令和元年6月26日 水曜日 晴れ 赤坂見附~青山~渋谷~駒沢大学 
 
   
定演も終わったことだし・・・

 数年前に35年ぶりに再開したマンドリンオーケストラだが、今年の出演はコムラードマンドリンアンサンブル
第47回定期演奏会のみだ。昨年の秋から月に2回、5月からは毎週東京に通って練習してきた。6月23日の日曜日、
勝どきの第一生命ホールでのコンサートには、喜多さんや娘、会社の元同僚や高校時代の友人などたくさん聴き
に来てくれた。練習の成果を発揮できていい演奏ができたと思う。


演奏会が終わるまでは、爪が割れたり、指を怪我したりするわけにはいかないので、何かと行動を我慢していた
のだった。

   

〈コムラードマンドリンアンサンブル第46回定期演奏会 昨年の浅草公会堂の写真〉
   

〈訪ねて楽しい大山街道 溝の口の川崎市大山街道ふるさと館で購入〉
   
大山街道を歩く 1日目

 五街道を踏破し、日光例幣使道や日本最古の道といわれる奈良の「山の辺の道」も歩いた。日本全国に熊野古道や北国街道など、まだまだ歩きたい道はあるがあまりに遠い。

ならば、近いところで江戸時代に年間20万人が歩いて参詣したという「大山街道」はどうだろうと、起点の赤坂見附に降り立った。地下鉄半蔵門線の永田町駅
をでると、まず赤坂御門跡を探して右往左往する。大山は富士山とともに横浜の我が家からもよく見える山だ。

〈永田町駅を出ると国会議事堂が〉
   
2日目 7月10日 水曜日 駒沢大学~二子玉川~溝口
3日目 7月17日 水曜日 溝口~宮前平~鷺沼
4日目 7月19日 金曜日 鷺沼~江田~市ヶ尾~青葉台~田奈
5日目 7月26日 金曜日 田奈~長津田~南町田~鶴間
6日目 8月16日 金曜日 鶴間~海老名
7日目 9月05日 木曜日 海老名~本厚木~愛甲石田
8日目 9月13日 金曜日 愛甲石田~伊勢原
9日目 9月26日 木曜日 伊勢原~大山ケーブル駅 
   
大山街道の概要 池上真由美

 徳川家康は江戸に入ると、街道を整えました。はじめに手をつけたのは五街道(東海道・中山道・
甲州街道・奥州街道・日光街道)でした。これは幕府がおおやけに認めた道で、道中奉行が管理をし、
主に大名や武士が江戸を往復するために使われました。
 五街道以外の道は、脇往還・脇街道に属し、五街道のような正式な名称はありません。二子・溝口
村を通る大山街道も江戸時代に整えられた脇往還のひとつで、おもに江戸に物資を運んだり、庶民が
歩くために使われました。赤坂御門を出発して青山・三軒茶屋・瀬田で多摩川を渡り、二子・溝口を
経て、長津田・厚木・伊勢原・松田惣領から矢倉沢関所、足柄峠を越えて駿河方面へと達する道で、
古代・中世から存在した古い道です。矢倉沢に関所があったことから「矢倉沢往還」の公式名があり
ます。この道は東海道とほぼ並行して走る重要な脇往還であったため、東海道の宿場と同じような役
目をする継立村が17か所設けられました。継立村に指定された村では、街道を行き来する人たちの
ために、名主を中心に人足や馬の世話や宿泊の手配などを行いました。
 溝口村と二子村も寛文9年
(1669)に継立村に指定され、二村交代で人馬継立をしました。江戸時代
の半ばを過ぎたころから庶民の大山詣でが盛んになりました。矢倉沢往還の途中にある伊勢原村と
會屋村
(現・秦野)は大山への登拝口になっていたため、大山詣でに行く人がたくさん利用しました。
そのためこの道は庶民のあいだで「大山街道」の名で呼び親しまれるようになりました。青山を通る
ことから「青山通り大山道」とも呼ばれました。そのほか江戸の人が多く利用したのは、東海道の戸塚
宿近くから入る「柏尾通り大山道」と、藤沢宿の四谷から入る「田村通大山道」でした。大山詣でが盛
んになると、各地方から大山へ向かうための「大山道」がたくさんつくられました。大山へ向かう道は
すべて大山道と呼ばれ、大山信仰の広がりとともにその数を増やしていきました。
(訪ねて楽しい大山街道)
   
永田町

 といえば、国会議事堂だろう。どうもこの頃は、特に野党に大した国会議員もいない気がするが、そうはいっても国民に投票で選ばれた人たちだ。税金泥棒と言われないようしっかり仕事をしてほしい。

今から35年も前に、田舎の両親を連れて永田町近くの国立劇場に漫才を見に来たことがある。そのころは漫才ブームで、ツービートやB&B、オール巨人阪神などの漫才が国立劇場で演じられていたのだ。ちょうどいまの弥次喜多くらいの歳だったのだが、「早口すぎて何を言っているのかよくわからなかった」という両親の感想だった。この歳になってみるとよくわかる。

〈久しぶりの永田町駅〉
   

〈参議院議長公邸 りっぱ〉

〈衆議院議長公邸 りっぱ〉
   
赤坂御門跡

 寛永13年(1636)福岡藩主黒田忠之が石垣を築く。江戸城外堀に造られた36門のひとつ。常に3人の見張り番がいて「赤坂見附」と呼ばれた。大山街道の出発点である。(訪ねて楽しい大山街道)

