〈19日目〉 平成19年(2007)9月1日 土曜日 晴れ 二川宿〜吉田宿〜御油宿〜赤坂宿
【第33次 二川宿 やっと愛知県 立派な本陣が残る】

〈二川・猿ヶ馬場 江戸より33番目の宿〉
二川宿続き

 前回、雨の中をたどり着いた二川(ふたがわ)宿に、今回は喜多さんとやってきた。今回は初めての宿泊付きの東海道歩きだ。

二川宿には立派な本陣資料館があるらしいが、前回到着したときには夕方で見学する時間もなかったので、今回歩き始める前に見学することにした。

〈二川本陣資料館 高札場〉
二川本陣資料館

 前回すでに二川駅まで歩いているので、よけいな体力を消耗させないように、できたら二川駅から資料館までの約1kmはタクシーに乗るつもりだった。しかし、地方の駅前にはタクシー乗り場はあってもタクシーがいることのほうが少ない。東京の感覚でいたら当てが外れることのほうが多いから気をつけたほうがよい。

仕方がないので、約1kmを江戸方面に戻り、本陣資料館を目指す。

〈本陣の玄関〉
旅の費用

 この資料館は、文化4年
(1807)から本陣職を務めた馬場家の建物を整備して公開してある。隣には旅籠「清明屋」もあり、あわせて見学できるようにしてある。

この資料館の二階には、江戸時代にかかった費用が展示してあった。『旅の費用は3人で約10両でした。今のお金に直すと約80万円。1日平均18,000円となります。旅行の前後の費用と足すと総額で13〜14両(約100万円〜110万円)かかりました。』とある。1人35万円くらいで、今の国内旅行からするとずいぶんかかったものだ。ちょうど現代の海外旅行に匹敵するのではないだろうか。それというのも、交通手段がほとんど徒歩に限られていたため、日数がかかることに起因するのだろう。

〈弥次さんのような庶民は泊まれない上段の間〉
江戸時代と平成の物価比較

わらじ17回購入、一足 14〜17文(170〜290円)
間食として秋の味覚、柿1つ 3〜12文
(40〜140円)
さつまいも1つ 3〜9文
(40〜110円)
栗1つ2文
(24円)、茶代 4〜16文(50〜190円)
みかん1つ4文
(50円)、草餅1つ 9文(110円)

酒匂川川越代、3人と荷物1つ分 256文
(3,100円)
興津川川越代、1人分 100文
(1,200円)
丸子名物とろろ汁、3人分 124文
(1,500円)
府中名物安倍川餅、10個 50文
(600円)
東海道旅籠代、1人分 250文
(3,000円)
駕篭代袋井〜見附、110文
(1,300円)
酒代16文
(190円)

〈こうして見ると何てことない距離に思えるが・・・〉
 こうしてみると、物価の変わっているものと変わっていないものとがはっきりわかる。素材としての食品の値段はあまり変わっていないように思う。やはり、生きていく上での根幹をなすものだから極端に値段が上がったり下がったりしないのだろう。

それに比べて人件費にかかわるものは、昔はずいぶん安かったのだなと思う。

〈オカツラ節句と書いてあった〉
 
 袋井から見附までは約6kmであるが、チップを入れても約1,500円だ。しかも駕篭は1人では担げない。川越代も人を背負って冷たい川に入って1,000円程度。距離で換算すると今だったらバスで200円程度、電車でも同じくらい、タクシーで2〜3,000円程度か。

人足からすれば安い駕篭代も利用する旅人からすれば無用の出費に思えたことだろう。現代の橋は歩いて渡ればまずタダだ。昔の旅人はずいぶんとよけいなお金も使わなければならなかったことだろう。だから、旅人にとっては貴重なお金をなるべく使わないように、川の水量の少ないときには自分の足で歩いて渡ったという。駕篭もよほどのことがなければ使わなかったことだろう。

〈旅籠に着いて足を洗う喜多さん〉

〈おいしそうな晩御飯〉

〈りっぱな中庭〉
 面白い資料館だったが、あまり時間もないので早々に見学を切り上げ街道に戻る。また二川駅まで歩いて戻りその先を右折、火打坂を上り岩屋緑地を迂回する道を西に進む。

なんということのない田舎道が続く。あまりに普通の道ばかりだったため、広重の絵に対応する写真を撮り忘れていた。ここはひとつ本陣資料館の入り口にあった高札場の写真でごまかしておくことにする。

〈右東海道の道標〉
【第34次 吉田宿 岡崎の矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道三大大橋といわれた吉田橋があった】 

〈吉田・豊川橋 江戸より34番目の宿〉
 そうこうするうちにだんだんと街中に入っていき、豊橋市の中心に近づく。吉田宿だ。この吉田宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠65軒と大きな宿場であったという。

また、『
吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振袖が』とうたわれ、飯盛り女が多い宿場であったという。今はまったく往年の面影はない。

