〈8日目〉 平成19年(2007)2月3日 土曜日 快晴  原宿〜吉原宿〜富士川
【第13次 原宿 絶景の富士と田子の浦】

〈原・朝之富士 江戸より13番目の宿〉
富士の絶景

 喜多さんが箱根と三島〜沼津だけは歩きたいというので、一人で原から先を歩くことにする。

こんな絶景の富士山と田子の浦を見ないなんてもったいない。

〈快晴の朝の富士〉
 

〈やはり日本一の山〉
田子の浦

 この日は朝6時半に家を出て、原駅には9時前に到着。駅前のコンビニで静岡県らしいウナギのおにぎりを買っていざ出発。しばらく旧道を歩いていたが、道が単調で特に名所旧跡もなくつまらないので、途中から千本松に入り、さらにしばらく海沿いの堤防の道を歩くことにする。

堤防の道から見ると左があの田子の浦、右が雄大な富士山。絶景である。万葉の歌人、山部赤人が詠んだあの有名な
「田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」の田子の浦である。

〈田子の浦〉
 この歌を口ずさむとき、かつてアントニオ猪木とモハメド・アリが戦った時のパロディーの和歌を思い出す。「あごの裏を打ちに出てみればしらけるのうふいのごろ寝におれは困りつ」アントニオ猪木は、あごを打たれるのを警戒して終始ごろ寝状態だったのだ。

広重が描いたこの原宿の富士は、かつて浮島が原と呼ばれたところだというが、写真の富士は海沿いの堤防から撮った写真である。富士の手前に愛鷹山が見える。田子の浦の堤防の道から旧道に戻り、東海道本線に沿った道を行くと吉原駅が見えてきた。旧道は駅の手前の踏切を渡り、日本製紙の工場の門の前を通るのだが、気づかずに駅まで行ってしまった。改めて地図を見て間違いに気づき引き返す。

〈河井橋から見た製紙工場の煙〉
【第14次 吉原宿 左富士と平家越え】

〈吉原・左富士 江戸より14番目の宿〉
吉原宿

 吉原宿は東海道が制定された初期のころは、この吉原駅の近くにあったらしい。「元吉原宿と呼ばれたが、高波などの被害にあいもう少し北の「中吉原宿」へ移動、そこも被害にあい、さらに内陸の「新吉原宿」へと移動したそうだ。

河井橋を渡り、旧道は新幹線のガードをくぐったところで右に行かなければならなかったのだが、間違えてまっすぐ行ってしまった。行けども行けども目指す左富士の碑がない。およそ1kmも過ぎて間違いに気づく。なんともお粗末な話だ。

〈広重の絵にも馬の左手に左富士の標識が見える〉
 途中のそば屋さんでさくら海老のかき揚げそばを食べて元気をつける。

いろいろ迷ったが、新幹線のガードまで戻ることにする。石屋さんのところを右の道に入るとそこが東海道である。今度こそ間違いない。

それにしても、写真というものはつくづく撮れる時に撮っておかないと、いつでも撮れるものではないことを実感する。最初に歩いた時は晴天だったから、広重の絵と同じ構図はもう少し下がれば左富士を入れてとれたはずなのに、このころはまだHPを作ろうなどと思っていなかったから執着もなかったのだ。

〈吉原宿〉
左富士

 左手に左富士神社があった。その先が広重が描いた左富士の場所だ。広重の描く吉原左富士は、こども三人を乗せた馬が富士を見ながら松並木を行く。

この日は、一日中晴れて富士山が途切れることなく見えていたから、本当に残念だった。左にカーブする道だけが広重の絵の雰囲気を残す。

ちなみに左富士とは・・・東海道を京に上るとき、富士山は常に右に見えるが、東海道中で2か所だけ道の方向により、左に見える場所がある。その一つがこの吉原の左富士で、もう一か所はすでに歩いてきた藤沢の南湖左富士というわけだ。

〈9月に歩き直したが左富士は見えなかった〉
平家越え

 吉原宿の手前の和田川にかかる橋に「平家越えの碑」が立っている。源平の合戦で有名な「富士川合戦」は、今の富士川の河原でのことではなく、この和田川一帯の沼地であったという。治承4年(1180)、京から源頼朝軍を攻略するつもりで押し寄せた平惟盛の軍が、水鳥がいっせいに飛び立つ羽音におどろいて、戦わず潰走したという有名な話しである。それにしても、今のこの場所が源平の大群が対峙するほどの大きな沼地であったとは信じられない。

このような逸話は、勝者の手によって都合よく作られることが多いので、本当のことかどうかはわからないが、平家軍は坂東武者の勇猛さを聞き、士気はすっかり衰え脱走者が相次いでいたという。


〈このあたりで平家軍は水鳥の羽音におどろいて潰走した〉
鯛屋旅館

 このあたりはこの時にずいぶん道を間違えて歩いているため、後日正しい旧東海道を歩きなおした。9月4日のことでずいぶん暑い日だった。

吉原宿の商店街に街道案内所みたいなところがあったのでのぞいていると、「どうぞおはいり下さい」と声をかけられた。そこは「鯛屋旅館」という1682年創業の旅館であるという。ただし、建物自体は最近のものであるらしい。近くの本陣に残っていたという大名が泊まった時に掲げた札や山岡鉄舟が書いたという屋号の看板などが飾ってあった。奥にみやげものと旅館の食堂があったので、そばを食べていくことにする。2月に歩いた時には、道の反対側を歩いていたためにまったく気づかなかった。

〈吉原宿の道祖神〉
鶴芝の碑

 吉原の商店街を抜け、富安橋を渡りしばらく行くと「鶴芝の碑」がある。かつて鶴の茶屋がこのあたりにあり、冬の富士山をここから見ると、富士山の中腹で鶴が舞っているように見えたのだという。

富士駅を左手に見て、しばらく行くとJR身延線柚木駅に出る。この先、富士川を渡って富士川駅までは2月3日に一人で歩いたが、3月4日に喜多さんともう一度歩くことになった。この頃までは、五十三次の宿を終点にせずに、歩き疲れたところで近くの駅から電車に乗って帰っていたせいだ。宿から宿までちゃんと歩くようになったのは、やっと3月になってからのことだ。

〈鶴芝の碑〉

〈富士川と富士〉
 富士川の手前には松岡神社と渡船場跡があり、対岸の渡船場には常夜灯が置かれていた。
渡船6艘、高瀬舟18艘があり、運賃はひとり19文であったという。ここまで多摩川、相模川、酒匂川、
富士川と大きな川を4つ徒歩で渡ってきた。どの川も東海道歩きを始めなければ、ひとつとして歩いて
渡ることなどなかったであろう。どの川も満々と豊かな水をたたえていた。
日本の風景の特徴のひとつは水の美しさだと思うが、この富士川と富士山の美しさはどうですか。
旧東海道を歩く醍醐味だ。
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