こんなところにこのようなりっぱな石垣が残っているとは、言われて歩いてみなければまず目に入らないだろう。「赤坂」という地名の由来は、この辺りが赤土の坂であったためで、青山といい、六本木と言い、田舎であればなんということのない地名が、やたらしゃれて聞こえる。

〈赤坂御門跡〉
   

〈赤坂見附の歩道橋から大山街道を見る 右はグランドプリンスホテル赤坂(旧赤プリ)〉
   
公証役場

 個人的には、ふだんまったく縁のない役場なので気にも留めていなかったが、読売新聞で大きく取り上げられている。なんでも検事正以上を務めた検察官と裁判官の天下り先として、法務省と検察庁が割り振りを決めているらしい。

しかも、東京や大阪などの大都市の公証人は年収2,000~3,000万円にもなるそうだ。建前は公募ということになっているようだが、弁護士などが応募しても採用されることはないという。役人というものは自分たちが甘い汁を吸えるよう既得権はまず手放さない。

〈お~ うわさの公証役場が〉
   

〈国道246号線を左にそれて旧大山街道へ 荷を引く牛が疲れて鳴くほどの急な坂だったそうだ〉
   
豊川稲荷

 大山街道をはさんだ右手に赤い提灯がたくさん見える。

江戸町奉行として有名な大岡忠相
(ただすけ)の子、忠宣が赤坂の敷地内に祀ったのが始まりで、明治20年(1887)にこの地に移ってきたそうだ。

〈豊川稲荷〉
   
 
〈重要文化財 武家屋敷門 当時は120mにも及ぶ長大な門だったとある〉
   

〈山脇学園の向かいにある弾正坂脇の公園は喫煙者の憩いの場となっていた やめられないんだね~〉
   

〈高橋是清翁記念公園があったので立ち寄ってみる〉
   

〈昭和11年(1938)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました・・・とある 日本の暗い時代の始まりだ〉
   

〈草月会館 新婚のころジャズを聴きに来たことがある〉

〈カナダ大使館〉
   

〈青山通りは昔からしゃれた通り 南こうせつも「青山にでっかいビルを建てて・・・」と歌ってた〉
   

〈お昼時なので青山ツインタワーの地下街へ〉

〈なつかしい直久が 最初の店舗は銀座の東芝ビルだったそうだ〉
   

〈このしゃれた通りも大山街道 江戸時代は太刀を担いだ参詣者がたくさん歩いた〉
   

〈青山一丁目のホンダ青山ビル 厚木まで49km 渋谷まで3km 大した距離に思えない〉
   

〈明治神宮外苑 絵画館〉
   

〈伊藤忠のビルがそびえる〉
   

〈さすがに青山通り 見たこともない高級外車が〉

〈ビルの間から見える巨大な六本木ヒルズ〉
   

〈表参道のケヤキ並木〉

〈青山学院の建物が見えてきた〉
   

〈ピラミッドのような建物は青学の向かいにある国連大学ビル〉
   

〈大山街道は246号線を右にそれて宮益坂に 宮下公園はなつかしいね〉
   

〈こちらは国道246号線〉

〈宮益坂を下り切ったところに渋谷駅はある 文字通り谷の町〉
   

〈ハローウィンやワールドカップなどの際若者がバカ騒ぎする渋谷スクランブル交差点 新しいビルが次々と建てられている〉
   

〈渋谷駅の谷底から道玄坂を上る 道玄坂を歩くのは学生の時以来42~3年ぶり〉
   

〈道元坂上には養命酒の立派なビルが 祖父は晩年一晩で一本あけていた〉
   

〈大山街道(玉川通り)の下を山手通りが交差する 頭上には首都高速3号線が その先には目黒川〉
   

〈池尻大橋駅の手前で旧道が残る左の道へ〉

〈ここはコムラードの練習で通ったせたがやがやがや館の近く〉
   

〈池尻稲荷神社は大山街道に面した神社 今も遠方から参拝者が多いという 〉
   

〈火除け、子育てのお稲荷様として信仰されてきた〉
   

〈江戸時代初期村民の氏神として建てられた〉
   
   

〈このような小さな祠も残っている〉

〈昭和女子大学〉
   

〈三軒茶屋に到着 この町は大学受験の時お世話になった 当時は地下鉄はなく渋谷へはバスしかなかった〉
   
 
〈三軒茶屋駅の入り口に大山道標が残る 文化9年(1812)に再建された不動尊の道標〉
   

〈正面に左相州道・大山道、側面に右富士・登戸・世田谷道と刻まれている〉
   

〈左の道は中里通り 世田谷区内に残る約600mの貴重な大山街道 伊勢丸稲荷神社や地蔵尊などが残る〉
   

〈環七を越えれば宗圓寺 その先の駒沢大学駅で本日は終了〉
   
 宗圓寺は、鎌倉時代後期に北条左近太郎が建てた曹洞宗の寺。百日咳で悩む子どもの回復を願って
江戸の庶民が大山街道を通ってお参りに来たそうだ。江戸は、1600年代以降徳川家康が作ったイメージ
だが、それ以前にも鎌倉武士や平将門の時代もあり、庶民もそれなりになりわいを営んでいたのだろう。

本日はできたら多摩川の手前の二子玉川駅まで歩きたかったのだが、歩き始めた時間が遅かったので
駒沢大学駅で挫折してしまった。今日は突然思い立ったので一人旅だったが、久しぶりの街道歩きは
すごく楽しかった。次回は神奈川県に入るので、久しぶりの弥次喜多道中ができるだろう。
   
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大山詣へ  
 
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