令和2年11月4日 水曜日 晴れ 奈良正倉院展~東大寺
 
   

〈新横浜に向かうため8:40に家を出ると目の前に見事な日本晴れの富士山が〉
   
第72回正倉院展

 読売新聞社が特別協力しているからだろう、読売新聞を40年以上取り続けているので、正倉院展への誘惑が連日紙面に載っている。魅惑的な「平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)」や、「粉地彩絵箱(ふんじさいえのはこ)」などの写真が、奈良に来て見なきゃソンだよ~と誘う。

おりしも、国を挙げてのGoToトラベルキャンペーンの最中だ。さっそくプランを探してみると、JR東海で「ひさびさ旅割引」プランを見つけた。東海道新幹線の往復と奈良のホテル2泊で25,900円というプランだ。さらにGoToで35%引き、地域クーポン券が4,000円付く。実質13,000円で奈良に行き、2泊できるのだ。

〈正倉院展のチケットはネットで予約し、ローソンのロッピで事前購入する〉
   

〈久しぶりの東海道新幹線 N700系 かっこいいね〉
   

〈新幹線の車窓からは頭を雲の上に出している富士山と9月に息子と登った大山が見える〉
   
久しぶりの奈良へ

 安く旅行できるしと喜多さんも誘ったが、いまいち乗り気でない。では、久しぶりの一人旅だ。さみしがり屋のくせに決して一人旅が嫌いではない弥次さんは、いそいそとプランを練るのであった。

まず、初日は正倉院展、2日目は柳生街道歩き、3日目はゆっくり訪れたことのない奈良の寺社を散策するというプランを立てたが、柳生街道が思いのほか難物だと気づいた。寺社見物は二の次にして二日をかけて柳生街道をじっくりと歩くプランに切り替えたのだった。

〈旅のお供はやはり崎陽軒のシウマイ弁当〉
   
正倉院展に

 予定通り、13:20にJR奈良駅に着いた弥次さんは、駅前のコンフォートホテル奈良に荷物を預け、奈良国立博物館に歩いて向かう。

正倉院展会場の奈良国立博物館に着くと、14:00からの入館予約者の長蛇の列ができていた。おとなしく列に並び、検温、チケットの確認を済ませる。会場入り口には大きく「当日券の販売はありません」と書いてあるが、何人かは知らずに来ている人もいるようだ。

〈京都駅でJR奈良線に乗り換える〉
   
 
〈一時観光客がいなくて奈良の鹿がやせ細っているとテレビでやっていたがみんな元気なようでホッとした〉
   
 
〈入り口こそ混んでいたが、時間指定の入場制限があるので20分もすると人がばらけて展示場はすいてて快適〉
   
 
〈会場内は撮影できないので読売新聞の印刷物からとった写真を少し載せておく〉
   
正倉院
 
 奈良市の東大寺近くにある正倉院は、奈良時代(8世紀)などの宝物約9,000点を1,200年以上守り伝えてきました。奈良国立博物館で開かれる「第72回正倉院展」(10月24日~11月9日)では、うち59点が展示されます。

ということで、1200~1300年前のお宝をじっくり鑑賞できた。今回はコロナ禍ということもあり、当日券はなく、事前に予約した人しか入場できない。最初の展示物あたりでは混んでいたが20分もすると人がばらけて、じっくりと鑑賞することができた。それにしても1200年以上前にこのような精巧な物が作れたとは、それをさらに現在まで保存できていることに誇りを感じる。世界では、中国の文化大革命やシリア
の内戦など失われたものも多いだろう。日本でも明治の廃仏毀釈や太平洋戦争時の空襲など失ってしまったものは多い。

〈平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)〉
   
豆知識 正倉院宝物とは

 756年に亡くなった聖武天皇が大切にしていた品々を、四十九日の法要の時に、妻の光明皇后が東大寺の大仏にささげたのが始まりです。東大寺の儀式で使われた品物なども加わり、約9000件あります。装飾品、楽器、武器、文書、薬など様々な品があり、中国や朝鮮半島、中東などで作られた異国情緒豊かな品物もあります。

1200年以上の長い年月の間には、大仏が焼ける大きな火事や雷などの自然災害もありましたが、宝物は守られてきました。

〈花氈(かせん) フェルトの敷物〉
   
 建物(宝庫)の正式な名前は「正倉院正倉」です。少なくとも759年以前に造られたと考えられています。奈良時代、大きな寺には大切な品物を保管する「正倉」という倉庫があり、正倉が集まる一角を正倉院といいました。東大寺の一棟だけが残り、明治時代以降は国が管理しています。1997年に国宝に指定されました。

内部は三倉に分かれ、北倉には聖武天皇と光明皇后ゆかりの品、中倉には役所の書類や武器、南倉には東大寺の儀式で使った品が納められています。宝物を倉から出すには天皇陛下の許可が必要です。宝物は戦後、空調設備のあるコンクリートの宝庫に移されました。今も取り出すときには天皇陛下の代理人「勅使」が立ち会います。

(読売新聞正倉院展特別版より)

〈粉地彩絵箱(ふんじさいえのはこ)〉
   
 
〈1時間ほど正倉院の宝物を堪能、まだ時間があるので東大寺参拝に〉
   

〈まずはJR東海の「ずらし旅選べる体験利用券」を使って東大寺ミュージアムへ〉
   

〈国宝 四天王立像 8世紀 左上から広目天・持国天・多聞天・増長天 あまりの見事さに見惚れてしまった〉
   
東大寺ミュージアム

 JR東海のひさびさ旅ツアーには「ずらし旅選べる体験無料券」なるものが付いていた。例えば、京都ではシティバイク1日レンタル・サイクリングとか、建仁寺の時間外特別拝観とか、京都タワー展望券とか、奈良ではドコモバイクシェアの一日乗り放題券とか、唐招提寺の拝観と御朱印の授与とか、選んで無料で楽しめる。

