〈十四日目〉 平成20年 11月3日 月曜日 晴れ 和田宿〜下諏訪宿
【和田宿続き】
 夕べは夜が長いので、資料館や本陣の案内の人に勧められた「村営ふれあいの湯」に行ってみることにした。

本陣脇を右に折れ、国道142号線を越え、依田川を渡り、山の中腹にその施設はあった。
宿から歩いてたっぷり15分はかかった。
暗くてよく見えなかったが、この「ふれあいの湯」の周りにはたくさんのレクレーション施設があるようだ。
入ってみると湯船が二つあるだけで、1時間くらいはゆっくりしてくるつもりだったのだが30分も持たなかった。
喜多さんは15分で上がってきたという。

〈本亭に残る高札 キリシタンを見つけたら申し出るように〉

〈本亭前の中山道高札場跡案内〉
 夕べは会話をしなかったが、朝食の時一緒に泊まった人に「皆さんも下諏訪までですか」と話しかけてみた。

年配の夫婦は、体力に自信がないので和田峠まではバスで行き、下りを歩くつもりらしい。
一人歩きの男性は京都から転勤で来ていて、下諏訪まで歩くと後は京都に帰るのだという。東海道も浜松まで歩いたと言っていた。
でも、終点の京都に住んでいるのなら、残りをいくらでも歩けるではないですか。というような会話をして、お互いの健闘を祈る。

我々は、今日下諏訪発15時44分の横浜駅まで直通の特急「はまかいじ」の指定席を予約しているので、何が何でもそれまでに下諏訪駅にたどり着かねばならない。
ということで、お先に出発する。

〈和田宿中山道をゆく〉
 一里塚跡があった。
江戸からちょうど五十里だとある。ということは約200kmを歩いてきたということだ。右の石には、右諏訪街道とある。

この先で、地図の通りの中山道を歩こうと国道に向かっていたら、地元の女性が手招きしているのが見えた。
何ごとかと行ってみると、そちらは車が危ないので迂回道を行きなさいという。
その道は農道で中山道ではないのだが、その女性の好意を無にするのも気が引けて、お勧めの道を行くことにする。

国道との合流地点で、同宿のご夫婦の乗ったバスに追い越された。ご夫婦は大きく手を振ってくれたので、我々も大きく応える。

〈一里塚跡 江戸より五十里〉
  
〈木曾街道和田宿のマンホール〉                                       〈渋いバス停〉

〈東餅屋(和田峠)5.3kmの標識〉

〈地図の中山道はこの先を右に〉
 地図を見ると中山道はこの国道をもう少し行った先を右に折れることになっている。
でも左の山道のほうが面白そうなので、迷ったが山道に入ってみることにする。
同宿だった一人旅の男性にここで追いつかれたが、その人も「その道じゃないですよ」とさっさと行ってしまった。

でも弥次喜多夫婦は、面白そうな道を選択して左の山道に分け入るのだった。
  
唐沢一里塚

 この唐沢一里塚は江戸から51番目の一里塚で、中山道の一部路線変更により山中に取り残されたもので、天保12年(1831)の絵図面ではすでに路線からはずれている。現在樹木は残っていないが、塚は二基ともほぼ原型をとどめている。文化庁 長野県
という案内板があった。

やはり、この道はかつての中山道だったのだ。
江戸中期の道普請で、もっと効率的な中山道ができて、やがてこの古中山道は忘れ去られたのだろう。

右の道に進んだ一人旅の男性に下諏訪駅であったので、「われわれは左の道に行ってみましたよ」と言うと、「右の道は何もなかった」と言っていたので弥次喜多夫婦の判断は間違っていなかったようだ。

〈唐沢一里塚〉
 
〈りっぱな一里塚が道の両側にそろっている〉
 美ヶ原高原とか霧が峰高原とか寒そうな地名が出てくる。
今日はそうでもないが、あと一月も経つととんでもない寒さになるのだろう。

