〈十三日目〉 平成20年 11月2日 日曜日 晴れ 望月宿〜芦田宿〜長久保宿〜和田宿
【第25次 望月宿 続き】
 この井出野屋旅館さんは、1泊2食で8,400円。
夕食も朝食もちゃんと部屋まで運んでくれる。
ご夫婦だけで運営されているようだが、食事だけは近所の奥さんが手伝いに来ているみたいだ。

朝食をおいしくいただいて、7時半には出かけることにする。
出掛けに奥さんに写真を撮っていただいた。

このときには、この井出野屋さんのご主人にとんでもない迷惑をかけることになるとは、思っても見なかった。

〈朝食もおいしかった〉
  
〈井出野屋旅館 味のあるいい旅館だった〉
 早朝の望月宿を歩く。
空気が冷たくて気持ちいい。

旅籠「大和屋」の真山家は問屋も兼ね名主だった。
明和2年(1765)に建てられ、国の重要文化財に指定されている。

近代書道の父といわれる「比田井天来」という人の記念館もあるというが、書にはいまいち興味がないので、パスして次の宿をめざすことにする。

〈早朝の望月宿をゆく〉

〈望月宿最古の旅籠大和屋 国重要文化財〉
 望月宿の西のはずれの大伴神社では、若い女性が落ち葉を掃除していた。
この神社を過ぎれば望月宿も終わる。

同年輩の男性が、リュック姿で追い越していった。
きっと今日は和田宿まで同じように歩くのだろう。

この先で道が別れているのだが、喜多さんはこの道に違いないと獣も通らないような道を偵察に行った。
弥次さんが地図を見ていると、おばさんに声をかけられたので、「中山道を探しているんです」と言うと、丁寧に教えてくれた。

喜多さんが戻ってきて、偵察に行った道は畑に行く道だったという。いくらなんでもその道は中山道じゃないだろう。

〈大伴神社〉
    
〈茂田井宿へ向かう中山道〉
  
〈このあたりは道祖神があちこちに〉                                                    〈茂田井宿へは右の道へ〉
間の宿、茂田井

茂田井宿は道があまりに狭かったために、早くから主要道が避けて迂回したという。
そのおかげで、集落内の家屋がそのまま残された、
その残された家々がみごとなほど美しい。

道は緩やかな上り坂。
左脇には用水路、澄んだ水が流れている。
宿に入ってすぐ右側に軒下に酒林(杉玉)を吊った造り酒屋が見える。
〈中山道を歩くより〉

〈美しい茂田井宿〉
  
〈茂田井宿には江戸時代が色濃く残る〉                                            〈旅と酒を愛した牧水の歌碑〉

〈茂田井宿は信州の酒どころ〉
 現代の奇跡のような家並みと風景が続く。

このような古をしのばせる風景と街並みは、いつまでも残して欲しいものだ。

中山道は、東海道に比べて歴史上のエピソードは少ないが、弥次さんの琴線に触れる風景や街並みが、まさに生活とともに残っているところが多い。

馬籠宿のように作った街道でなく、みやげ物屋もなく、ただあるがままというのが良い。

〈茂田井宿をゆく〉

〈素晴らしい家並みが残る〉
 確かにこんなに道が狭くては、車が通る道路を拡幅するわけには行かないだろう。

明治の廃仏毀釈や太平洋戦争中の米軍による空襲などで、どれほどの日本の文化財が失われたことだろう。

日本人は、明治以降日本文化に劣等感を持ち続け、西洋の人工的な美にあこがれ続けた。
その日本の美を評価してくれたのは、ヨーロッパの人たちだった。
日本では、輸出する漆器や陶器の包み紙としてしか評価のなかった浮世絵の素晴らしさに気づいたのは、ヨーロッパの美術愛好家たちだった。浮世絵は印象派の誕生を促し、西洋絵画の復活に寄与したが、日本国内では衰退してしまった。
  
