〈第1日目〉平成18年12月24日 日曜日 晴れ 日本橋〜品川宿
【日本橋 日本の道路の起点】

〈日本橋・朝之景 広重〉
 
〈明治44年にかけられた現在の日本橋〉
 平成18年のクリスマスイブの日、ついに京都三条大橋に向けての第一歩をしるすべく、日本橋に向かう気持ちになった。

何年も前から、旧東海道五十三次を一度は歩いてみたいと思っていたが、息子に見向きもされなかった丁子屋で買った
広重の絵はがきに背中を押され、ついに京都三条大橋に向けて歩き始めることとなった。

朝の10時ころ家を出た弥次さんはとりあえず駅まで歩き、京急百貨店にある八重洲ブックセンターで、
東海道に関する本を探してみたが見つからない。
まあ、日本橋まで行けば何か標識くらいあるだろうと、軽い気持ちで日本橋に向かった。

ちなみに、五十三次の「次」とは、馬や駕籠を乗り継ぐところ。駅。宿舎。・・・と岩波の国語辞典には出ている。
 広重の版画では、日本橋を大名行列が出発するところが描かれている。

東銀座までは定期券があるからしばらくは交通費がかからないが、滅多に行かない日本橋駅に着くと地下鉄出口でまず迷った。

とりあえず、外に出てみれば何とかなるかと、出口を探して地上に出てみる。すると、首都高速にふたをされたかっこうで、日本橋が重厚な面持ちで鎮座していた。

〈重厚な彫刻〉

日本橋は、慶長8年(1603)幕府がこのあたりの埋立て地を町割りする際に、
全国の大名に労働力を提供させてかけさせたものだそうだ。


翌年、各街道に一里塚を築くにあたって、この日本橋を五街道の起点にした。
この日本橋が日本の道路の起点であることは今も同じで、橋の中心には「日本国道路元標」が埋め込まれている。
しかし、車の往来も激しいので、本物の「日本国道路元標」を見に行くことはできなかった。

日本橋は何度もかけかえられたが、現在の橋は明治44年(1911)にかけられたもので、
さすがにどっしりと重厚な趣である。
しかし、昭和39年(1964)の東京オリンピックの際、首都高速道路が橋をおおうようにふたをしてしまった。

せっかくの景観が台無しである。


〈橋の脇にある道路元標のレプリカ〉

〈京都まで503kmとあるが旧東海道は495km〉
江戸時代は「♪お江戸日本橋七つ立ち・・・」という歌にもあるように、明け方七つ(午前四時)には旅立ちをした。

朝暗いうちから歩き始めて高輪あたりで夜が明けるのが一般的で、健康な男は8里(約32km)先の保土ヶ谷宿か10里(約40km)先の戸塚宿まで一気に歩いたそうだ。

当時は当然のこと、歩くのが当たり前で少しは馬や駕籠も使ったであろうが、京都三条大橋までふつうは12〜15日でたどり着いたという。


日本橋から京都三条大橋まで約500km弱なので、1日8里〜10里(約32km〜40km)平均で歩いたことになる。信じられないくらいの健脚である。

〈築地に移転する前の魚市場は日本橋にあった〉
歌川広重住居跡

 東京駅の近く、ブリヂストン本社の裏手にひっそりと「歌川広重住居跡」の案内板が立っている。

現在の中央区京橋一丁目九番にあたる。

浮世絵師歌川広重(1797〜1858)が、嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年間を過ごしたところなのだそうだ。

広重は、幕府の定火消組同心安藤源右衛門の長男として生まれたが、文化8年(1811)15歳の時に歌川豊広の門人となり、翌年には「広重」の号を与えられ、歌川を称することを許されましたとある。

〈歌川広重住居跡〉
 
 〈かつての東海道は日本で一番地価の高い通り、高級ブランド店がひしめく〉                 〈日本橋から1km〉
警察博物館

 日本橋を西に向けて歩き始めた弥次さんは。「広重住居跡の碑」や「銀座発祥の地の碑」を見ながら、途中で見かけた「警察博物館」に立ち寄ってみた。

銀座や築地でもう30年近く働いているが、こんな機会でもなければ立ち寄ることもないであろう。

「警察博物館」には、浅間山荘事件の時に殉職した警官の着ていた制服や、立てこもっていた日本赤軍に撃たれた弾痕の残ったジュラルミンの盾などが展示されていた。

ほかにも凶悪事件で殉職した警官が多数紹介されていて、頭の下がる思いで博物館をあとにする。



〈京橋の後ろに警察博物館〉
 見慣れた東京タワーもこうして東海道から眺めると思えば新鮮に映る。高いと思っていた展望台も150mだそうだから、その程度の高層ビルはいくらでもある。

川柳の前句集に

高なはへ来てわすれたることばかり

というのがあるそうだが、高輪まで一里も歩いてから忘れ物を取りに帰る気にはならなかったことだろう。

〈三田の歩道橋から〉
西郷・勝会見の地碑

 三田駅に近くのこの場所は、慶応4年3月14日、官軍の西郷隆盛と幕府側の勝海舟が江戸城明け渡しの会見を行ったところだ。今は三菱自動車の本社になっている。

古地図でみると、この場所は薩摩藩邸だったことがわかる。この碑のすぐ向こうは海で船で運ばれてきた物品が薩摩藩の蔵に積み込まれた。

この二人の会見により、江戸城の無血開城が決められたことで、江戸の市民は戦火に巻き込まれることから回避できたのだ。


勝海舟でなく徳川幕府大事の他の強硬派が交渉人だったら、会見は決裂して江戸は火の海になっていたかもしれない。

〈西郷・勝会見の地碑〉
高輪大木戸

 高輪の大木戸は、江戸の治安維持のため、宝永7年(1710)に東海道の両側に石垣を築き設置された。各町にある「町木戸」に対し、江戸全体を守る木戸であることから、「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客でにぎわったという。

