〈十二日目〉 平成19年 3月21日 水曜日(春分の日) 晴れ 由比宿~興津宿~江尻宿
【第16次 由比宿 名物桜えびと薩埵峠】

〈由比・薩埵嶺 江戸より16番目の宿〉
薩埵峠

 本当は、17日の土曜日に由比から薩埵(さった)峠を歩くつもりであったが、現地に来てみたら雨が降っていた。

だからその日は急遽、由比の先の江尻から府中を目指すことにした。

また歩く宿の順番が入れ替わっている。

なぜか・・・
薩埵
峠からの富士山を見たいからだ。

〈薩埵峠からの駿河湾と富士〉
あかりの博物館

 晴れた朝に由比駅にひとり着いた弥次さんは、駅前の石段をのぼり旧道に向かう。
寺尾、倉沢などこの辺りは古い家並みが残っている。

街道歩きの醍醐味を味わえる場所である。


朝が早かったため、「名主の館小池邸」や「あかりの博物館」などは開いていない。


〈あかりの博物館〉
望嶽亭

 「望嶽亭」と呼ばれた茶店跡は、「藤屋」という茶店の離れ座敷で、ここから富士山の眺めが良いためこの名がついたという。

幕臣、山岡鉄舟が官軍に追われたとき、この望嶽亭の主人が地下から海へ逃がしたという話が残っている。

そのときにお礼にとピストルを置いていったそうだが、それが展示されている。
しかし、朝が早かったため、望嶽亭も開いていなくて立ち寄ることができなかった。

この
薩埵峠は、東海道の「親不知子不知」といわれたほどの難所で、かつては波がひいたときを見計らって渡るしかなく、命がけの道であったらしい。

〈望嶽亭〉
鞍去里神社と倉沢一里塚跡

 この辺りは東海道間宿であった倉沢である。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の途中で焼き討ちに遭い、乗っていた馬の鞍が焼けてしまったことから、鞍去りが転じて倉沢になったという。


ここにある鞍佐里(くらさり)神社は日本武尊を祀る神社で、もとは焼き討ちの現場であった薩埵峠にあったものをこの場所に移したのだという。

小さい神社であったが、ちょうど朝ごはんの時間だったのでここでおにぎりを食べた。


それにしても、やはり日本武尊はここでも災難にあっている。大丈夫かヤマトタケル
〈一里塚跡〉
 一里塚跡の標柱から右に農道のような細い坂を上っていくと、道の両側はみかん畑やびわ畑で、収穫用のモノレールが設置されている。
ちょうどみかんの時期で手を伸ばせば届くところにたくさんのみかんがなっている。

頂上近くにたどり着くと、自動車道を工事していてこの先は行けないという。
まさか歩いて興津のほうへ抜ける旅人とは思っていないのであろう。

左の駐車場から、細い散策路に行くとやがて木でできた展望台が見えてきた。
ここからの景色があの広重が描いた「由比・薩埵嶺」だ。険しい崖から旅人がおそるおそる富士山を覗き込んでいる。

〈薩埵峠のみかんと富士〉

〈広重の絵そのままのさった峠〉
薩埵峠からの富士山

晴れた日を選んで来たかいがあった。広重の絵のままに駿河湾の向こうに雄大な富士山が見える。
富士山の手前の山は箱根の山であろう。広重の絵のままのかたちで横たわっている。

今は、国道一号線と、東名高速と東海道本線が走っている海岸沿いは、江戸時代の大地震で隆起してできた陸地という。
それまでは、陸が海にストンと落ちる絶壁だったようだ。

薩埵峠では、過去二回の大会戦が行われたという。

南北朝時代に足利尊氏と直義の兄弟が争った観応の擾乱(1351)と、永禄11年(1568)桶狭間で今川義元が戦死したことで、駿河侵攻を開始した武田信玄を、義元の嫡子今川氏真がここに迎え撃った戦いだ。


〈一度は行ってみたい峠〉
 
   
   

司馬遼太郎の「箱根の坂」でも、伊勢新九郎(後の北条早雲)が、この峠で百姓の盗賊に襲われて身ぐるみはがれている。

こうして、実際に歴史の地を歩いて旅をすると、後日読む本の中に出てくる地名がいきいきと頭の中で風景となる。

しばらく行くと、もうひとつ薩埵峠の道標がある。ここが本当の薩埵峠らしい。
鎌倉時代に、漁師の網にかかって海中から引き上げられた薩埵地蔵を、山上に祀ったのが峠の名前の由来という。

