〈三十二日目〉 平成22年12月3日 金曜日 曇り一時豪雨のち曇り 愛知川宿〜武佐宿
五箇荘駅から続き 

 京都三条大橋まで約55kmを残していた弥次喜多道中は、10月・11月と何かとあわただしく中山道には出かけられなかったので、9月以来の中山道を歩く旅に出かけることにした。この距離は弥次喜多夫婦には一泊二日では少し厳しい距離なので、この際有給休暇を使って二泊三日で歩くことにする。

 車で行けば安上がりなのだが、日曜日に三条大橋に着いた後、横浜まで運転して帰るのはさすがに厳しい。月曜日から2〜3日は仕事にならないだろう。ということで、今回は初めて夜行高速バスを利用してみることにした。

〈横浜駅バスターミナルから深夜高速バスに乗り込む〉
 横浜を23時15分発、彦根駅前に6時頃着というJRのバスを予約した。一人6,500円也。3列シートで
トイレも付いているので安心だ。新幹線の半額で済むし、到着時間が早いので余裕を持って歩くことが
できる。
帰りの京都からの新幹線の指定席もとって、万全の態勢で最後の中山道歩きに出かけること
にする。今回の宿は草津駅前のホテル21というビジネスホテルを予約した。


とはいうものの、いくらリクライニングが付いている3列シートのバスだといっても、そう単純に寝られる
わけもない。とくに弥次さんは寝るときにはすごく神経質なのだ。寝られない時のためにウィスキーの
小瓶も用意していったが、やはり寝られなかった。喜多さんもほとんど寝られなかったという。
気持ちよくいびきをかいて寝ている人がいるから余計に腹が立つ。
   
 バスのお客は全員で8名程度だ。若い女性が目立つ。

ほとんど眠れないまま予定通りの時刻に彦根駅前に着いたバスから降りて、彦根駅から近江鉄道に乗り換え五箇荘駅を目指す。外はまだ真っ暗だ。

12月3日の朝、関東から東北にかけて暴風雨らしいが、関西はすでに嵐は通り過ぎて今は雨も降っていない。

〈彦根駅ではまだ外は暗い〉

〈早朝の私鉄ローカル線は当然ガラガラ〉

〈五箇荘駅に着いてもまだ暗い〉

〈2カ月半ぶりの五箇荘駅〉

〈民家のフェンスには赤大根が干してある〉
 晴れ男の面目躍如というところだろうか。午前中は雨の中を歩くことを覚悟してきたが、ご覧のように見事に晴れた。五箇荘の駅に着いた時にはまだ暗かったが、少し歩き始めるとうっすらと夜が明けてきて、みるみる明るくなってきた。

五箇荘は近江商人のふるさとと言われている。中山道から少し足を延ばせば近江商人屋敷や近江商人博物館があるのだが、今回は先を急がないと京都三条大橋までたどり着けない。残念に思うが、また今度観光で訪れることもあるだろうからと、近江商人屋敷には寄らないで先を急ぐことにする。

〈藁屋根を覆った入母屋の家〉

〈東近江市役所支所前のお堀〉

〈東近江市役所支所前に松並木の跡が残る〉

〈早朝の旧中山道は静か〉
近江商人の成功話

 宮荘の高田善右衛門は、17歳のときに父からもらった五両というお金をどう使うのが一番よいかをじっくりと考え、まず、美濃の国でたばこ入れを仕入れて、それを紀州への道すがら売り歩いたといいます。行商先の紀州はろうそくの産地だったので、とっさにろうそくの芯の燈芯なら売れる!とひらめき、煙草入れを売ったお金で、今度は八幡の産物・燈芯を仕入れて紀州へ売りに行きました。すると、さすがに必要不可欠な品物だけに飛ぶように売れました。

〈近江商人旅姿 近江市パンフより〉
 そして、紀州有田というのは茶の産地。茶摘みの仕事に必要な物と言えば笠ということで
近江の皮笠を仕入れて・・・というようにどんどん売り歩いたといいます。この時大活躍した
のが天秤棒。雨の日も風の日も天秤棒を肩に荷を運び、五両のお金は、行商を続けるだけで
千両にもなったといいます。この商法は「持ち下り商い」と呼ばれ、近江商人のほとんどは
この天秤棒を肩に、栄光への第一歩を踏み出しました。