初めは柵門があり明六ツ、暮六ツに開閉していたが、後に廃止され幕末に描かれた浮世絵には石垣のみが描かれている。

伊能忠敬が日本地図作成のために行った測量の起点がこの大木戸だった。明治初年に西側の石垣は取り払われ、現在は国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側の石垣だけが残されている。


ということで、そのつもりで見なければ見過ごしてしまいそうだ。

〈高輪の木戸跡〉
泉岳寺

 新橋、田町を過ぎて、一度行ってみたかったが機会がなかった「泉岳寺」に立ち寄ることにする。一番奥まったところに、大石内蔵助をはじめとする四十七士の墓があった。吉良上野介の首を洗ったという井戸もある。

時間もないので、それぞれの墓にかるく頭を下げて、また西に向かって歩くことにする。

品川駅を過ぎて、京急の線路を越え、二つある道のうち右の狭い道が旧東海道だ。
この品川宿の東海道は、区が力を入れているのか、商店街が盛り上げようとしているのか、標識が親切にあちこちに設置してある。


〈泉岳寺の門前には忠臣蔵にまつわるお土産が〉
【第1次 品川宿 見送りや迎えの人で賑わった】

〈品川・日の出 江戸より1番目の宿〉
 最初のころは地図も持たずに歩いたため、見逃してしまった歴史跡もたくさんあるし、旧道を見逃して国道を歩いてしまったりで、何ヶ月か経ってからまた歩きなおした道もある。

広重の品川宿は、宿や煮売り屋のすぐ左側は海になっているが、現在ははるか沖まで埋め立てられて、当時の面影はまったくない。
喜多さんがリュックを背負って歩いている道が、広重が描いた東海道品川宿の道だ。

江戸時代にはさぞにぎやかだったことだろうと思うが、現在は品川駅の開発に取り残された形で、歩いている人もまばらだ。

〈この道の左は海だった〉
土蔵相模跡

 この日歩いたときには気づかなかったが、ここは長州の高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文などが倒幕や攘夷について激論を交わしたという妓楼「土蔵相模」があったところだ。

文久2年(1862)12月12日、高杉晋作ら長州藩の血気の若者たちが御殿山に建設中の英国公使館を焼き払った際には集結地となった。
また「桜田門外の変」決行前夜、水戸浪士たちが別杯を交わしたのもここであった。

「土蔵相模」は昭和52年まで「ホテル相模」として営業していたというが、老朽化のため取り壊され、現在はコンビニのあるマンションになっていて、説明板が立っているだけだ。

〈土蔵相模跡〉
 東海道中膝栗毛では、神田八丁堀の長屋から逃げ出した弥次郎兵衛が品川に着いて、「海辺をばなどしな川といふやらん」と難癖をつけると、喜多八が「さればさみず(鮫洲)のあるにまかせて」と下の句をつける。

「品川は海辺なのになんで〈しな川〉というんだよ」
「だってさ水(鮫洲)があるからだろ」

弥次喜多の時代は、品川の東海道筋は海辺だったことがよくわかる。

〈品川橋〉
    
〈品川地蔵〉                             

 〈鈴ヶ森で処刑される罪人を見送ったという涙橋〉
鈴ヶ森刑場遺跡

 江戸時代から続くお寺などを見物しながら歩いていくと、国道15号線に合流するところにおどろおどろしい雰囲気の場所がある。
いつも京急の電車から見えて気になっていた「鈴ヶ森刑場跡」だ。

鈴ヶ森の手前になんということもない橋が架かっているが、この橋は「涙橋」と呼ばれ、刑場に送られる罪人を見送る別れの場所であったという。

刑場跡には、磔や火あぶりの際、柱を立てた台石が残されており、思わず両手を合わせた。有名な「八百屋お七」が火あぶりにされたのもこの台石だそうだ。

南無阿弥陀仏・・・・・。



〈鈴ヶ森刑場跡 異様な雰囲気だった〉
 いったいに刑場というのは庶民に対する見せしめで悪いことをするとこんな目に合うんだよということをアピールする場所であったかから、街道沿いの人通りの多いところに設置されていた。

磔や火あぶりにされないうちに、気味の悪いところはさっさと退散して、さらに西を目指す。しかし、初日の今日は歩き始めたのも遅かったし、地図もなくどこまで歩けばよいのか見当もつかない。

大森海岸を過ぎたあたりで足も痛くなってきたし、時間も4時になり冬だからもうすぐ日も暮れる。

平和島まで歩いたところで、電車に乗って帰ることにする。
 

〈右の台石に木材を立て火あぶりにしたという〉
 この日歩いたのは、万歩計で約23,000歩。

使ったお金は、電車代 東銀座〜日本橋190円、吉野家の牛丼80円(300円は優待券)、ペットボトルのお茶代150円だけだった。
東海道歩きとは関係ないが、銀座の旧東海道沿いの吉野家に昼飯を食べに入ったとき、クリスマスイブだというのに一応勝負服
らしい若いカップルが入ってきて、男が牛丼とビールを注文した。

青年よ、少しは入る店を選べよ!と突っ込みそうになった。
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