〈ほっとする道が続く〉
  
〈路地も雰囲気がある〉
   
【第26次 芦田宿 本陣1軒 脇本陣2軒 旅籠6軒 笠取峠には中山道最大の松並木が残る】

〈木曾街道六拾九次之内 あし田 広重画〉
  
〈芦田宿に入る〉
  
〈本陣土屋家 本陣兼問屋だった旧家で寛政12年(1800)の建築という〉
 芦田宿は、昔は「あした」と清音で呼ぶことが多かったという。

軽井沢もかつては「かるいさわ」と呼んだらしいしが、明治以降避暑に来た外国人が呼びつらいので「かるいざわ」と変わっていったらしい。

江戸時代から現代に至るあいだに、言葉はずいぶんと変わっていったことだろう。

弥次さんの田舎でも、年寄りしか使わない言葉があったが、今は誰も使わなくなった言葉がたくさんある。

〈味噌醤油 酢屋茂とあった〉
  
〈200年以上の歴史を持つ金丸土屋旅館 今でも営業中〉
  
〈道祖神は相変わらず多い〉
 
〈笠取峠の松並木にさしかかった〉
  
〈この松並木で井出野屋旅館のご主人に忘れ物を届けていただいた〉
笠取峠で忘れ物を届けていただく

 この笠取峠の松並木を歩いているときに、喜多さんがお腹辺りの違和感に気がついた。
愛用している腰痛ベルト(コルセット)がないことに気がついたのだ。
昨夜宿泊した井出野屋旅館の丹前箱に置いたまま、忘れてきたらしいと言う。
あれほど忘れ物はないか確認したのに、毎度うかつな喜多さんであった。

もう旅館を出てから2時間以上立っている。距離にして7〜8kmは歩いて来ただろう。
仕方ないから、家に帰ってから電話して郵便で送ってもらおうよ・・・といっていたその最中に、
「Nさ〜ん」と大声で呼ぶ声が聞こえた。
こんなところで、弥次さんを呼ぶ人は?・・・とふと見ると、この松並木に平行して走る自動車道に、
井出野屋旅館のご主人が、車から身を乗り出して喜多さんのコルセットを振っている。

井出野屋旅館のご主人は、途中われわれの姿を探して、ずっと追いかけて来てくださったのだ。
昨日、資料館や記念館はできるだけ見ていくことにしている、という会話をしたので、
途中の資料館も確認していただいたらしい。

本当に頭が下がる。
「いや〜、後で送っていただくようお願いしようかと話していたところです。」というと、
「送るのもいいけど、これがないとつらいでしょ。」と、当然のように言われる。

井出野屋旅館のご主人、本当にありがとうございました。
喜多さんと二人、最敬礼をしてご主人の車を見送った。

それにしても、旅館に忘れ物をしたお客を7〜8kmも追いかけてくれる人がいらっしゃるとは、
現代の奇跡のような話だ。めぐり合えたのも奇跡だ。
歩く道は自動車道路からいつも見えるとは限らない。
どこか店に入っているあいだに追い越してしまうかも知れない。

中山道っていいなあ・・・と思いを新たにするのであった。

〈松並木と紅葉〉

〈笠取峠松並木を振り返る 右の旧道を歩いてきた〉

〈田んぼでは収穫が その向こうに浅間山が見える〉

笠取峠の松並木

 江戸時代、中山道が開かれると幕府は小諸藩に赤松の苗木753本を交付し、芦田宿のはずれから峠の頂上まで植えさせたという。
その後、小諸藩は松が枯れたり倒れたりすれば、毎年植え直して保護してきたのである。

その並木も800mほどしか残されていないが、路傍には石仏などもたたずみ、かつての街道をしのばせる格好のコースとなっている。

〈中山道を歩く〉
 峠の茶屋を越えた先に、学者村という別荘地があり、喜多さんは中山道は、そちらに行く道に違いないと主張するが、どう見てもそちらであるわけがない。

こういう時には少し険悪な雰囲気になるが、だいたい弥次さんのほうが旧道に対する嗅覚が研ぎ澄まされていることが多い。

このときもそうだったが、やはり弥次さんの主張した道に和田峠への道標が出ていた。
「メンドリの鳴く家は滅びる」というだろ。といって見るが、時々オンドリが間違えるので、それ以上は強く言えない。