 当時は、馬や船と言った便利な運送手段がありましたが、善右衛門をはじめ近江商人は、
絶対に天秤棒を離そうとはしませんでした。どこで何が必要とされているか、どこで何が必要と
されているか、どこで何が余っているかという情報は、自分の足で歩いてこそわかるからです。
たとえ、いろんな苦労をして財をなしたあとでも、やはりその基本となった「持ち下り商い」の
行商は、決してやめることはなかったということです
   

〈江戸時代の五箇荘の道〉

〈大正ロマンを感じさせる建物〉

〈民家の玄関に釣鐘が 梵鐘屋さん?〉

〈左いせ 右京道 常夜灯〉

〈明治天皇北町屋御小休所碑〉

〈近江商人の家?〉

〈五箇荘の優しい風景〉
清水鼻の名水

 国道8号線と並行する旧道をしばらく歩くと、天秤棒を担いだ近江商人の像がある所で、国道に合流する。すぐに今度は国道を渡り、反対側に残る旧道を歩くことになる。

国道の右の旧道には、「近江の国 清水鼻の名水」という史跡が残り、今も水が飲めるようだが、慎重な弥次さんは生水は飲まないのであった。好奇心の強い喜多さんは早速すくって飲んでいた。清水鼻の名水のすぐ裏手には、日枝神社のもみじが見事に紅葉している。

〈旧中山道 てんびんの里の像 右が旧中山道〉

〈日枝神社の紅葉と清水鼻の名水〉

〈干された大根の風情〉

〈どうだんつつじの赤 唐辛子の赤〉

〈奥石(おいそ)神社へ向かう〉

〈老蘇の森〉

〈奥石神社〉

〈奥石神社の鳥居〉

〈奥石神社本殿〉
老蘇の森(国史跡)と奥石神社

 今から約2250年前、孝霊天皇のとき、この地一帯は地裂け水湧いてとても人の住むところではなかったが、石辺大連(いそべのおおむらじ)と言う人が神の助けを得て、この地に松・杉・桧を植えたところ、たちまち大森林になったと伝えられています。また、この森は、万葉の時代から世の移り変りとともに、数々の歌に詠まれている名高い森であります。

 この森深く鎮まります奥石神社は、由緒ある名社として延喜式名帳に載せられているのは、きぬがさ山を御神体とするもっとも古く原始的・根源的な神社であったためと言われています。現在の本殿は天正9年
(1581)に建てられたもので、安土桃山時代の豪華さの中に優美な落ち着きを持つ建造物で、安土町の国指定の重要文化財の中では、唯一の神社建築であります。

〈轟橋〉
 ということで、ずいぶんと古くからの由緒ある神社と森なのであった。こういうところも中山道を歩いてなかったらまず来なかっただろう。ここは、信長が城を築いた安土だ。京までほんの少しの距離しかない。

右のお宅は杉原家庭園(滋賀県指定文化財 名勝)の案内表示があったが、中を見せてくれてはいないようだ。

〈杉原家庭園のお宅〉

〈老蘇幼稚園〉

〈鎌若宮神社〉

〈中山道 西生来休憩所 後ろには新幹線が走る〉
 西生来町というところには、ベンチを用意してあって旅人が休めるようにしてあった。少し座って休みたいのだが、今朝までの雨でベンチも濡れている。新幹線が猛スピードで走り去る音を聞きながら、続きを歩くことにする。

後ろの山の向こうは信長の安土城のあったところで、安土城考古博物館などもあるようだ。ごく普通の民家に「中山道武佐宿 お土産店
(武佐宿で一軒だけ)」の看板が掲げてあった。どんなお土産を売っているのかしらないが、ちょっと入りにくいのではないですか。

〈中山道武佐宿 おみやげ店〉
 醒井宿にあった「泡子伝説」がこの地にもあった。案内板によると、『何某(文字がかすれて読めない)という人が茶店を構え、妹が茶を出して旅人を休ませていた。ある日一人の僧が来てこの茶店で休憩したところ、妹はすぐに大変深くこの僧に恋をした。そしてこの僧が立ち去ると、僧の飲み残した茶を飲んだ。すると不思議やたちまちにして懐妊し、男の子を産み落とした。それから三年してその子を抱いて川で大根を洗っていると、旅僧が現れて嗚呼不思議なるかな、この子の泣き声がお経を読んでいるように聞こえるという。振り向いてその旅僧を眺めると、三年前に恋をした僧であった。妹が前年の話をすると、その僧が男の子にフッと息を吹きかけたとたん、泡となり消えてしまったという。僧が言うに、西の方にある「あら井」というところの池の中に貴き地蔵があり、この子のためにお堂を建て安置せよ。』現在は西福寺の地蔵堂に祀ってある。その昔は、このような話がまことしやかに語り伝えられていた。
〈泡子延命地蔵尊御遺跡〉
【第66次 武佐宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠23軒 健脚の人の一泊目の宿として利用された】

