〈三十三日目〉 平成22年12月4日 土曜日 晴れ 武佐宿〜守山宿〜草津宿 | |
今回のようにビジネスホテルに泊まるときは、地元の居酒屋でビールを飲みながら夕食をとることが多いが、昨夜は外に出るのも面倒なのでホテルのレストランで夕食をとった。チェックインの時、フロントで生ビール(小)とおつまみのサービス券をもらったので、それも有効活用するつもりで1階にあるレストランに入ってみた。ビール(小)は本当に(小)でその通りの小さいグラスで出てきた。当然弥次さんは足りないので生中を追加で注文するが、喜多さんはこれで十分だという。新入社員らしい研修中の若い青年が初々しく働いていて好感が持てた。 |
〈今回の宿 ホテル21〉 |
喜多さんはカキフライ、弥次さんはペスカトーレを注文しシェアして食べるが、量的にはこれで十分。このようなところではついつい注文しすぎてしまうが、本日はこれでやめておく。 ホテルを7時過ぎには出発し、駅前のマクドナルドで朝食を済ませる。前回の彦根、米原、醒ヶ井駅ではどこにも店がなくて朝食を食べそびれたが、今回は大丈夫だ。 草津駅から野洲駅まではわずか7分。本日は再びこの草津駅前を通過して、瀬田の唐橋の先までを歩く予定だ。 |
〈草津駅から野洲駅へ向かう〉 |
〈野洲から草津へ向かう〉 |
〈近江富士の三上山が近くに見える〉 |
近江富士 三上山 約3年前、東海道石部宿を歩いた時は、大雪で近江富士と言われる三上山は全く見えなかった。 今回はラッキーなことに昨日の雨も東に去って好天の中、三上山がきれいなかたちを見せている。しかし、確かに富士山のように整った形だが、「近江富士」とまで言ってよいのだろうか。これは地方の商店街が銀座をなのっているようなもので、あまり詮索しない方がよいだろう。 野洲駅から昨日終点とした地点まで戻り、続きを歩き始める。 |
〈もうすぐ守山宿〉 |
〈中山道と朝鮮人街道の追分 右が中山道〉 |
|
朝鮮人街道 中山道は、江戸を攻めにくくするために、わざと西からの道を険しく作ってあると聞いた。下諏訪からも甲州道中を通れば江戸までの距離も短くて済むのに、わざわざ険しい和田峠を通させている。 朝鮮通信使は、西国大名より優遇されていて、朝鮮人街道と名付けられた道を通行させた。これは朝鮮人によりにぎやかな町並みと街道を見せて国威を見せつけるためだったとも言われているが、この道を大名行列が通ることは許されなかった。 |
〈たぬきの一家〉 |
〈守山宿への道はまっすぐ続く〉 |
〈藁ぶき屋根のお寺 唯心寺〉 |
背くらべ地蔵 鎌倉時代のもので、東山道(のちの中山道)を旅ゆく人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが、「我が子がこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。 弥次さんも背を比べてみたが、左の地蔵さんは身長約150cmというところで、江戸時代の大人の背丈くらいではないだろうか。子どもは右のお地蔵さんくらいになれば、死ぬ確率も低くなって、親も一安心というところだったのだろうか。 |
〈背くらべ地蔵〉 |
〈宇野酒造は指三本で失脚した宇野首相の実家だという〉 |
|
野洲川 もうすぐ野洲川を渡る。 東海道で野洲川を渡ったのは、水口宿の先の三雲駅の手前だった。平成19年12月24日のことだ。もうあれから丸3年が経とうとしている。 |
〈もうすぐ野洲川〉 |
〈野洲川を渡る〉 |
|
【第67次 守山宿 本陣2軒 脇本陣1軒 旅籠30軒 京発ち守山泊りといわれ朝鮮通信使の公式の宿となった】 | |
〈木曽海道六十九次之内 守山 広重画〉 |
|
守山宿 守山宿は、京発ち守山泊りといわれ、朝鮮通信使などの公式の旅の宿となった。また、女性など足弱の一泊目の宿としても利用された。 古くから東門院守山寺の門前町として発展したところでもある。旧中山道はまっすぐ西に向かう。 |
〈守山宿高札場跡〉 |
〈守山宿が始まる〉 |
〈商店街には中山道守山宿のおそろいの看板〉 |