この道を右に行く車は少ないが、右方面が中山道だ。

〈右美ヶ原高原 霧が峰高原〉
 この場所から山道に入る。
落ち葉がじゅうたんとなったいい感じの中山道が始まった。

〈自動車道から山道に入る〉
三十三体観音

 かつてこの山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和48年(1973)の調査発掘により29体が確認されここ旧道沿いに安置された。内訳は。千手観音13体、如意輪観音4体、馬頭観音10体、不明2体で4体は未発見である。
 峠の難所を往来する人馬の無事を祈ってまつったものである。


                                 文化庁 長野県 和田村

〈三十三体観音〉

〈中山道和田村 三十三体観音前をゆく〉
 坂本宿から軽井沢に抜ける碓氷峠では、何人もの夫婦連れや一人で歩く人に出合ったり、追い越されたりした。

しかし、この和田峠ではついに一人のハイカーにも出会わなかった。碓氷峠は越えれば軽井沢の町がすぐそこだが、この和田峠は上った分だけ下諏訪までおりていかなければならない。

しかも、その距離22km。そう簡単には峠を越える気にはならないというところだろう。

〈落ち葉の下には石畳が残る〉

〈まだまだ先は長い〉
永代人馬施行所

 
江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道のたびの難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に50両づつ下付し、文政11年(1828)に設置された施行所の一つである。
 11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
 その後、山抜けにより流失したが嘉永5年(1852)現在地に再建され、明治3年までつづけられた。


                                 文化庁 長野県 和田村

いつの時代にも偉い人はいるものだ。

〈接待 和田峠施行所〉

〈永代人馬施行所ともいうらしい〉
  
〈避難小屋〉                          〈小さい川を渡って〉                        〈石畳を行く〉
  
〈おいしそうな水〉                    〈広原一里塚 江戸より52番目〉             〈山は紅葉が終わっている〉
 
〈東餅屋手立場跡〉                                                   〈東餅屋のご主人と〉
東餅屋

 中山道最大の難所である和田峠には、東西の峠の肩に力餅を食べさせる茶屋が東に5軒、西に4軒
幕府の援助を得て設置されていたという。
今その地には、このドライブイン1軒のみが営業を続けている。
力餅とコーヒーのセット500円也を注文して、店のご主人と話をした。
われわれが横浜から来たという話をすると、このご主人も学生時代横浜にいらしゃったそうで話に花が咲いた。
伊勢佐木町の「野沢屋」で買い物をしたという話が出てきたが、「野沢屋」は「横浜松坂屋」の前身で、
その「横浜松坂屋」も今年(2008年)10月に閉店してしまってなくなってしまった。
弥次喜多夫婦の地元出身の「ゆず」というフォークデュオが、この「横浜松坂屋」の前で路上ライブをして有名に
なった話がファンの間で有名らしいが、屋上にあった「ゆず」のモニュメントが近くの「岡村天神」に移設されたという
記事が新聞に出ていた。
  
〈東餅屋からさらに上る〉                   〈ビーナスラインをくぐる〉                  〈さらにビーナスラインを渡る〉
 
〈五街道最高地点(1,600m)の和田峠〉
  
〈和田峠で本亭で作ってもらったおにぎり弁当を食べる〉
和田峠

 本亭で作ってもらったおにぎり弁当を、五街道で最高地点(標高1,600m)という和田峠で食べる。

和田宿側の中山道はよく整備され、道の真ん中には枯れ枝一つ落ちていなかったが、これは和田宿本陣跡で案内してくれたガイドの方が言っていた、和田宿のみんなで整備していると言われていたことの証だろう。
中山道は、江戸からは守りやすく西からは攻めにくく作ってあるそうで、ここまでは緩やかな坂をあまり疲れずに上ってきたが、下りはいきなり急な坂道だ。

この峠を越えると下諏訪宿の管轄となるようで、道標も今までとは違うものになった。
  
〈けもの道のような道が続く〉                     〈水呑場〉                              〈石小屋跡〉
 本亭で一緒だったご年配の夫婦は、和田峠まではバスで行き、下諏訪までのくだりを歩くと言われていた。

