十分に昼ごはん代がでる勘定だ。

〈休日はホリデーパスがお得〉

〈中山道本庄宿〉
   
〈なぜか歩道にパンダとチューリップ〉
〈お〜 これは年季の入った家だ〉 
   
本庄宿

 今まで埼玉県のことをあまり良く書いてこなかったが、この本庄市は今までの埼玉県と違って文化の香りがする
街だった。

本庄は江戸から10番目の宿で中山道最大の宿場町だった。旅籠も多く繁華な宿場で、飯盛り女が100人以上もいた。
そのため助郷に来た近郷の若者が村に戻らず、役人に取締りの願いが出たという。
(山と渓谷社 中山道を歩く)

また、「書肆
(しょし)〈書店〉があり、文広堂や新古本屋林というも見ゆ」とあって文化面も高かったようである。
とあるが、歩いてみればわかる。この本庄市は、街道沿いの家の敷地が皆広く、家も立派で余裕が感じられる。文化
的な宿場であったに違いないと思わせるに十分だ。

〈金鑚(かなさな)神社 PCの変換にも出てこない〉
   
〈金鑚(かなさな)神社のクスノキ〉
〈みごとな極彩色の彫刻〉
金鑚神社

 この宿は武蔵七党の武士団・児玉党一派の本庄実忠が、室町時代に本庄城を築いたことに始まる。その後は
徳川氏の関東入国で、天正18年
(1590)家臣の小笠原信嶺が本庄城の城主となり、城下町として発展する。
〈中山道を歩くより〉

ということで、本庄市は本庄さんが作った町だったのだ。右手にこんもりとした森が見えてきた。何と読むのか
わからなかったが、金鑚
(かなさな)神社と読むのであった。りっぱな鳥居と、埼玉県の天然記念物になっている
大クスノキ、さらには極彩色の彫刻が美しい神社であった。

〈石垣も美しい〉
   
〈見事な彫刻がたくさん〉
〈天然記念物 クスノキ〉
 この神社は、寛永16年(1639)本庄城主の小笠原忠真が創建したもので、神紋も小笠原氏の紋であるという。

〈誰も歩いていない本庄宿の中山道〉
   
 
 その先の街道を行くと、歩道に何やら埋め込んである。見ると中山道の各宿場のプレートが延々と
埋め込んである。このサービス精神が、今までの埼玉県には蕨宿以外ほとんどなかった。本庄宿の
プレートもあったので、記念に撮影しておいた。

その先を左に折れると、まっすぐ伸びた旧中山道が閑静な住宅街に沿って続く。
ひと味違う本庄宿

 深谷宿あたりでは、木も丸裸にされかわいそうであったが、さすがにこの本庄宿では、ちゃんと剪定された木が多い。

この違いは何であろうか。住民の民度の問題なのか。それとも行政のせいなのか。

〈きれいに剪定された木が多い〉
 6月も末であるが、今日はそんなに暑くもなく快適に歩いている。道の脇にはひまわりも咲いている。

街道の左手に、何やらこんもりしているところが見えてきた。浅間山古墳と案内板にある。

〈浅間山古墳 埼玉県は古墳が多い〉
   
〈浅間山古墳に立ち寄る〉
〈補修がいまいち雑な感じ〉
浅間山古墳

 古墳というからには、当時の支配者階級のお墓なわけだが、このように表示がなければ、単なる小山という感じで見過ごしてしまうだろう。

案内板には、『
築造時期は出土遺物などから古墳時代終末期の7世紀後半に築造され、8世紀初頭まで墓として使用されていたと考えられます。

とあった。

〈7世に造られた古墳〉

〈相変わらず誰にも出会わない中山道〉
   

〈旧街道沿いにやっと歴史を物語る史跡が・・・〉

〈これは新しい七福神だ〉
陽雲寺

 陽雲寺という寺があった。
この寺には武田信玄の奥方の墓があり、寺の名前は信玄の奥方の陽雲院に由来するという。寺の中興の祖が信玄の弟、川窪信俊だったので、陽雲院は仏門に入ってこの寺に住んでいた。

寺には信玄と奥方夫妻の画像があるというが、残念なことに閉まっていて見学できなかった。

また、この寺には畑時能
(はたときよし)供養祠というのがあり、やっと歴史を語る史跡が出てきたという感じだ。新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ、金窪城に住した畑時能の供養祠とされている。

〈畑時能の供養祠〉  
   
 
 畑時能は秩父郡長瀞町の出身で、新田義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが、暦応2年(1339)越前
の国で足利方に討たれた。従臣児玉五郎左衛門光信が、時能の首級を携えて敵陣を脱出し当地に持ち帰り
供養したものという。