〈豊川橋からの豊川〉
 
きく宗の菜めし田楽

 今日、ここまで歩いてくる楽しみのひとつは、「きく宗」の「菜飯田楽」を食することだ。この「きく宗」は文政年間(1818〜1844)創業でその味を変えることなく今に伝えるという。田楽豆腐と大根菜の菜飯だけのメニューだったが、素朴で非常においしかった。

ただ値段は1,700円もする。先ほどの二川本陣資料館にあった物価比較で行くと、1文12円として140文といったところか。当時も結構高い食べ物だったのだろう。せっかくの「きく宗」なのに。喜多さんはおなかが空いていないとぜんざいを注文していた。

〈これがきく宗の菜飯田楽 おいしかった〉
豊川を渡る

 菜飯田楽をおいしくいただいて街道に戻り、その先を進むと豊川にかかる豊橋を渡る。江戸時代は「吉田大橋」とよばれ、岡崎の矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道三大大橋と言われていたという。大きな豊川の先には小さな川があり、小さな橋が架かっている。喜多さんはこういうときのために持ち歩いているパンを川のカニに投げてやっている。

この先の菟足
(うたり)神社には、千年ほど前には人身御供の風習があり、春の大祭の初日にこの街道を通った若い女性を、神へのいけにえにしていたという。なぜ、若い女性でなければならないのだろうか。ばあさんではいけないのか。またじいさんではいけないのか。男ではいけないのか。昔から神様は若い女性が好きだったということであろうか。ま、いけにえの価値という観点からするとおのずと明白か・・・

〈惣門跡〉
子だが橋の伝説

 『ある年の大祭の初日、いけにえ狩りをする人が獲物を探して街道を見ていると、ひとりの若い娘が通りかかった。見れば久しぶりに親に会うのを楽しみに奉公先から戻ってきた我が子であった。最愛の子を神にささげるべきか、村の決まりと親の愛情のはざまで男は迷い苦しんだが「子だが仕方がない」と結局いけにえにしてしまったという。この話からこの橋を「子だが橋」と呼ぶようになったという。』おろかな親もいたものである。

〈いけにえを欲しがった神とは・・・〉
姫街道

 この先には、旧東海道がなくなっているところがあるらしい。古くから続く東海道は、明治・大正・昭和・平成の時代の流れの中で、あるところでは国道に作り変えられ、あるところでは国道からはずれほとんど人が通ることもなく、あるところでは道があったことさえ忘れ去られている。御油の手前で田んぼの中の道を歩いた先に確かに東海道がなくなっているところがあった。仕方がないので、民家の庭先を通らせてもらいまた道に復帰する。大社神社を過ぎ、御油(ごゆ)の宿に入る。

浜松の今切で船に乗るのを嫌った女性がよく利用したという姫街道は、この御油宿から見附宿までの浜名湖の北を通る道だ。

〈見附宿からの姫街道が御油宿で合流する〉
【第35次 御油宿 飯盛り女が多かった】

〈御油・旅人留女 江戸より35番目の宿〉
御油宿

 御油宿は、本陣4件、旅籠62軒という小さな宿場にしては珍しいほどにぎわった街だったという。住人も女性のほうが多く、広重の絵にあるように飯盛り女が多いことで有名な宿だった。

雰囲気の残る街並みを抜け、いよいよ御油の松並木にさしかかる。


〈昔日のにぎやかさはない 留女もいない〉
国天然記念物 御油の松並木

 十返舎一九の東海道中膝栗毛では、弥次さんが狐に化かされてしまう松並木である。この松並木は赤坂宿まで約600mも続き、昭和19年には国の天然記念物に指定されている。

特攻隊や、人間魚雷回天という、人権無視のとんでもないことを考えていた時代に天然記念物の指定を受けたこの「御油の松並木」は、ぜひ車ではなく歩いて通ってほしいと思う。

〈天然記念物 御油の松並木〉
 御油宿と赤坂宿は、松並木を間にはさんですぐ隣の宿場だ。その距離わずか1.7km。

旅人のための宿場というより、遊興街としての性格のほうが強かったようだ。

〈御油宿 こくや〉

〈郷愁をそそる看板〉        〈松の切り株にきのこが〉          〈赤坂側からの松並木〉
【第36次 赤坂宿 江戸時代から続く旅籠 大橋屋に宿泊】

〈赤坂・旅舎招婦ノ図 江戸より36番目の宿〉
広重が描いた大橋屋の灯篭

 松並木を過ぎるとすぐに赤坂宿に着く。東海道を歩き始めてから、この赤坂宿の「大橋屋」に泊まることがあこがれだった。

この大橋屋はもとは「伊右ェ門鯉屋」という旅籠で、明治の初めには女郎置屋として営業していたという。


〈広重が描いた中庭と灯篭〉
芭蕉も泊まった?