〈木曽海道六十九次之内 武佐 広重画〉

〈中山道 武佐宿旧道〉

〈武佐宿脇本陣跡〉

〈もとは警察署だった〉

〈享保14年(1729)象が武佐宿で一泊したとある〉

〈ここは象の通った道として知られているそうだ〉
旅籠 中村屋

 創業400年、築200年という武佐宿の老舗旅館「中村屋」さんは、12月3日に歩いて写真を撮った時には、このように健在だった。渋い旅館があるなと思いカメラを向けたが、12月10日のニュースで武佐宿の400年続く老舗旅館が全焼したというニュースが流れていた。偶然写真に収めたのだが、何とももったいない。

400年も続いていれば江戸時代の貴重な美術品なども残っていただろう。9月に歩いた時の鳥居本宿の「望湖堂」もそうだったが、火災というものは残酷だ。何もかもすべてを失くしてしまう。

〈東海道関宿 中山道妻籠宿にもあった〉

〈旅籠中村屋 400年続く老舗旅館だったが12月10日全焼してしまったそうだ〉

〈武佐宿 本陣跡〉


〈近江鉄道 武佐駅〉

〈伊庭貞剛翁生誕の地 住友家総理事で別子銅山の公害問題に尽力したのだそうだ〉

〈里の山と柿が色づく〉
安楽房 住蓮房

 住蓮房は鎌倉時代前期の僧侶、法然房源空の弟子で美声であったという。専修念仏の弘通につとめ、安楽房とともに所々で別時念仏会に六時礼讃を行い、僧俗の帰依を受け、貴賎を問わず教えを広めた。当時都では法然上人の念仏教団が、既成の教団から生まれつつも力を得つつあった。しかし、南都北嶺の念仏者弾圧は執拗で、建永元年(1206)2月には、興福寺によって法然上人、安楽らとともに罪科に処せられるよう訴えられている。同年12月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、住蓮は安楽と東山鹿ヶ谷で六時礼讃を唱えた。これに帰依渇仰する人多く、それがきっかけで後鳥羽上皇の二女官(鈴虫姫・松虫姫)が帰依した。これを知った後鳥羽上皇の怒りに触れ、法然上人門下への弾圧も強まり、住蓮は翌承元元年(1207)近江馬渕の荘の池のほとりで処刑された。その首を洗ったといわれる池がこの「首洗い池」である。

〈安楽房 住蓮房御墓の道標〉
身になれし錦の小袖やきすてて弥陀のみ国に墨(住み)染めの袖(上松虫姫 下鈴虫姫)

 ということで、後鳥羽上皇は自分の女官が安楽房・住蓮房に帰依したことで怒って、この地で住蓮房という僧の首を切ってしまったのだった。

現代なら北朝鮮の金正日あたりならやりそうなことではある。
池とはいうものの、水は干上がっていて池の状態にはない。

〈住蓮房首洗い池〉
 大津まで33kmの標識が見える。街道歩きを始める前なら、とても歩いていく距離には思えなかった。

このごろは、このくらいの距離なら何時間で歩けるかつい計算してしまう。

〈大津まで33km〉

〈中山道 武佐宿をゆく〉

〈広重の絵にある日野川 平常旅人はこの川を船で渡り水量が減ると2艘の船をつなぎ舟橋とした〉

〈今は橋がないので大きく迂回する〉

〈橋を渡ってさらに迂回〉

〈源義経宿泊の館跡碑と鏡神社〉

〈道の駅 竜王かがみの里〉
 ちょうどお昼時なので、道の駅竜王かがみの里で昼食をとることにする。
弥次さんは例によってラーメン、喜多さんは近江牛のハンバーグ定食を注文する。
どちらも非常においしかった。売店には地元の野菜がたくさん売られていて、しかも安い。
名産の赤こんにゃくとか、近江牛の佃煮とか喜多さんは買っていきたがっていたが、
まだ先のある道を重い野菜を背負って歩くわけにはいかないだろう。
源義経宿泊の館 元服の地