すごいのは隣にあった碑だ。元陸軍大臣元帥畑俊六、元第一師団長陸軍大将畑英太郎 霊位とある。南北朝
の頃の英雄の子孫は現代でも偉かった。そういえば、かつての埼玉県の県知事も畑さんではなかったか。

やっと、旧中山道らしくなってきた。旧東海道には、日本武尊や義経や家康や幕末の志士などが頻繁に登場
した。旧中山道には、あまりにもそのようなエピソードが出てこないのでつまらなく思っていたところだ。
しかし、新田義貞も出てきた。武田信玄も出てきた。今後が期待できそうだ。

〈陽雲寺〉
   
 
 しかし、残念に思えたのは、この陽雲寺のとなりが養豚場らしく、すさまじいにおいがしていた。

このような寺のすぐとなりで豚など飼ってよいのだろうか。
見た目には簡素な風格のあるお寺なのだが、あたり一面すさまじい豚のフンのにおいが漂っていた。

 

〈関東平野は広い〉
【第11次 新町宿 本陣1軒 脇本陣2軒 旅籠43軒 中山道が開かれた時には寂しい寒村だった】
   

〈木曾街道六拾九次之内 新町 広重画〉
神流川

 神流
(かんな)川を渡る。

この神流川は埼玉県と群馬県の県境ではないが、すぐ先がもう群馬県になる。このあたりは、東海道を歩いていたときと同じ雰囲気を感じる。

歴史のにおいがするのだ。

橋の両側に残る常夜灯には、文化十二年という字が見える。

〈神流川は東海道の川に比べると狭い〉

〈神流川橋の常夜灯 文化十二年とある〉
   

〈神流川橋を歩いて渡る〉

〈神流川には鉄道橋と自動車橋が並行してかかる〉
群馬県まで歩いてきた

 群馬県に入った。

群馬県・・・昨年は草津温泉と伊香保温泉に家族で来たが、車でもずいぶん距離を感じた。

埼玉県はつまらないといいながら歩いてきてよかった。これからたぶん本当の中山道が始まるような気がする。

〈群馬県に入った〉
新町宿

 群馬県最初の宿場は新町宿だ。

群馬県に入ったとたんに標識が親切になった。
これはやはり、行政が文化をどうとらえているかの違いのような気がする。

あと400メートルで新町宿だと思えば、疲れた足も少し元気になった気がする。

〈親切な標識 新町宿0.4km〉

〈ようこそ高崎へ 高崎市に入った〉
   

〈東京から94km〉

〈神流川合戦説明板〉
神流川合戦

 神流川古戦場跡の碑があった。

説明板によると、


天正12年
(1582)6月19日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。
瀧川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍1万6千を率いて石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、瀧川軍は戦死3760級の戦史に稀なる大激戦で『神流川合戦』と呼んでいる。


とある。またひとつ知らなかった歴史を覚えた。

〈神流川古戦場跡碑〉
 今までほとんど目にすることのなかった常夜灯が、群馬県ではあちこちに出てくる。

東海道を歩いているときには、常夜灯があれば道を間違えていない確証になって助かった。

街道歩きはこうでなくては・・・。

〈常夜灯は道の灯台〉

〈柳茶屋の芭蕉句碑 傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな〉
   
 
芭蕉句碑

 八坂神社という小さな神社があり、そこには芭蕉の句碑があった。

東海道ではあちこちに出てきた芭蕉の句碑ではあるが、中山道では始めて目にした。
(からかさ)におしわけ見たる柳かな

昔このあたりに柳の大木があり、側の茶屋を柳茶屋と言った。
新町宿の俳人、小渕湛水・笛木白水らが柳にちなむ芭蕉の俳句を撰して天保10年頃句碑を建てた・・・とある。
ということは、東海道にでてきたように、その場所で詠んだ句ではないようだ。

それより気になったのが、句碑の右にいる大きなトカゲだ。
すべり台にしがみついている大トカゲは意味なくていいね。

〈明治天皇が宿泊された家〉

〈新町宿の中山道 相変わらず誰も歩いていない〉
   
 
スリーデーマーチ発祥の地

 スリーデーマーチ発祥の地記念碑という案内板が見えてきた。スリーデーマーチ?365歩のマーチなら聞い
たことがあるぞ。♪3歩進んで2歩下がる・・・だ。水前寺清子だ。

何ごとも歩いて見なければわからないことが多い。説明を読むと、毎年7月オランダの田園都市ナイメーヘン
を中心に「歩けオリンピック」と愛称される世界最大の歩け歩け大会が開催され、世界30数カ国、3万人余の
歩く仲間たちが4日間、国境を越え民族の違いを越えて歩け歩けの祭典を楽しんでいます。
1977年の第61回大会に初めて日本選手団を派遣した私達は(中略)1978年11月、新町において「歩け歩け
全国大会・全日本スリーデーマーチを開催し、歩くふれあいの輪を大きく広げました。・・・とある。

