〈三日目〉 平成18年 12月31日 日曜日 晴れ 神奈川宿〜戸塚宿
【第3次 神奈川宿 幕末外国人が多く住んだ】

〈神奈川・台之景 江戸より3番目の宿〉
 神奈川宿は、横浜駅の手前の神奈川駅を右に見て、青木橋を渡り、国道1号線を越える。
広重の「神奈川・台之景」では、旅籠や煮売り屋の左はすぐに深い海になっている。

風光明媚な坂道であったようだが、現在はこのようにマンションが立ち並び、街道から海を見ることはできない。

この坂道の左手にいまだに営業を続ける「田中屋」には、坂本竜馬の奥さんだった「お竜さん」が仲居さんとして働いていたことがあるそうだ。

ちょっと覗いて見たが、高そうなので「また今度」ということにして通り過ぎる。

〈マンションの左は深い海だった〉

 その先の切り立った崖は、根岸の三渓園あたりであろう。
現在も根岸から磯子にかけて、このような切り立った崖が残っている。地名にも「屏風ヶ浦」という名が残っている。

そして、我々弥次喜多夫婦の家もこの丘の上にある。

昨年まで営業していた磯子の「横浜プリンスホテル」もこの崖の上に建っていた。

その左に広がる半島は三浦半島であろう。
海に浮かんだ船の辺りに、現在の横浜駅がある。
ずいぶん沖まで埋め立てたものである。

〈昔は袖ヶ浦といった〉

〈神奈川台町の関門 左手の崖下が海になる F・ベアト幕末日本写真集より〉

世間では大晦日のあわただしいであろう日に、喜多さんと二人で一昨日の続きを歩くために横浜駅に向かった。

喜多さんと東海道を歩くのは、実は今日が初めてで、何ヶ月か経ってから、品川〜川崎、川崎〜神奈川を本当の
旧東海道を探して一緒に歩き直した。
今までは一人だったから、歩きたい道を歩きたい方向に歩いていたが、「本当にこっち?」「道はあってる?」と
うるさいことおびただしい。

これまでは、とにかく西に向かっていればいつか京都に着くという安易な考えであったが、このあたりから旧東海道を
なるべく忠実に歩くことを意識し始めた。
本屋で山と渓谷社の「東海道を歩く」という本を買ったのもこのころだ。
ところがこの本だけでは、地図が精密でないため、なかなか正しい旧道が見つからないことが多い。

ネットのホームページにいろいろな人が歩いた道筋を載せたりしているが、この頃はまだ気づいていなかった。


第三京浜の入り口を過ぎた辺りの浅間神社下で道を間違えて、何百メートルか戻ったりしたが、
何とか保土ヶ谷の宿に着いた。

予習の大切さと、旧道地図を持っていないことの弱点が露呈した一日だった。
横浜の地元意識が傲慢さを生んだ結果だったかも知れない。

【第4次 保土ヶ谷宿 東海道最初の難所権太坂 行き倒れが出るほどの坂だったという】

〈保土ヶ谷・新町橋 江戸より4番目の宿〉

〈現在の橋にはかもめが並ぶ〉

〈公園の中のこの橋がかつての位置らしい〉

広重の描いた帷子(かたびら)川に架かるこの橋は、現在のこの帷子橋とは少し川の位置が変わっていて、
この先にある公園の中に当時の橋の遺構が残っている。

現在の橋には、横浜らしくカモメがたくさん並んでとまっていた。

この辺りは、商店街も「宿場の町保土ヶ谷」で盛り上げようと思っているようで、各商店にのぼりやのれんが掲げてある。

 途中のふとん屋さんで、東海道五十三次の手ぬぐいを売っていたので、喜多さんに頼んで買ってもらった。

この手ぬぐいは、会社のデスクの前にずっと掛けてあって、歩いた宿場と日にちをマーカーとサインペンでしるし、
歩き通す励みにしていた。

〈会社のデスクの前に飾って歩く励みにしていた手ぬぐい〉
保土ヶ谷宿軽部本陣跡

 
突き当たりの国道一号線を渡ったところに、「軽部本陣跡」があった。
軽部さんは、いまでもこの家の奥の新しい家に住んでいらっしゃるようだ。

籠屋本金子屋跡


 この先には旅籠屋の本金子屋跡も残っている。 
 
しかし、軽部本陣跡もこの本金子屋跡も公開していないので、中をのぞいてみることはできない。 

〈旅籠屋 本金子屋跡〉  
権太坂

 
東海道最初の難所といわれた「権太坂(ごんたざか)」にさしかかる。
権太坂の由来は、旅人からこの道の名前を聞かれた地元のおじいさんが、耳が遠いもので自分の名前を聞かれたと思い「ごんただ」といったことから「権太坂」といわれるようになった・・・とあるが本当だろうか。