古くは松尾芭蕉も泊まったという部屋がそのまま残されている。ぜひ泊まりたいと思い、1週間前の8月25日に予約してみたが満室だと言われた。

喜多さんもどうしても泊まってみたいというので、では9月1はどうですかと聞くと空いているという。


〈あこがれの大橋屋〉
 
 ではその日に決行だということで、ちょうど赤坂宿の大橋屋に夕方歩いて着くような行程を組んだのだ。そのほうが旅人の気分が味わえる。大橋屋に着くとさっそく建物の前で記念撮影をする。

この大橋屋のすごいところは、350年前の建物のままで営業を続けているというところだ。もしかして、風呂は薪で焚く五右衛門風呂で、トイレは汲み取り式か?と思いながら中に入る。

〈芭蕉も泊まったという大橋屋〉
 この東海道に面している部屋が350年前からある部屋で、この部屋に泊めてもらえるのかと思っていたら、奥の離れの二階に通された。まだ暑い時期だったので、この部屋は町の文化財になっており、エアコンが取り付けられないことから、夏場はお客さんを泊めないことにしているそうだ。

しかし、びっくりしたのは、夏場は限定一組の宿泊で、喜多さんと二人で奥の三部屋続きの和室が独占できたことだ。プライバシーの問題で、ふすまで仕切られた部屋しかないので、一組しか泊めないという。何と贅沢なことだろう。涼しくなってくると、街道沿いの部屋もエアコンなしで使えるので一日二組泊めるそうだが、昔の旅人は相部屋が当たり前だったのに、平成の旅人は贅沢になっている

〈明治時代は女郎置屋だったという〉
広重が描いた蘇鉄

 薪で焚く五右衛門風呂かと思って入った風呂は、昔風の丸いヒノキ風呂だったが、なんと全自動のガス風呂だった。トイレも温水洗浄の最新式のものであった。

赤坂宿を描いた広重の絵には、この大橋屋の中庭が描かれており、赤坂・旅舎招婦ノ図とある。左の廊下には湯上りらしい男の姿、右の部屋には化粧に余念のない女の姿が見える。絵の灯篭は、今も大橋屋の中庭に残る灯篭だといわれ、南北朝のころのものだという。また大きなソテツは、今は近くの浄泉寺に移されているというので、翌朝見に行った。 

〈広重が描いた蘇鉄を移したものだという〉
 どうですか、広重の描いた五十三次の絵そのままの旅籠に泊まれるとは、東海道歩きの醍醐味ではないですか。無理して日程を合わせても一度は泊まってみたい旅籠です。

夕食も素晴らしくおいしかったので、喜多さんと2人大満足。これで一泊二食10,500円はかなりお得だ。特に名物のとろろ汁は食べきれないほどの量でおいしかった。

〈大橋屋の夕食 おいしかった〉
芭蕉が泊まった部屋

夕食の後で、宿のご主人に館内を案内していただいた。このご主人は十九代目で、愛想はないが料理もうまく親切な方だった。奥さんにも気持ちよくもてなしていただいた。

街道に面した部屋は、3部屋続きで一番奥に松尾芭蕉が泊まったという部屋がある。とても300年以上経った家には思えない。板敷の廊下も窓の桟もピカピカで、本当に丁寧に掃除が行き届いている。


〈弥次さんの座っている部屋に芭蕉は泊まったといわれる〉
 部屋には、江戸時代か明治のころ客が墨で落書きをしたという戸袋がそのまま残っている。また、窓が斜めに造られているため、一枚一枚の格子戸の大きさが違うというようなことを、宿のご主人は丁寧に案内してくれた。

母屋の梁には大きな俵が3つも乗せてある。一番古いのは、この旅籠が建ってから一度も開けてないそうだから真っ黒になっている。比較的新しいのは明治のころ改築したとき乗せたらしいが、中身が気になるところだ。どうも米が入っているのではなく、お札が詰められているようだとご主人はおっしゃっていた。

〈もとは中央に囲炉裏があったという〉

翌日早起きして散歩に出かけてみた。向かいの尾崎屋はまげわっぱを製造販売している店で、ここも昔ながらの建物で雰囲気があるが早朝すぎて開いていなかった。関川神社や、大橋屋の広重が描いた蘇鉄を移植したという浄泉寺を見てから、大橋屋に戻り朝食をいただく。

静かな時間が流れていく。東京の高層ビルに囲まれた毎日に比べてなんと豊かな気持ちになれることだろう。ここには都会の人たちが忘れた余裕と安らぎが感じられる。こういう雰囲気を味わうために東海道を歩いているのだと感じさせるものが、この赤坂宿にはある。


〈まげわっぱの尾崎屋〉
大橋屋のご主人と

 弥次さんのとなりで一緒に写っているのが十九代目ご主人。のれんには、芭蕉の句「夏の月御油より出でて赤坂や」が書かれている。御油宿と赤坂宿の近いことを詠んだのだという。

弥次さんも一句ひねりたいところだが、歌心が不足しているため出てこない。

〈浴衣で失礼 19代目ご主人と〉

〈この階段の奥の部屋に泊まった〉       

〈実は全自動のガス風呂〉
   

〈大橋屋はお薦めですがその後廃業してしまいました〉
   
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