下り道をずっと降りてゆくと、やがて墓地を通り抜け突き当たりになる。左に行くと興津に近いのだが、旧東海道は右の道らしい。
地図を頼りに、大きく迂回して興津川に出ると、興津川橋の手前に「興津川川越遺跡」がある。
広重が描いた東海道五十三次のうち、相撲取りを馬の背に乗せて川を渡っている図である。

【第17次 興津宿 清見寺は必見】

〈興津・興津川 江戸より17番目の宿〉
興津川川越遺跡

現在の興津川川越跡は、何ということもない田舎の河川敷きになっている。

広重の絵では後ろに海が見えているが、高い建物もないころはこのように太平洋が美しく望めたのであろう。

大きな相撲取りが一人は馬の背に、一人は籠に乗り興津川を渡っているが、こんな重そうな人にあたった日には川越人足もたまったものではなかったろう。


〈興津川川越遺跡のあたり〉
清見寺

興津川橋を渡りしばらく行くと、宗像神社・女体の森があるが、どこが女体の森だかさっぱりわからない。

一里塚跡を過ぎ、興津駅を過ぎると本陣跡の先に「清見寺」が見えてきた。

興津は古くから交通の要衝として知られ、古代にはすでに清見が関という関所が設けられていた。
「更級日記」にも「清見が関は片つ方は海なるに・・・」と書かれているそうだ。


〈清見寺〉

石段を上り清見寺に入ってみると、広々とした境内の左奥にたくさんの羅漢像がある。五百羅漢だ。
この清見寺は、奈良時代に創建された古刹で、足利尊氏や今川義元の帰依を受けたという。

現在の寺は、江戸時代に再建されたもので、徳川家康ともゆかりが深い。
少年時代に今川家の人質として、駿府にいたころ、しばしば訪れていたという。お寺の本堂に上がらせてもらうと、家康が勉学に励んだという部屋が残されていた。

このようなお寺に参拝できるのも東海道歩きのおかげだ。歩いていなければ、たぶん一生知らないままだったと思う。

この寺は、境内が東海道本線で分断されている。庭園には、山下清が書いた文章が残されていて、面白く読んだ。


〈五百羅漢〉

〈家康が勉学に励んだという部屋が残っている〉

〈山下清も訪れた〉
興津坐魚荘

清見寺を出て少し歩くと、西園寺公望の別邸だった「興津坐魚荘」が再建されている。本物は、明治村に移築されたらしい。
この坐魚荘に立ち寄ってみたら、ボランティアのガイドのおじさんにつかまって、延々と話を聞く羽目になった。

西園寺公望は、京都の立命館大学の創業者らしいが、京都の大学に行かなかったのであまり詳しくない。
高校の大先輩の末川博博士が立命館の学長をされていたこともあり、その話をするとさすがに末川博士のことはご存知だった。

末川記念館というのが立命館にあるそうだ。

そのせいか、弥次さんの卒業した高校からは立命館大学に進学する人が多かったが、今はどうだろう。
高校生のとき、この末川博博士が講演に来られたことがあった。
六法全書を作られた人で、京大の滝川事件に連座された人だと紹介されたことを覚えている。
やはり高校生のとき、歴史学者の奈良本辰也さんも講演に来られて、たしかこの奈良本先生も立命館の教授だったと思う。
この先生は、周防大島の出身でやはり高校の先輩だ。

この興津は、気候が温暖で、西園寺公のほかにも伊藤博文などの別荘もあったらしく、東京から面会に来る人たちでにぎわったという。
ずいぶんと東京から遠くに別荘を設けたものだと感心するが、それほどこの地の気候は素晴らしかったのだろう。

このあとは、昔は千本あったという「細井の松原跡」から右の旧東海道へ入り、江尻の宿(今の清水)にたどり着き、清水駅から電車で帰ることにする。


そういえば、この江尻は本物の喜多さんの生まれ故郷だ。
3月17日にうちの喜多さんと江尻から丸子まで歩いているから、次回は丸子から歩くことになる。
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