確かに坂道ではあるが現在の権太坂は、行き倒れが出るほどの坂道には思えない。
しかし江戸時代には、この坂で行き倒れた人を投げ込む「投げ込み塚」があったという。

少し左に行けば、境木中学校の向かいにこの投げ込み塚跡がある。
この日は、投げ込み塚は見ずに先に向かったが、つい最近歩き直したときにお参りしてきた。

旅に出て、こんなところで倒れてしまう人もいたということだ。
合掌。



〈今の権太坂〉
 『権太坂は、別名・科野(しなの)坂ともよばれ、武蔵と相模の国境にあたる。「江戸名所図会」には、「・・・坂道の両傍には蒼松の老樹、左右に森列たり。坂の上にて右をのぞめば芙蓉の白峯玉をけずるがごとく、左を見れば鎌倉の遠山翠黛濃やかにして、実に、この地の風光また一奇観と称すべし」とある。』

・・・と、これまた池波正太郎の雲霧仁左衛門に書かれている。
この「雲霧仁左衛門」では、権太坂は盗人宿のある場所に設定され、重要な場所として登場している。

この坂のすぐ左は海で、なんとも風光明媚なところであったようだ。

〈投げ込み塚碑〉
境木地蔵尊

 
武蔵と相模の境の「境木地蔵尊」に向かう。
この写真の正面に見えるのが、「焼餅坂」や「信濃の一里塚」に続く道になるが、今日のところは農道のような狭い道を歩いて、環状2号線を越え、東戸塚で終了。

この頃はまだ次の宿場まで歩こうという気持ちも希薄であった。

最近、神奈川から戸塚まで歩きなおして、初めて「焼餅坂」や「信濃の一里塚」を通った。
初めて歩いた時には、疲れたところで歩くのをやめて帰っていたから、この道をまっすぐに行かず右の東戸塚駅に向けて歩いてしまったのだ。


※平成25年8月4日に再度歩きなおしたのでその際撮った写真も載せておきます。

〈武蔵と相模の境〉
 
〈これが江戸時代から祀られる境木地蔵尊〉
   
焼餅坂

 
この保土ヶ谷宿は、隣の戸塚宿とともに、日本橋を出立した旅人の最初の宿泊地となることが多かったそうだ。江戸より八里というところだ。

この焼餅坂は、このあたりで餅を焼いて売っていたのでついた名のようだ。他に深い意味はないらしい。

それにしても、平成の弥次さんはここまで来るのに3日かかっている。昔の人は本当に足が丈夫だったのだなと改めて思う。

ま、このペースで歩いていたら、いくらお金があっても足りないくらい宿代がかかってしまうだろう。

〈焼餅坂の標識〉
   
 
〈別名牡丹餅坂 権太坂を登り切った旅人が多く休んだという〉
 
〈現代の焼餅坂を下る喜多さん〉
   
   
   
  
〈新旧の標識が街道歩きを盛り上げる〉
信濃の一里塚

 江戸から数えて九番目の一里塚です。
神奈川県内では、ほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の重文史跡となっています。旧東海道を挟んで道の両側に二つの塚があり、信濃側〈西側)には昔大きな榎が植えられていたそうです。


ということで、日本橋を出立して初めて見る一里塚だった。ここまでに八か所の一里塚があったわけだが、時代とともに不要となった一里塚はほとんど壊されていった。

〈信濃の一里塚 根が張りすぎて収拾がつかない〉
   
 十遍舎一九の東海道中膝栗毛にこの保土ヶ谷の宿の留女(とめおんな)が、宿泊客を何とかして引き込もうと強引に客引きをする様子が、ざれ歌として記されている。

「おとまりは よいほどがやと とめおんな とつかまえては はなさざりけり」

「お泊りは 良い保土ヶ谷と 留め女 戸塚前ては 離さざりけり」

保土ヶ谷宿が、戸塚宿の手前であったことをうまく詠み込んだ秀作である。
 
 
   

〈こちらは道の反対に残る一里塚〉

〈蝉がうるさいほど鳴いている〉
   

〈旧東海道を浴衣姿のおじいさんがゆく〉

〈尾根の旧東海道は眺めがよかっただろう〉
   

〈旧東海道沿いに梨畑が〉
 
〈浜なしがおいしそうだったが喜多さんの高いの一言で通り過ぎる〉
   

〈信濃坂上〉

〈階段を下る〉
   

〈ここがかつての信濃坂〉

〈本来は向こうに見える道に続くのだが環状二号線で分断〉
   

〈最初に歩いた時にはこのような案内板はなかった〉
 
〈小さな川沿いに歩いて国道一号線を右折〉
   
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