守山宿本陣推定地 文久元年(1861)10月22日十四代家茂将軍に降嫁される皇女和宮は、この本陣に宿泊されている。 この本陣の場所は、昭和40年まで特定郵便局の局長宅だったそうだが、平成16年(2004)に取り壊されたと書いてあった。 |
〈守山宿 本陣推定地〉 |
〈中山道街道文化交流館〉 |
|
中山道街道文化交流館の向かいにある広場に守山宿の紹介があったので立ち寄って見る。 守山宿の紹介をしてくれるのだが、音声ガイドは自家発電方式だ。まず20回ほどハンドルを回し、聞きたい項目のボタンを押すと音声で説明してくれる。 追分の道標があるが、中山道はまっすぐの道をゆく。 |
〈右中山道 左錦織寺の道標〉 |
〈東門院 室町時代の建立だそうだ〉 |
|
東門院 当山は、比叡山東門院守山寺と称して、天台宗に属する寺院です。延暦7年(788年)に伝教大師最澄が、比叡山寺(後の延暦寺)を建立した時、四境にそれぞれ門を構えることにしましたが、その一つとして比叡山の東門として設けられたのが始まりです。 その後延暦13年9月3日に、比叡山の根本中堂開闢(かいびゃく)供養が行われ、湖上に舟橋を渡し、東門まで「善の綱(白布の綱)」を引渡して桓武天皇が、湖上をお渡りになってこられたのです。このとき、桓武天皇により比叡山東門院守山寺(比叡山を守る寺)と名号され、地名も守山と賜ったと伝えられています。 東門院HPより |
〈由緒ありそうな仁王様が〉 |
〈守山宿の中山道はまっすぐなので迷わない〉 |
|
今宿一里塚 今宿の一里塚は、江戸日本橋から草津までに129か所あった一里塚の128番目にあたるそうで、日本橋を出立して以来たくさん見てきた一里塚もそろそろ見納めだ。 128番目ということは、×4kmで計算すると516kmになる。よく歩いてきたものだ。 |
〈今宿一里塚〉 |
住蓮房母公墓碑 昨日歩いた史跡に住蓮房の悲話があった。 住蓮房の母親は建永2年(1207)2月9日、近江八幡の馬渕で打ち首に処刑される息子に一目会いたいと後を追って焔魔堂まで来たところ、すでに処刑されたことを知り、悲嘆にくれて尼ヶ池に身を投げて亡くなったのだそうだ。 後鳥羽上皇のわがままは、住蓮房の母親まで殺してしまったのだ。 |
〈住蓮房母公墓碑〉 |
〈大宝神社〉 |
|
〈大宝神社の灯籠には危険近寄るなの表示が〉 |
〈クスノキの大木〉 |
〈このあたりはへそという地名〉 |
〈これでへそと読むのは初めて知った〉 |
〈草津市に入った〉 〈東海道本線の下のトンネルをくぐる〉 〈目の前はもう草津の高層ビルが〉 |
|
〈伊砂砂神社〉 〈草津の中山道沿いは彫刻が多い〉 〈もうすぐアーケードの中山道〉 |
|
【第68次 草津宿 本陣2軒 脇本陣2軒 旅籠72軒 東海道との分岐点の宿】 | |
〈木曽海道六十九次之内 草津 広重画〉 |
|
〈中山道はアーケードの商店街になっている〉 |
|
草津追分 このアーケードの商店街で昼食をとった後、続きを歩く。 この先のトンネルを抜ければ東海道との合流地点に到着だ。この道自体は前に草津のホテルに泊まった時歩いているから初めてではないのだが、ついに、いよいよ、とうとう、2年10カ月ぶりに東海道と中山道が合流する追分に到着するのだ。 |
〈天井川の草津川をくぐるトンネル〉 |
〈草津追分道標 右東海道いせみち 左中山道みのぢ H20.2月に右の旧東海道を歩いてこの場所にたどり着いたのだ〉 |
|
〈草津本陣は前回見学したので今回はパス〉 |
|
〈前回も立ち寄った和ろうそく屋さん 今回はお香を買った〉 |
|
〈前回江戸時代の旅人になった歴史館〉 |
〈道灌蔵〉 |
〈立木神社 前回は立ち寄らなかったので参拝する〉 |
|
〈立木神社本殿〉 |
|
〈立木神社 1200余年の歴史を有する、滋賀県隋一の古社〉 |
|
草津川 |
〈新草津川を渡る〉 |
〈野路一里塚跡休憩所〉 |
〈野路一里塚跡碑〉 |
〈道路に描いてあるブロック 思わずスピードをゆるめそう〉 |
|
〈平清宗塚〉 |
|