〈和田宿へは9.3km〉
 国道142号線から外れたので車は1台も入ってこない。
紅葉の始まった道は広くて歩きやすい。

 「中山道原道」という標識があった。

中山道は、長い歴史の中で幾通りもの道ができたようだ。
この原道などは比較的古い中山道なのだろう。

歩いていて、この道が本当の中山道だという道はもちろんあるが、川の氾濫や、土砂崩れ、新道の普請など何度も道は変わって来たに違いない。

〈松尾神社に向かう〉
松尾神社

 坂道を下りきったところに松尾神社があった。
この神社は、諏訪の宮大工が建てた酒祖の社だというが、意味がよくわからない。

そろそろ昼飯時だ。この神社の近くに食堂でもないかなと期待したが、やはり食事ができる店はどこにもない。
旧道沿いには本当に食事ができるところがない。
これは費用対効果を考えれば当然のことで、人がめったに通らない場所に店を出す奇特な人はいないということだろう。
やはり食べ物屋を出すとすれば、車の通りの多いところに出すのが正しい。

〈松尾神社〉

〈松尾神社への橋を渡る〉

〈木の鳥居をくぐり長久保宿へ〉
   
【第27次 長久保宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠43軒 中山道最古の本陣建築が残る】
   

〈木曾街道六拾九次之内 長久保 広重画〉

〈明治時代初期の長久保宿〉

〈左の写真と同じ位置から〉
一福処濱屋

 長久保宿歴史資料館、「一福処濱屋」に、明治時代初期の当館前という写真があったので、左に立っている人の位置に喜多さんに立ってもらい、同じアングルで撮影した。
当時と道の幅が同じなのがわかる。

昔の写真はモノクロなので、陰気に見えるが、基本的には右のカラー写真と同じように、緑の美しい通りだったのだろう。

右の写真には、少女が木に背をもたれて写っている。
この少女はどういう人生を歩んだのだろうか。
 この長久保宿は、江戸方(芦田宿)方面への竪(たて)町と、京方(和田宿)方面への横町で構成されていて、道は直角に折れている。

江戸時代から続く古い家が何軒か現存しているが、残念なことにどの家も公開されていない。


〈長久保宿資料館〉
本陣石合家

 本陣の石合家は17世紀後半の構築と推定され、中山道中最古の本陣遺構であるといわれている。

大名などが宿泊や休憩に使用した御殿と、江戸時代末頃に構築された表門が残されているというが、中には入れないので表門のみ見て通り過ぎる。

〈本陣 石合家〉
釜鳴屋


 この釜鳴屋・竹内家は、江戸時代初期の17世紀中頃より酒造業を営み、享保16年(1731)以前に建てられていたと考えられ、県内で最も古い町屋であるといわれている。

〈釜鳴屋〉
 この道に沿った街並みが竪(たて)町となる。
突き当りを左に直角に曲がると、横町が始まる。

案内標識には、左下諏訪36kmの文字が見える。
今回のゴール、下諏訪まではあと36kmだ。
 これだけの町なのに、食事できそうなところが1軒もない。
店らしきところはあったが、開いていない。

この店は食堂かなと思ってみると旅館だった。
この旅館 浜田屋を左に曲がると、和田宿へ続く道となるが、食事ができる店が見つからないために、リュックのおやつを食べながら続きを歩くことにする。

〈旅館 浜田屋〉
 出梁造りで総二階建てのこの古い家屋は、江戸時代末期に建てられた大きな旅籠だ。

江戸時代には、辰野屋という屋号で旅籠を営んでいたというが、今は普通の民家になっているようで、中を覗いて見ることはできなかった。

〈竹重家・辰野屋〉

〈長久保宿から落合橋へ向かう〉
  
〈広重の長久保宿の絵に描かれた依田川にかかる落合橋を渡って和田宿に向かう〉
  
〈バス停がみんな立派〉
りっぱなバス停

 ついに一度も見ることのなかったバスの停留所が、みんな立派でおどろく。
このあたりは鉄道が通っていないため、バスしか公共交通機関がないのだが、それにしてもバス停それぞれが、古民家風あり、神社風あり、洋風ありで面白い。

しかし、歩いているあいだついに一人もバス停でバスを待っている人は見かけなかった。


〈ミミズの道祖神〉
三千僧接待碑


 この石碑は、諸国遍歴の僧侶への接待碑で、一千人の僧侶への供養接待を発願してみごと結願し、一躍二千を増やした三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。

