〈13日目〉 平成19年(2007)3月24日 土曜日 晴れ 丸子宿〜岡部宿〜藤枝宿
【安倍川を渡りとろろ汁で有名な丸子宿へ】

〈府中・安倍川 江戸より19番目の宿〉
 わずか3日前に由比から江尻までを歩いたばかりであるが、青春18きっぷが使えるうちに少しでも遠くに行っておきたい。今日は喜多さんと二人で磯子発6時30分の電車で出発。熱海で乗り継いで9時30分に安倍川駅に到着した。つい1週間前帰りの電車に乗った駅に着いて、宇津ノ谷峠を目指して歩き始める。

先日通ってきた道を戻ればよかったのだが、住宅街を北に向かって歩いていたら道がわからなくなった。丸子川のほとりで測量をしていた人に旧東海道を聞いたがよくわからないという。それでも川の上流が旧道らしいと教えてもらい、川に沿って歩くことにした。

〈安倍川橋 対岸は遠い〉
【第20次 丸子宿 とろろ汁と宇津ノ谷峠】

〈丸子・名物茶屋 江戸より20番目の宿〉
丁子屋

 丸子川はそんなに大きな川ではなく、歩道はよく整備されて気持ちがいい。朝の散歩らしい年寄りも何人か歩いていた。そのうちに右に旧道らしき家並みと道が見えてきたので、そちらを歩くことにした。丸子の街は古い家が結構残っている。「お七里役所跡」という碑があったので、説明文を読んでみると、紀州藩のような親藩の大藩は、江戸との通信のために七里ごとに役所を設け、最短での連絡網を自前で作っていたという。

その先に、なつかしの「丁子屋」が見えてきた。なつかしのというのは、姪の結婚式が浜松であった時に、この「丁子屋のとろろ汁」をガイドで見て、食べに寄ってみたことがあったからだ。

〈数年前に食べに寄った丁子屋、いつも行列ができている〉
 
 そのときは車で来たが、今回は歩いてきた。ただ今回は朝が早いので店はまだ開いていない。名物「とろろ汁」も一度食べたことだし、開店まで1時間もある。とても待っていられないので先に進むことにする。喜多さんは手前の売店で天津甘栗を買っていた。

弥次さんが東海道を歩くきっかけのひとつになったのは、冒頭で紹介した通りこの「丁子屋」かもしれない。前に来た時にここの売店で息子のお土産に「東海道五十三次絵はがき」を買ったのだ。しかし、息子が関心を持たないので自分の本棚にしまったまま忘れていた。あれからもう4〜5年も経つことだろう。まさか、ここまで歩いてくるとはあの時は思いもよらなかった。

〈この日は朝早かったので開いていなかった〉
 あるときふと開けてみると、日本橋からはじまる広重の絵が素晴らしいことに改めて気づいた。
「この絵の場所が今も残っているだろうか」と思ったのが、東海道を実際に歩いてみようと思った
動機のひとつになっている。ましてやこの丸子宿の丁子屋の風景は広重の絵そのものだ。とろろ汁の
看板の左には弥次さん喜多さんらしき二人がとろろ汁を食べている。膝栗毛では派手な夫婦喧嘩が
始まって、とろろ汁を食べるどころではなかったが。広重もこの道中記を意識してこの絵を描いたの
であろう。

〈岡部・宇津之山 江戸より21番目の宿〉
宇津ノ谷峠

 丁子屋から左の丸子橋を通り、しばらく国道沿いを歩くと左手に道の駅がある。この先はいよいよ宇津ノ谷峠越えだ。

道の駅の食堂で桜エビのかき揚げそばを注文、腹ごしらえをして出発。左には「蔦の細道」の案内板がある。

〈宇津ノ谷峠を越える〉
 この「蔦の細道」は、在原業平ゆかりの古道で、古代の東海道だという。そちらも歩いてみたかったが、今回は東海道五十三次をめぐる旅なので、宇津ノ谷峠を越えることにする。