 京の鞍馬寺を出奔した義経が奥州を目指す途中、この地で宿泊し追手をごまかすために元服を行ったのだそうだ。

鞍馬でただ一途に平家滅亡を心に誓って剣術の稽古に励んでいた牛若丸は、金売り吉次より奥州の藤原秀衡が会いたがっているという事を聞き、機運到来と喜び勇んで鞍馬を後にしたが、鏡の宿に入ってまもなく表で早飛脚の声をよくよく聞けば鞍馬よりの追手か平家の侍たちか、稚児姿
(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若を探しているではないか。これは我等のことに違いない。このままの姿では取り押さえられてしまう。急ぎ髪を切り烏帽子を着けて東男(あずまおとこ)に身をやつさねばと元服することを決心するのであった。
その時牛若丸16歳、鳥帽子名を源九郎義経とし、鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられている。その後、次々と武勇を発揮していく義経は、清盛の子である、平宗盛(たいらのむねもり)父子を捕虜として鎌倉に向かう。しかし、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越から京に引き返す。

その帰路、「鏡の宿」を通り過ぎた篠原
において、平宗盛父子を処刑したのであった。その地には宗盛の首を洗った「首洗いの池」又の名を「かわず鳴かずの池」があり、胴だけ残されたので宗盛胴塚も建てられている。義経が元服した「鏡の宿」と「平家終焉の地」は滋賀県のほぼ同じところにある。

〈源義経 元服の地碑〉

〈平宗盛胴塚 蛙不鳴(かわずなかず)池 平宗盛の首を洗ってからカエルが鳴かなくなったという〉

〈平家終焉の地 平家が滅亡したのは壇ノ浦ではなくこの地であると書いてある〉

〈このあたりから雲行きが怪しくなってきた〉

〈急な土砂降り 雹も降ってきた 右の家の軒先で雨宿りさせてもらった〉
雨宿り

 ちょうど誰もいない店先にベンチがあったのでひと休みしていたら、みるみる雲の色がどす黒く変わり、ぽつぽつと雨が降り始めた。今日は午前中は雨が残るが、午後は天気が回復する予報だった。さらに様子を見ていると音がするほどの豪雨と雹も降ってきた。いいところで休憩していてよかった。雨をよけるところのない場所だったら、あっという間に全身びしょぬれになるところだった。本当にラッキーだった。

雨除けのテントがあり、座るベンチがあり、飲み物の自動販売機があり、ゴミ箱まである。おまけに店は閉まっているようで遠慮なく雨宿りさせてもらった。

〈大きな狸の置物が〉
 ついているときにはこのようにツキが重なるものだから、これは宝くじでも買ってみるしかない。不思議なことについていない時には何をやっても裏目に出るものだ。
弥次さんが学生の頃、田舎の家でひと夏の間に事故が多発したことがあった。自分はバイクで足をけがする。弟は車で事故をする。飼っていた犬は行商のおばさんに噛みついてけがをさせる。こんな時人はお祓いをしてもらおうと考えたりするのだろう。


でも、今回これで今年の運はみんな使い果たしたかも知れない。

〈まとめられた常夜灯〉
家棟(やのむね)川と隧道の歴史

 ここには天井川の家棟川が流れており、ここを通行する人々や馬車は大変な苦労をして堤防に上がり川を渡っていました。大正6年(1917)大正天皇陸軍大演習視察の行幸にあたり、「天井川」の下に突貫工事でトンネルが掘られました。そのトンネルは「家棟隧道」と名付けられました。

ということだが、最近整地されて天井川もなくなり、隧道もなくなってきれいな道路ができていた。

〈トンネルが壊されて平らな道になっている〉

〈たまごの茜ちゃんは営業をしていない その上を新幹線が猛スピードで走りすぎる〉

〈史跡 甲山古墳〉

〈銅鐸の里 桜生 日本最大の銅鐸が発見された地〉

〈犬矢来のきれいな家〉
 本日はJR野洲駅で終了。まだ明るいし、もう少し歩けるかなと守山駅までの3.5kmに
挑戦しようとしたが、また雲行きが怪しくなってきた。明日また天気のいいところで気持ち
よく歩くことにして草津のホテルに向かうことにする。
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