ということで、一番上の三は最初一だった文字を後で三に改めたのだという。

〈三千僧接待碑〉
  
〈このあたりも石碑が多い〉
若宮八幡宮

 若宮八幡宮というところがあったので、説明板を読んでみる。

天文23年(1555)和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死し、その父この首級がここに埋葬された・・・とある。

武田信玄は、静岡県の東海道を歩いていたときも頻繁に出てきた。
これから向かう諏訪が本拠地だが、あちこちを攻めまくっていたのだろう。

〈和田城主 大井信定父子の墓〉
   
【第28次 和田宿 本陣1軒 脇本陣2軒 旅籠28軒 中山道最大の難所和田峠を控える】
   

〈木曾街道六拾九次之内 和田 広重画〉
   
是より和田宿

 
「是より和田宿」の石碑があった。
やっと和田宿に入った。

この和田宿は、下諏訪まで5里半(22km)、中山道最大の長丁場と難所和田峠を控える。

和田宿は文久元年(1861)3月、大火で大半を消失した。
しかし、皇女和宮の将軍家への降嫁が同年11月と、そしてその東下の際の宿泊地として和田宿が決まっていたので、幕府は全力を挙げて宿場復興につとめた。
現在残っている、かつての建物はその折建築されたものである。

〈中山道を歩く〉

〈是より和田宿〉

〈国史跡の道標〉

〈和田宿八幡神社〉
歴史の道資料館かわち屋

 和田宿に着いたのは3時過ぎ。予定とおりの歩き旅だった。
資料館があったので入ってみる。

この資料館河内屋はかつては上客向けの旅籠であったらしく、天井がやたらと高い。
案内してくれた土地の女性が、この土地の寒さを教えてくれた。
昔は風呂から上がって、部屋に戻るまでに髪の毛が凍って、櫛で梳くとバリバリ音がするくらいだったと言っていた。

このあたりは、雪が降らない代わりにやたらと寒いのだという。
寒がりの弥次さんとしては絶対に冬は住みたくない。
しかし、夏は扇風機もいらないくらい涼しいのだという。

〈歴史の道資料館かわち屋〉

〈かつては上客向けの旅籠 かわち屋〉

〈旅籠大黒屋〉
 和田宿は交通の便の悪いところにあったがために、貴重な歴史遺産を多く残している。

宿場内には屋号を書いた看板を出した古い家が多いが、ほとんどが旅籠であったという。
箱根を控えた小田原宿のように、和田峠を控えた和田宿であったから、旅籠はたくさんあったのだろう。
しかし、今の和田宿には旅館はこれから泊まる「本亭」しかない。

この資料館で案内してくれた女性によると、前に和田峠を越えてきた夫婦がこの和田宿で「本亭」が満室だったため、夕方暗くなってから6kmも先の長久保宿まで歩く羽目になったそうで、かわいそうで仕方なかったと言っていた。
弥次喜多夫婦でそんなことがあれば、3年くらい口を聞いてもらえないであろう。

〈和田宿農家レストラン かあちゃん屋〉
 
和田宿本陣

 この建物は、中山道和田宿の本陣として、文久元年(1861)に建設されたものだ。
明治維新後は本陣の機能を終えて、役場・農協事務所として昭和59年4月まで使用されていた。
役場の新庁舎移転に伴い解体の運命にあったが、重要な遺構としての価値が認められ昭和61年より
解体修理が行われ5年の歳月を持って往時の姿に復元されたという。
  
〈本日の宿 本亭〉
本亭

 和田宿唯一の宿屋、本亭に着いた。

本亭旅館はかつての庄屋さんだった家をそのまま使っているという。通された部屋は30〜40年前に改装した感じだった。
天井には大きなシミがたくさんあり、となりの部屋との仕切りは板戸一枚。ささやき声も聞こえるほどの造りで、江戸時代にはさぞこのようであったろうという感じの宿だ。

でもこの本亭が営業してくれるおかげで、和田峠を越えることができる。
食事は1階の広間で、一回り年上の夫婦と、一人歩きの男性と一緒に食べる。この男性は今日歩いてきた道々で何度もあった人だ。
次の日も何度も会うことになる。

〈夕暮れの和田宿〉
目次
inserted by FC2 system