平清宗塚 文治元年(1185)壇ノ浦の合戦で平家を破った源義経によって、父宗盛とともに生け捕りになった清宗は鎌倉から京へ上がる途中、本地(草津市野路町)において斬刑に処せられました。父が潔く斬首されたことを知った清宗は、最後に西方浄土に向かい手を合わせたと言われています。 この清宗塚は、遠藤さんという個人のお宅の庭にある。亨年16歳であったという。 |
〈平清宗塚由来〉 |
〈野路の玉川の説明板を見る〉 |
〈野路 萩の玉川〉 |
〈弁天池〉 |
|
ビューティーサロンかをり かをり寿司 ビューティーサロンかをりというのはどこにでもありそうだ。しかし、かをり寿司というのはどうだろう。寿司屋さんの名前にしては、寿司から化粧品の香りが漂ってきそうではないか。 たぶん奥さんが「かをりさん」なのだろうが、御主人はそこまで奥さんに譲歩しなくてもと思うのだが。それとも奥さんの方が強いのだろうか。 ・・・ちなみに喜多さんの本名は「香織」です。 |
〈かおり〉 |
ここから大津 3年前にも写真を撮った「ここから大津」の案内があった。 初めてこの道を歩いた時には先が見えないから遠くに感じたが、大津などはすぐそこだ。 |
〈ここから大津〉 |
〈東海道立場跡〉 |
|
〈前回も撮った一里塚跡 Yシャツの値段は3年前と変わっていない〉 |
〈新しい道標ができていた〉 |
〈電柱に東海道の矢印が〉 |
〈内田産業の大たぬき〉 |
〈再びたにし飴を購入 やはりおいしかった〉 |
|
【第69次 大津宿 本陣2軒 脇本陣1軒 旅籠71軒 琵琶湖舟運の港町として栄えた】 | |
〈木曽海道六十九次之内 大津 広重〉 |
|
瀬田の唐橋 近江八景の瀬田夕照で知られる瀬田の唐橋がすぐ目の前に迫ってきた。東海道の時にも書いたが、瀬田の唐橋は、俵藤太〈藤原秀郷)が三上山のムカデ退治をした民話で有名だ。 瀬田の唐橋は、相変わらず美しい姿を見せている。 |
〈瀬田の唐橋が見えてきた〉 |
〈美しい瀬田の唐橋と俵藤太のムカデ退治〉 |
|
〈瀬田の唐橋のたもとにはたくさんのミヤコ鳥が〉 |
|
〈パンをやると一斉に殺到する〉 |
|
〈瀬田の唐橋から さっきパンをやった場所を振り返る〉 |
|
〈前回は実感しなかったが、川の中の島で長い橋と短い橋がつながっていた〉 |
|
石山駅 一応本日の終点予定駅、石山駅に到着した。とりあえず、マクドナルドでお疲れさんとコーヒーを注文する。のんびりするうちに、外はまだ明るいし、もう少し歩いてみる?ということになった。今日頑張っておけば、最終日の明日楽になるからだ。この先の電車の駅のある地点までできるだけ歩いてみることにする。 石山駅には、東海道でも、中山道でもどこにでも句を残した芭蕉翁の銅像が建っていた。芭蕉はこの大津の義仲寺に葬られているのだ。 |
〈石山駅に到着〉 |
〈東海道を旅する芭蕉の像〉 |
|
今井兼平 今井兼平(1152?-84)は木曽義仲(1154-84)と乳兄弟にあたる平安時代末期の武将で、木曽の四天王とも呼ばれていた人物です。ここ粟津(あわづ)で義仲とともに戦って悲壮な最期を遂げました。義仲が討たれたことを知ると、自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降りたという話は、謡曲(ようきょく)「兼平」の素材となって語られています。江戸時代になって、兼平を尊敬した膳所(ぜぜ)藩主本多俊次が墓を建立したと伝えられています。現在の墓は、今井家末裔によって建てられたもので、「今井四郎兼平(いまいしろうかねひら)」と彫られた丸みのある石でできています。滋賀県観光情報より抜粋 |
〈今井兼平の墓〉 |
〈膳所城勢多口総門跡〉 |
〈折りたたみベンチのある家〉 |
〈京阪大津線〉 |
〈京阪大津線瓦ヶ浜駅〉 |
晴好雨奇亭址 この奥村歯科の角に「晴好雨奇亭址」の碑があった。晴好雨奇とは、晴天でも雨天でもすばらしい景色のことで、自然の眺めが晴天には美しく、一方、雨が降ったら降ったですばらしいことだそうだ。「奇」は普通とは違ってすぐれているという意味で、「雨奇晴好うきせいこう」ともいうらしい。 この家の向こうには琵琶湖の素晴らしい景色が広がっていたに違いない。本日は、中ノ庄駅で終了。草津まで戻って焼き鳥で一杯やることにする。 |
〈京阪大津線 中ノ庄駅〉 |
ポータルサイトに戻る | |