しかし、この下り道は年寄りにはちょっとつらそうだ。
 
〈秋ももうすぐ終わり〉
  
〈下諏訪側の中山道には倒木が残る〉                                                  〈一里塚跡〉
 人一人がやっと通れるくらいの山道を用心しながら通りすぎる。
足を滑らせれば、下の川まで転げ落ちそうだ。

いくらなんでも昔はこんなに狭い道ではなかったろう。
大名行列も通った。幕末には皇女和宮も通った道だ。。
旅人が歩かなくなって道は瞬く間に風化してしまったのだろう。


しかし、何かの本で下諏訪から和田峠への道は籠が担げないので、和宮を背負って越えたという記述を読んだことがある。当時もこんなものだったのかもしれない。

〈道幅は30cmくらい〉
  
〈今にも崩れそうなガレ場をゆく〉
  
〈しばらくは国道142号線をゆく〉                                                 〈浪人塚の案内〉
 
〈幕末和田峠の戦で戦死した水戸天狗党の墓 浪人塚〉
 元治元年(1864)11月20日、水戸浪士の一行千余人勤皇の志をとげようと和田峠を越えてきた。
それを高島、松島両藩が防いだ激戦地跡で塚には討死にした浪士を葬り桜を植え墓碑が建てられている。

                                                       
下諏訪町教育委員会

〈紅葉が美しい〉
 喜多さんが地図を見ながら本当の中山道はこの道だという。
湿地を抜け、茂みを越え、ぬかるみに靴がはまらないか気をつけながら通り過ぎるが、弥次さんはついに爆発した。

本当の中山道はこの道かもしれないが、こんな道を歩いてこの先で行き止まりだったりすると、下諏訪からの特急に間に合わなくなる。
さらにこの先を行こうとする喜多さんを制して、弥次さんはまともな道を行くことにする。

〈喜多さんはこれが本当の中山道だというが・・・〉

〈諏訪大社の御柱 これは観光客用〉

〈この坂を人が乗り落ちる〉

〈天下の木落とし坂の碑〉

〈人はなぜこんな危険なことを喜ぶのか〉
 和田峠から8.8kmを歩いてきた。諏訪大社までは3.2kmとある。
今はまだ2時前だから、3時44分の「特急はまかいじ」には十分間に合いそうだ。

このあと、岡本太郎が絶賛したという「万治の石仏」を見て、諏訪大社下社秋宮を通り、下諏訪駅までたどり着ければ今回の中山道歩きは終了だ。

〈諏訪大社まで3.2km〉
 
〈万治の石仏 岡本太郎が絶賛したという〉
万治の石仏と伝説

伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時、この石を材料にしようとノミを入れたところ
傷口から血が流れたので、石工たちは恐れをなし仕事をやめた。(ノミの跡は現在でも残っている)
その後石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つけることが
でき鳥居は完成したというのである。
石工たちはこの石に阿弥陀如来をまつって記念とした。
なおこの地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町石仏となっている。
 下諏訪町

〈龍の口〉

〈下諏訪宿の中心に入った〉

〈本陣岩波家 時間がないので見学は次回に〉

〈新鶴本店 塩羊羹〉
 諏訪大社の脇にある新鶴本店で有名な塩羊羹を二つ購入した。
一つは平塚のお母さんへのお土産だ。
帰って食べてみたが、さすがにあちこちでほめられているだけあって、塩味がきいておいしい。

この後、下諏訪駅でビールを買おうと思ったがどこにも売っていない。
駅でまた会った和田宿本亭旅館で一緒だった男性もビールを探していた。
駅員に聞くと隣の上諏訪駅の方が賑やかだというので、隣の駅まで行ってビールを買うことにする。

八王子から横浜線に乗り入れ、終点の横浜駅まで直通の特急「はまかいじ」に乗り込むと、
あとは横浜駅に着くのを待っていれば良い。
ビールでよい心持ちになった弥次喜多夫婦は、ぐっすり寝込んで横浜に着いた。
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