この宇津ノ谷峠は、豊臣秀吉が北条氏攻略の際に開いた道だと言われている。歩道橋を越えて右の道をしばらく行くと案内板があり、街道は左に分かれる。この先が宇津ノ谷の集落である。

〈タイルが敷かれた道、正面が宇津ノ谷峠〉

道はタイルが敷かれ、とても山奥の集落の道とは思えない。子どもが元気に遊び、その母親が
のんびりと世間話をしている。そんなのんびりとした集落であった。向かいの山が宇津ノ谷峠だ。
あの山を越えて岡部宿に向かう。家々にはかつての屋号が下げてある。いま通ってきた丸子宿にも
家という家に屋号がかけてあったが、どうも観光用の装飾品のような気がする。それとも本当に
当時の屋号だった家の子孫がみんな住んでいるのだろうか。

 
「慶龍寺」は鬼退治伝説の「十団子」で知られる寺だ。

十団子の伝説

『むかし、この地にあった梅林寺という寺の住職に腫れ物ができた。小僧に膿を口で吸いださせた
ところ、その小僧は人肉の味を覚えて、この宇津ノ谷峠を通る旅人を捕まえては食べる鬼になって
しまった。ある日、峠にひとりの僧侶がやってきて、この僧侶の前にも鬼と化した小僧があらわれた。
「ほう、おおきいな。お前は何にでも化けられるというが、小さいものにも化けられるか。今度は
小さな団子に化けてみよ」と僧侶にそそのかされて、鬼は僧の手のひらに乗る小さな団子に姿を
変えた。僧侶はこの団子を杖でたたいて十にくだき、ぺろりと飲み込んでしまった。この僧侶は、
実は宇津ノ谷峠の地蔵堂の地蔵菩薩であったという。』

十団子を売っている店を探してみたが、特にお祭りでもない日だったので見当たらなかった。
お羽織屋

 宇津ノ谷峠は、秀吉が小田原攻めをする際に開いた道だという。秀吉が通った際、馬にはかせるわらじを所望したところ、四は死につながり縁起が悪いからと三つしか渡さなかったという。その機知を喜んだ秀吉が着ていた羽織を与えたのだそうだ。それが今日も残っていて「お羽織屋」として「秀吉拝領の羽織」を公開しているというが、パスして先を急ぐことにする。

しかし、こんな狭い道を大名行列が通ったの?というほどの道だ。この竹林は丸子側の上り道であるが、広重の絵は岡部側の下り道であるらしい。

〈秀吉からもらった羽織〉
 司馬遼太郎の「風神の門」は、大阪の陣を前に、真田幸村にほれ込んだ伊賀の忍者「霧隠才蔵」と
甲賀の忍者「猿飛佐助」が駿府の「徳川家康」を暗殺しようと、江戸方についた風魔の「獅子王院」と
戦う、非常に面白い時代小説だ。才蔵と佐助は、三好晴海入道と小若とで九度山から、亀山、四日市、
桑名を通り駿府へ向かう。

『駿河岡部宿についたときは、まだ日が高かった。・・・才蔵は腕を組み、明かり窓からわずかに
のぞいている宇津谷
(うつのや)峠を見た。峠の道は二里。箱根に次ぐ難所といわれている峠だ。
道は馬一頭がかろうじて通れるほどの狭さで、樹木が天をおおい、昼なお暗い。
平安のむかし、在原業平
(ありわらのなりひら)の著といわれる「伊勢物語」にも、
 ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、
蔦楓
(つたかえで)はしげり物心ぼそく・・・とある。
むかしも、いまも、宇津谷峠のすさまじさはかわらない。』

さすがに司馬遼太郎先生。文章のうまさが、宇津ノ谷峠の情景を彷彿とさせる。
【第21次 岡部宿 大名が泊まると隣の宿から夜具を借りるほど小さな宿場だった】
大旅籠柏屋歴史資料館