趣旨はわかったが、スリーデーマーチの意味がわからない。4日間歩いたのならフォーデーマーチだろうが、と
勝手につっこんでみる。でも、歩け歩けの発祥の地の割には歩いている人はほとんどいなかった。
 この日はあいにく曇り空であったが、晴れているとこのあたりからこんなに山がみえるらしい。今度はいつ来れ
るかわからないが、できれば東海道を富士山を見ながら歩いたように、赤城山や妙義山を見ながら歩きたい。
〈清潔な緑色が美しいブドウ畑〉
〈車の多い道から右へそれると旧中山道〉

〈旧中山道の標識でほっとする〉

〈犬や猫さえ見ない中山道〉

〈登録有形文化財の家〉
登録有形文化財の家

 右手に『登録有形文化財 第10-0059-0077号 この建物は貴重な国民的財産です 文化庁』という石碑の
ある、りっぱな建物があった。

玄関から覗き込んでいたら、ちょうど補修中であったらしく木材が積んである。家の奥さんらしき人が出てきて、
1分前に弥次さんが冷たいコーラを買った自販機で、大量の飲み物を買い始めた。たぶん職人さんにあげる飲み
物だろう。もう少しこのりっぱな家の写真を撮りたかったのだが、奥さんが見てるので撮れなかった。

〈素晴らしいサイクリングロード〉
   

〈上は関越自動車道〉
  

〈中山道倉賀野宿4.4km〉
 このトンネルは関越自動車道をくぐるトンネルだ。その先は長大なサイクリングロードが始まる。サイクリング
ロードだから当然自転車は走っているが、ウォーキングに励むご婦人もいた。そのご婦人は60代半ばとお見受け
したが、弥次さんを追い抜いて颯爽と去っていた。追い抜きざまに「こんにちわ」と声をかけられた。こんな散歩道
があってこのあたりの人はいいね。
 
 

 〈サイクリングロードの先の柳瀬橋を渡る〉

〈からす川を渡る〉
   

〈からす川を渡り終える〉

〈倉賀野宿まで1.0kmの道標〉
 からす川にかかる柳瀬橋を渡ると、倉賀野宿までもうすぐだ。

今日の街道歩きはよかった。こんな日に限って喜多さんは来ない。埼玉県の国道沿いを歩く街道ばかり付き合って
きたものだから、中山道はつまらないといっているけど、今日歩いた本庄から新町、倉賀野の道は素晴らしかった。
だから、写真もいつもよりたくさん撮ってしまった。
【第12次 倉賀野宿 本陣1軒 脇本陣2軒 旅籠32軒 200人余りの飯盛り女がいた派手な宿だった】

〈木曾街道 倉賀野宿 烏川之図 英泉画〉

〈中山道と日光例幣使道の追分 閻魔堂の閻魔様〉
 
 
日光例幣使街道との追分

 また常夜灯があった。街道を歩き始めてからは、常夜灯を見ると安心する。旧道をちゃんと歩いている証明のようなものだからだ。案内板を見ると、この分岐点は日光例幣使道と中山道の追分なのだそうだ。道しるべの常夜灯には、左日光道、右江戸道とある。ここから日光例幣使街道は始まる。

正保4年
(1647)に第一回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣までの221年間,、1回の中止もなく継続されたという。常夜灯の後ろに見えるのは閻魔堂で、閻魔様もしっかり写真に撮ってきた。

(7年後、平成27年〜28年にかけてこの追分から日光東照宮までの例幣使街道を歩きました)

〈右が中山道 左が日光例幣使道〉
 このような、分岐でないところにも「中山道」の道標がある。

このごろは、しっかりと地図を持って歩いているから、ほとんど間違いなく歩けるようにはなっているが、この心遣いがありがたい。

群馬県はえらい!!

〈群馬県にはありがたいことにあちこちに道標が〉
 その先の標識に従い、倉賀野駅を目指す。

今日はいよいよ群馬県に入った。地図で見ると、群馬県はそんなに歩く距離はない。しかし、横川から坂本宿を越え、その先はついに碓氷峠越えだ。熊も出るという山道を旧道を探しながら歩くことになる。街沿いの道が恋しくなるかも。

湘南ライナー小田原行きがちょうど来るので、ビールでも飲みながらと思って、改札を抜けると・・・・売店がなかった。

いさぎよく諦めて、おとなしく横浜に帰った。

〈この先を右折すると倉賀野駅〉
ポータルサイトに戻る 目次
inserted by FC2 system