平成26年8月15日(金)〜8月21日(木) 夏の旅 山口〜熊本〜大分〜岡山〜姫路〜敦賀〜糸魚川
久しぶりのお盆帰省

 6月に母親の卒寿の祝いで萩に集まったばかりなので、この夏は田舎に帰らずにおこうと思ったが、母親と弟から立て続けに「帰ってこんかね」という電話をもらい、急きょ帰ることにした。

岩国空港行きのANAを調べるとお盆だというのにどの便も空席があった。こういう時のためにANAの株主になっているのでいつでも半額で帰省することができる。

兄弟全員が15日に実家に集まるというのでその日に合わせて航空券を予約し、帰りは風の吹くまま気の向くまま「徘徊」することにする。


「徘徊」と言うのは口の悪い高校の同級生が東海道を歩き始めたころ、ついに徘徊を始めたか・・・と年賀状に書いてよこしたのでそれから便利に使っている。

〈東大寺別院 周防阿弥陀寺山門〉
 羽田を8時55分発のANAに乗れば10時35分には岩国空港に到着、兄に空港まで迎えに来てもらったので11時前には実家に着いた。

お盆や正月にはこうして兄弟姉妹や甥・姪などが集まるのが恒例行事になっているのだが、ひとり遠くにいる弥次さんだけがどうにも帰ってこないことが多い。

姉などには帰ることを話していなかったので、僕がいるのを見てびっくりしていたが、6月の萩以来母親と兄弟全員が集まることができた。
いつも申し訳なく思うのだが、長男の嫁は大変だね。みんなもそれなりに気は使って物心ともに手伝いはしているつもりだが、この日集まった一族は20人くらいいただろう。

弟と遊びに行く約束をしているので、せっかく実家に帰ってきたというのに、今日は岩国ではなく山口市の弟の家に泊めてもらうことにする。

〈東大寺再建の際奈良に送った巨木のレプリカ〉

〈得地の杣から巨木を切り出して奈良東大寺に運んだ経緯が記されている〉
東大寺別院 周防阿弥陀寺

 周防国祖をもって奈良東大寺再建の命を受け、佐波川上流地方の巨材を採伐し、その使命を果たした当時の大徳造東大寺勧進兼周防国司職、俊乗坊重源上人が後白河法皇の現世安隠祈願のため建立したもので、文治3年(1187)開発、建久8年(1197)竣工、その後文明年間まで約300年の間、住職はいずれも勅命をもって拝任、周防国務管理を兼ねていたという県下きっての由緒ある名刹である。

 国宝・鉄宝塔 重要文化財・重源上人自作と伝えられる坐像 東大寺再建の用材に押した槌印(国威と称する)、阿弥陀寺領田畠注文免除状一巻、金剛力士立像二躯が所蔵されている。

防府市 防府市教育委員会

〈周防阿弥陀時由来〉

〈初めて来た阿弥陀寺 山口県にも行っていない史跡は多いが弟のおかげであちこち行ける〉
 
大津島回天記念館

 8月15日は終戦記念日であるが、今の若い人の大半は8月15日が何の日か知らないそうだ。今の日本の教育はどうなっておるのだ。教育というよりも個人の資質かもしれない。

「島根県と鳥取県とどっちがどっちかわからな〜い」とか、群馬県と栃木県の区別がつかな〜い」とか言っているようではだめだ。自分はバカだと言っているのと同じではないか。区別がつくように勉強しろと言いたい。

おじさんの愚痴はこれくらいにするとして、その終戦記念日にテレビで徳山の回天特集をやっていた。日本帝国海軍は、魚雷を人が乗れるように改造して敵艦に体当たりするという非人間的な兵器を採用した。提案したのは23歳の中尉だという。その中尉はこの大津島で初訓練中に事故により回天の中で窒息死してしまった。

〈大津島へ上陸 回天基地跡に向かう〉
 
〈まず回天基地跡へ向かう このトンネルは当時のままだそうだ〉
 それにしても・・・と戦争について考える。自分が太平洋戦争中に10代や20代だったらと。

当時の軍国少年のことは誰も責められない。朝日新聞をはじめとする大新聞がこぞって戦争遂行を賛美した。学校でも鬼畜米英を教員が子どもに教え込んだ。

北朝鮮や中国・韓国はいまでも日本に対して似たような教育をしているらしいが、飛行機にしても潜水艇にしても生還できない兵器に若者を載せて攻撃させようという精神構造は、当時を生きた人間にしかわからないだろう。しかも自分では乗らない人たちがこれらを遂行した。

同じ戦場に行くにしても生還の可能性がまったくない状況で出撃するのはつらすぎる。これが家族や国を守るんだと思い込まなければやりきれないだろうが、ほとんどは失敗に終わっている。

〈このトンネルにレールを敷いて回天を運んだ〉
 
〈魚雷に操縦空間を作ってここで操縦訓練をした〉
 
〈魚雷発射場跡 この地より海の砦として若者はゆく・・・とある〉
回天発射場跡

 人間魚雷「回天」は、太平洋戦争末期、戦局の劣勢を挽回しようと空からの「神風特別攻撃隊」とほぼ同じ時期に戦場に登場した。

この発射場は、93式魚雷試験発射のためのもので昭和12年に開設された。それ以前の試験発射は呉市大入の発射場で行っていたが、大遠距離射線を備えたこの発射場が完成し、以後ここから発射した。

昭和19年9月1日、この地に回天基地が開設され回天の操縦訓練が開始された。回天の訓練は、ここから発射場横の海面に運ばれ、熟練度に従って直線往復、島の半周、一周、碇泊艦襲撃、航行艦襲撃等と搭乗員は猛訓練に明け暮れたのである。その訓練は終戦の日、昭和20年8月15日まで続けられた。
 
〈昭和14年(1939)に建設された九三式酸素魚雷の発射試験場を人間魚雷回天の発射訓練に活用した〉
 
〈回天発射訓練基地跡 70年前にここで訓練をして死んでいった若者がいる〉

〈回天記念館の前には回天で亡くなった若者の名が〉
 

〈こんな魚雷に閉じ込められて敵艦に体当たりさせられた〉

〈いくらきれいごとを石碑にしても若者を無駄に死なせたことには違いない〉
龍くん

 今回、山口に帰る前の日に電話をして久しぶりに龍くんに会うことにした。この年になっても「りゅうくん」「ようちゃん」と呼び合う仲だが、二人の中では小学1年生で時間が止まっているのではないだろうか。

龍くんとは、岩国市立藤河小学校に入学して初めて出会った。何しろ53年も前のことだから詳しいことは覚えていないが仲が良かった。グリコのおまけを一緒に集めたりもした。しかし、龍くんのお父さんが中学校の先生だったため、お父さんの転勤に伴い2年生になる時に由宇というところに転校してしまった。

つまり小学1年生の時だけの同級生なのだが、いまだに仲良く付き合えているのはうれしい限りだ。今回も大津島の回天記念館に付き合ってくれた。

喜多さんが横浜で友達になったIさんが由宇出身と聞いたので、「主人の友達に龍くんという人がいる」という話をしたらなんと由宇中学で同級生だったという嘘みたいな話もある。世の中は面白い。

〈龍くん〉

〈城跡から見る瀬戸内海に浮かぶ大津島〉
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