 峠を下りきったところに「坂下の鼻捕り地蔵」がある。このあたりで牛がどうしても動かなくなり、弱り切っていたらこのお地蔵さんが牛の鼻をとって動かしてくれたという、なんとも素朴な伝説である。

やがて国道1号線と合流し、道の駅を過ぎて県道208号線へ。十石坂観音堂あたりから岡部宿へ入る。左手にりっぱな旅籠らしき建物が見えてきた。もとは旅籠であった柏屋を整備した「大旅籠柏屋歴史資料館」である。この建物は天保7年(1836)に建てられたものだという。喜多さんとさっそく上がり込んで見学する。ごく最近整備されたらしく、やたらあちこちがきれいである。

〈柏屋歴史資料館〉
 弥次さん喜多さんらしき旅人が食事をしている。

江戸時代のほとんどの旅人が泊まった旅籠は、このようにきれいなものではなかっただろう。このようなりっぱな旅籠に泊まれたのはごく一部の金持ちだけで、弥次喜多は実際木賃宿に泊まったりしている。当時の晩御飯が再現されていたりするが、どうしてどうして立派なもので、うちの晩御飯と変わらないじゃないの・・・と喜多さんと話しながら見学する。

〈酒もうまそう、肴もおいしそう〉
 

 受付のおじさんに挨拶をしてまた弥次喜多道中は続く。この先には「五智如来像」がある。むかし、口のきけない姫君がこの五智如来像に願をかけて話せるようになったという伝説があり、今も地元の人の信仰が篤いという。街道沿いにはこのような伝説のあるお地蔵さんが多い。まったくのつくり話というのではなく、実際に偶然かもしれないがこのようなことがあったのだろうと思う。

前方に大きなクスノキが見えてきた。「須賀神社の大クスノキ」だ。このあたりで足が疲れたので休憩することにした。ちょうど目の前に大きなスーパーがあったので、簡単な総菜を買ってベンチでひと休み。今日は藤枝まで行かなければならないので、ここでへばるわけにはいかない。

〈柏屋 パンフ〉
【第22次 藤枝宿 瀬戸の染飯が名物だった】

〈藤枝・人馬継立 江戸より22番目の宿〉
 広重の藤枝の人馬継立は、風景の特徴がないので現在の風景と対比させるのが難しい。

この写真は藤枝宿の松並木だが、東海道を歩いて楽しいのはこのような立派な松並木があちこちに残っていることだ。

〈藤枝 旧東海道沿いの松〉
瀬戸の染飯

 東海道のガイドブックには藤枝といえば街道名物の「瀬戸の染飯」を忘れてはならないと書いてある。強飯をクチナシの汁で染め、すりつぶして小判型に薄くして乾かしたもので、街道の茶店で売られていたそうだ。クチナシは疲労回復に効くとされ、旅の携帯食として重宝されたらしい。膝栗毛にも「やきものの名にあふせとの名物はさてこそ米もそめつけにして」とある。藤枝駅前の「喜久屋」で売られているとあったので、後日藤枝から歩き始めたときに寄ってみたが早朝すぎてまだ開いていなかった。

〈瀬戸の染飯版木碑〉
 
 たいしておいしいものではないと思うが、旧東海道の名物は基本的には食べてみたい。また機会があれば寄ってみようと思う。川会所跡の公園でトイレ休憩をして、今日のところは藤枝駅から帰るのだが、喜多さんがかなり辛そうだ。何とかなだめすかして藤枝駅にたどりついた。

次回はいよいよ「越すに越されぬ大井川」を越える旅に出ることになる。実はこの時点では箱根八里をまだ越えてなかったので、大井川を先に渡ることになる。


※この辺りまでは記録を残すつもりもなかったので写真が極端に少ない

〈瀬戸の染飯〉
 
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