〈二十日目〉 平成19年 9月2日 日曜日 曇り時々雨 赤坂宿〜藤川宿〜岡崎宿
【赤坂宿続き】

時ごろ大橋屋を出発。

昨夜娘さんがいたようなので、跡取りは大丈夫かご主人に聞いてみたが、ちゃんと二十代目がいるようだ。
後継者不足で閉店する老舗が多いなかひと安心だ。
このような旅籠はずっと残していってほしいと思う。

赤坂宿から藤川宿へは山間の道が続く。
旧東海道に沿って名鉄名古屋線が走る。
前に中山道を車で走っていたときにも思ったのだが、旧道沿いには鉄道が同じように沿って走っていることが多い。


〈東海道 赤坂宿碑〉

やはり東海道にせよ中山道にせよ、旧道はそのむかし街道を拓いた人たちにとって、一番手がかからずに効率的な箇所を選んで普請されたのだろうと思う。

トンネルを掘る技術もなく、山すその道として使えそうなところを削り、盛り上げ、平らな道にして切り開いていったのだろう。

だから明治以降、鉄道を通すにしても、旧道沿いに敷設するのが一番効率がよいに決まっている。
鉄道だからトンネルも必要だし橋も必要だが、地形から来る必然性でルートは決められていることを実感する。


〈名鉄名古屋線は旧東海道に沿って走っている〉

しかし、すでに歩いてきた宿の中には、鉄道が通ることを嫌い、宿を挙げて反対し、時代から見捨てられた感の宿場もあった。

日坂宿などはその典型で、東海道本線は大きく菊川に迂回しているので、人も物も流通が少なくなり、活気のない街になっていた。

ただし、街道歩きの旅人にとっては昔の雰囲気が残る貴重な街といえるだろう。


〈このような石絵を敷き詰めた家があった〉
   

〈赤坂宿のマンホールのふた 広重の絵が描かれている〉

〈新しい冠木門〉
【第37次 藤川宿 法蔵時には近藤勇の首塚が】

〈藤川・棒鼻ノ図 江戸より37番目の宿〉
藤川宿棒鼻

 藤川宿に入るところに復元された「東棒鼻」がある。

棒鼻とは宿場の出入り口のことで、大名の通行の際には宿場役人がここで出迎えた。

広重の描く五十三次藤川宿の構図は「棒鼻の図」となっている。

〈藤川宿・現在の棒鼻〉
近藤勇の首塚

平成6年に建てられたという冠木門を越えた先を左に入ると、「法蔵寺」がある。

この寺は、徳川家康が幼少期を過ごしたところといわれ、新撰組局長近藤勇の首塚がある。
なぜこのようなところに近藤勇の首塚があるのか不思議であるが、板橋で斬首された近藤勇の首は京都に送られ、街頭にさらされた。

どんな人にも支持者や恩義を感じている人はいる。
まして、天下の新撰組局長 近藤勇である。


〈法蔵寺〉

夜陰さらされている近藤の首を奪い、新撰組ゆかりの京のお寺に葬ろうと住職にお願いしたところ、この住職がちょうどこの法蔵寺に勤め替えをすることになり、近藤の首も京ではなく藤川宿のこの寺に葬ることになったという。

当時の明治新政府にとって近藤勇は大罪人であり、特に長州人にとっては許せるものではなかった。

新撰組のためにどれだけの長州やそのほかの有為の志士が殺されたことだろう。
だから、近藤の首はひっそりと埋められ、おおっぴらに公表されたのは明治も中ごろになってからだという。


〈板橋→京→藤川と首は運ばれた〉

弥次さんも長州人の端くれだから新撰組にはよい感情を持っていないが、いつまでもそんなことを言っていられないので、手を合わせて拝んできた。

やたらと藪蚊が多い寺であった。


〈藪蚊が多かった首塚〉

宿の中ほどに脇本陣跡があり、「藤川宿資料館」の看板が出ていたので入ってみる。

どうも無人の資料館のようだ。誰もいない。

六畳一間ほどの資料館は、五分ほどで見終わり、その先を目指す。


〈藤川宿道標 左東海道〉
藤川宿松並木

東海道は「吉良道道標」のある二また道を右に行き、名鉄の踏切を渡ると、りっぱな松並木が続いている。

乙川にかかる大平橋を渡るとまもなく岡崎宿に入る。


〈藤川 松並木〉
【第38次 岡崎宿 家康の居城であった岡崎城の城下町】
  
〈岡崎市に入った〉                   〈乙川の大平橋 日本橋から323km〉              〈民家の玄関先に巨大かぼちゃが〉
二十七曲り

岡崎には「二十七曲り」という曲がりくねった道があったらしい。

今はたくさんの道ができているから、正しい二十七曲をたどるのはそれなりに骨が折れる。何とか正しい「二十七曲り」をたどろうとしたが、喜多さんの足が限界に近づいていた。


途中で端折って岡崎城の脇を通り、中岡崎駅に向かうことにする。


〈岡崎二十七曲りの碑〉

本日の街道歩きはここで終了。

駅のそばに「八丁味噌の郷」という看板があったので、次回来たときには是非見学をしようと思う。


〈岡崎城〉
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