〈二日目〉平成18年 12月29日 金曜日 晴れ 品川宿〜神奈川宿
【第2次 川崎宿 奈良茶漬けが有名だった】 

〈川崎・六郷渡船 江戸より2番目の宿〉
多摩川を渡る

 とにかく西に向かって歩けば何とかなると思っていた。
前回、中断した平和島まで電車で行って、再び歩き始めたのは暮れも押し迫った29日のことだった。

相変わらず地図も持ってなく、この日はほとんど国道15号線を西に向かって歩いた。
確かに15号線に沿って旧東海道はあったのだが、後で地図をよく見ると国道の右や左を旧道は走っている。

とにかく、この日ははじめての大きな川『多摩川』を渡る。
徒歩で大きな橋を渡るのは初めてのことだ。


この先、相模川や富士川、大井川や天竜川を歩いて渡ることになるが、今まで電車で一万回は軽く越える数を渡っている多摩川を歩いて渡ったのは、1時を過ぎたころだった。

〈多摩川を初めて歩いて渡る〉
  
〈神奈川県に入った 旧東海道の案内が〉
 『六郷の渡しは江戸・日本橋から東海道を四里半。武蔵・荏原郡、川崎の宿場に入る手前に、六郷の渡しがある。
六郷は多摩川のことだが、このあたりの村々を六郷村とよぶところから、「玉川を六郷の里にては六郷川という。
むかしは大橋ありて武蔵国・三大橋の一にして長さ百九間ありしが、洪水に破損したる故、元禄のころより船渡となる」とものの本に記されている。』
・・・と、池波正太郎の「雲霧仁左衛門」には書かれている。

大きな川を歩いて渡るときに気がついたのは、とにかく景色が遠くまでよく見えることだ。都会は高いビルに囲まれ、歩いているときに遠くの景色が見えるところは少ないが、多摩川のような大きな橋の上では、ビルがないため上流も下流も景色が遠くまでよく見える。


多摩川を渡り終えると、左に渡し場跡と長十郎梨の碑があり、右に旧東海道の案内表示がある。
案内に沿って歩くと、本陣跡の碑や「奈良茶漬け」が有名だったという「万年屋」の説明板などあるが、まったく当時の面影は残っていない。

〈通勤でお世話になっている京浜急行が鉄橋を渡る〉  

〈最近「東海道かわさき宿交流館」ができたので訪れてみた〉
 
〈平成25年12月の川崎宿の旧東海道〉
   

〈川崎駅を過ぎたあたりの旧東海道いさご通り〉
 
〈7年前にはなかった看板やシャッターの絵が〉
   
芭蕉句碑

 川崎駅、八丁畷(はっちょうなわて)駅を過ぎたところで、地図がないものだから国道に出てしまった。

 それからひたすら15号線を歩いて横浜駅までたどり着いたが、これでは東海道を歩いたことにならないから、後日喜多さんと二人で川崎駅から旧道を地図を見ながら歩き直した。

八丁畷駅の脇に芭蕉の句碑があった。

「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

この先東海道のいたるところに芭蕉が出てくる。
 
〈八丁畷駅近くの芭蕉句碑〉
 
 
   

〈道が田畑の間を八町(約870m)伸びていたため八丁畷と呼ぶように〉
 
〈八丁畷では江戸時代から多くの人骨が発見されたそうだ〉
   

〈市場一里塚は改装中(H25.12)〉
 
〈JR鶴見線の国道駅〉
   

〈横浜市指定無形民族文化財 鶴見の「蛇も蚊も」〉
 
〈6月第一日曜日に蛇も蚊も祭りは行われるそうだ〉
   
生麦事件発生現場

〈生麦事件の現場 F・ベアト幕末日本写真集より〉

〈リチャードソンはこの場所で切りつけられた〉
 鶴見川を渡り、魚河岸通りを過ぎると、生麦事件発生現場の説明板があった。
薩摩藩士が大名行列を馬で横切った無礼なイギリス人を切りつけた現場である。


吉村昭の「生麦事件」を読むと、イギリス人3名は大名行列を乱そうと思ったわけではなく、
馬に乗ったまま、行列をよけようとしたにすぎない。
しかし、「郷に入っては・・・」の例え通り、礼儀として馬を下りるべきであったろう。

一説には、島津久光が「切れ!」と命じたともいう。

そこから数百メートルはなれたところに立派な事件碑とお堂があるが、そこは切りつけられたイギリス人リチャードソンがとどめをさされたところだ。
こういう道沿いの小さな史跡は、歩いてみなければ出会えないことが多い。

この後、怒ったイギリスは薩摩と薩英戦争を起こす。
産業革命後とんでもない科学と軍事力を持ち、はるか遠く東の果ての日本まで航海できる技術を持った、世界の大帝国イギリスと薩摩一国で戦争を始めるなど、後世から見ればとんでもないことのように思えるが、
結果としてイギリスと戦ったことにより、薩摩は西欧の文明がいかにすごいものかを肌で知り、攘夷の無意味さを知った。

後に長州も四カ国連合艦隊と戦い、同じ結論に至るが、同時にイギリスも薩摩、長州の骨の太さを知る。


〈そしてこの場所でトドメをさされた〉

〈H25.12の生麦事件現場〉

〈もともとの事件碑は高速道路工事のため仮移設中〉
   
   
 平成25年12月に新聞で、「東海道かわさき宿交流館」がにぎわっているという記事を見つけたので、さっそく見学に行ってみることにした。

東海道や中山道を踏破してあちこちの資料館に訪れた「街道歩きのプロ」からすればとりたてて目新しくもない資料館ではあったが、7年前に歩いた時にはなかったこのような資料館や看板などがたくさん目についた。
街道歩き愛好者としては喜ばしい限りだ。


民間の方が「生麦事件参考館」を開館しておられるらしいので、訪れてみたがあいにく休館だった。残念。

ということで、新しく写真を追加したのでわかりにくいページになってしまったが、今は面影もないこの東海道で歴史は変わっていったのだ。

〈山手外人墓地にある被害者リチャードソンの墓〉
   

〈下関海峡 下関戦争で撤収した大砲を上陸用舟艇に積み込んでいる〉

〈前田砲台を占領したイギリス軍 F・ベアト幕末日本写真集〉

いままで、アジアを侵略し、ひたすら情けないアジア人しか見ていなかった西欧人は度肝を抜かれたことであろう。

日本人は侮りがたし、それまで恫喝外交しかしてこなかったイギリス人は、薩長と手を握ることを考え始める。

同じ日本人でありながら、旧来の陋習をひたすら続けようとした、会津藩をはじめとする諸藩は、
このような海外の文明と脅威を肌で感じなかったのであろう。

それも徳川家支配の体制存続を第一義とするしかない大名では仕方ないことか。

明治維新の主軸となった長州や薩摩は大海に面した藩であり、しかも外国の船が我が物顔にやってくるのを
自分の目で確かめている。

また中国や東南アジアの国々が、欧米列強に植民地化されているのを情報として知っていて危機感を抱いていた。

日本の未来に危機感を感じなかったという点では、新撰組も同じことだ。
現状の維持と、自分らの幕府における出世のことしか頭にない。
新撰組や見廻組や幕府方に殺された、幾多の幕末の志士たちが明治後も生きていれば、
日本はどのような国になったであろうか。


坂本竜馬、中岡慎太郎、吉田松陰、久坂玄瑞、・・・

そのようなことを思いながら、神奈川宿を目指す。

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