時間があれば、一日自転車で奈良をゆっくり見て回るのもいいが、今回は予定がびっしりだ。正倉院展の近くの東大寺ミュージアムにただでは入れるコースもあったので迷わず選んだ。チケット売り場で利用券を渡すと、お釈迦さまのクリアファイルと重源上人座像と千手観音像の渋いおまけもつけてくれた。

館内は当然撮影できないのでもらったパンフから少し載せておくが、国宝の四天王立像はあまりの見事さにしばしたたずんで見惚れてしまった。あまりのリアルさに踏みつけられている悪鬼がかわいそうになったくらいだ。
 
〈A5サイズのクリアファイルが欲しかったのでうれしい〉
   
東大寺と重源上人

 金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺。「奈良の大仏」として知られる「廬舎那仏」を本尊とし、開山は良弁。中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失。現存する大仏は、たびたび修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみで、現存する大仏殿は江戸時代中期(1709)に規模を縮小して再建された。

東大寺は、興福寺とともに治承4年
(1181)平重衡の兵火で壊滅的な打撃を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時大勧進職に任命され大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。

〈重源上人と千手観音像〉
   
 
〈中は撮影できないが国宝だらけの見ごたえのあるミュージアムでした 左:原寸大の大仏様の手〉
   

〈大仏殿もまだ入れるようなので久しぶりに訪れる〉
   

〈東大寺 中門〉
   

〈大仏殿 江戸時代中期(1709年)に規模を縮小され再建された〉
   

〈間口を2/3に縮小して再建されたらしいが8世紀によくこんな大規模な建物をと感心する〉
   
東大寺の歴史

 奈良時代は、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代だった。このような混乱の中、神亀元年(724)聖武天皇が24歳で即位し、皇太子基親王が神亀4年(727)誕生する。ところが翌年基親王は1歳の誕生日を迎えずして夭折する。聖武帝は親王の菩提を弔うため金鐘山寺を建立し、良弁を筆頭に智行僧9人を住持させた。これが東大寺の前身寺院とされる。

聖武天皇は天平15年
(743)に「廬舎那大仏造立の詔」を発せられ、人望が厚く仏教伝道に実績のあった行基が勧進行脚に出発した。
 

〈建立当時の民衆は悲惨な時代を生きていた〉
   

〈日本には古来から古事記・日本書紀にあるような神々がいるのにどうして外国の釈迦をあがめることにしたのか〉
   
 
〈古代神道は自然崇拝だから装飾性に乏しかったせいかも 神道にキンキラキンは似合わない 大仏はもとは400kgの金でメッキされていてそれこそキンキラキンだった〉
   
治承の兵火と鎌倉復興

 治承4年(1180)、平重衡の軍勢により、大仏殿はじめ伽藍の大半が焼失した。しかし、翌年には大勧進に任命された俊乗坊重源によって復興事業が着手され、鎌倉幕府とくに源頼朝の全面協力を得て、文治元年(1185)後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」が行われた。

文治2年
(1186)に周防国が東大寺造営料所にあてられてから復興事業は着々と進み、建久6年(1195)「大仏殿落慶供養」が営まれた。ところが、永禄10年(1567)三好・松永の乱がおこり、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して大仏殿などほとんどが灰燼に帰した。
(東大寺HPより抜粋)

〈その後廬舎那大仏は約120年間雨ざらしのままだった〉
   
 
〈現存の大仏と大仏殿は1709年の再建 2度の兵火で創建当時のオリジナルは連座と左大腿部のしわの部分だけだそう〉
   
 
〈コロナのせいで柱の穴くぐりも、さわった部位が治るというおびんずる様も立ち入り禁止〉
   
 
〈鴟尾(しび) 火除けのまじないとして用いられたらしい〉
   

〈広目天像〉
   

〈多聞天像〉
   
 
〈手水もコロナの影響で使用禁止に 疫病の前には神も仏も無力だ 奈良時代の天然痘の流行は悲惨だったことだろう〉
   

〈南大門 鎌倉時代、東大寺を再興した重源上人が再建 建仁3年(1203)に竣工〉
   

〈南大門の仁王像 周防(山口県東部)で伐採された木材が約1年かけて搬送され・・・〉
   

〈ほぼ70日間で二体同時進行で造像されたことが証明されているそうだ〉
   
日本人の宗教観

 人類は知恵がついてくると、人間ではない何かを畏怖したくなるようだ。古代ではそれはほとんど太陽神ということになるだろう。エジプトでもインカでも、古代日本でも同様に太陽を崇め、怖れたことだろう。日食ともなれば恐慌をきたし、それが日本では天照大神であり、仏教では大日如来になったのではないか。しかし、神といい、仏といい、人間の姿をしているのは、あくまで人間が作った神であり、仏であるからだ。豚が進化して神を作ったらやはり豚の姿をしているだろう。

ある時、キリストが現れ、アッラーの神を唯一神としたムハンマドが現れ、お釈迦様も現れた。日本人はもともと自然崇拝の民だから、山も大岩も大木もすべてに神が宿ると考えた。八百万
(やおよろず)の神だ。だからありがたそうな装飾性を持った仏教も抵抗なく受け入れたのだろう。また、それらにすがらなければならないほど、生きるのがつらかった時代だったともいえる。・・・
というようなことを考えながらJR奈良駅前のホテルに戻る。

〈久しぶりに仏像を堪能〉
   
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