平成28年1月7日 木曜日 和歌山〜新宮〜松坂 ローカル線の旅 近畿・南紀編 3日目
紀勢本線

 紀勢本線は三重県亀山駅を起点に熊野灘、紀伊水道にかけて、紀伊半島をぐるりと半周し終点の和歌山市駅までの384.2kmにおよぶ長大なローカル線だ。駅数は96駅にもおよぶ。終点の和歌山市駅は、和歌山駅から盲腸のように二駅西に延びている。宿泊は和歌山駅近くのコンフォートホテルにしたのだが、和歌山市駅までついでに往復してきた。今回のローカル線旅は、この紀勢本線を乗りつぶすのが一番の目的だ。

亀山駅から新宮駅まではJR東海、新宮駅から和歌山市駅まではJR西日本の管轄だ。和歌山駅8:05発、紀伊田辺駅9:55着。紀伊田辺駅10:44発、新宮駅13:34着。新宮駅発15:11発、松坂駅18:45着。待ち時間を利用して少し歩いてみるつもりだ。
 

〈3日目はJR和歌山駅から出発〉

〈車窓からの紀伊水道 対岸は淡路島か?〉

〈南部は南高梅で有名な梅の産地だ 南高梅は南部高校園芸科に敬意を表して名付けたという〉

〈紀伊田辺駅での乗り継ぎ時間を利用して海まで歩く〉

〈紀伊田辺は熊野古道中辺路と大辺路の岐路になる 時間があれば歩きたいね〉

〈紀伊田辺の海 紀伊水道の向こうは四国徳島県だ〉

〈新宮行の電車が入線 見老津から紀伊長島あたりまでは車窓に太平洋を見ながら走る〉

〈本州最南端の駅 串本駅に到着〉

〈橋杭岩 ここには平成23年8月に娘と3人で立ち寄った〉

〈紀伊本線の線路わきに有名な「那智黒」の工場があった〉
熊野速玉大社

 新宮駅に13:34着、前に娘と3人で来た時には「熊野速玉大社」に参詣しなかったので、待ち時間を利用して参拝する。駅前の観光案内書で地図をもらい、行き方を教えてもらうと徒歩15分くらいのところらしい。

平成16年
(2004)世界文化遺産登録。ご由緒によると『熊野速玉大社は熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天の磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天の磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神)を景行天皇58年(128)神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします』とある。

〈駅のホームの外は熊野灘 JR紀勢本線湯川駅〉

〈原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていったことが「新宮」と号するゆえんなのだそうだ〉

〈熊野大社のお使いである三本足の「八咫烏(やたがらす)は神武天皇が熊野山中で道に迷われたとき大和の国に入る道先案内をつとめたといわれている〉

〈かつては貴賤を問わず極楽往生を願って熊野詣でに訪れた〉

〈ご神木 梛木(なぎ) 信仰篤き者には、このなぎの葉に熊野権現のお告げが表れるという〉

〈熊野御幸 中世熊野御幸は141度にもおよび、特に後白河上皇は33度、後鳥羽上皇は29度も御幸した〉
 
熊野御幸

  熊野三山が広く知られるようになるのは、平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに行われた
熊野御幸によってです。熊野は古くは自然信仰の神々を祀る社でしたが、その原始信仰に外来
仏教が加わり、独自に展開を見せて神仏習合が広まると、本宮の祭神は阿弥陀仏、速玉の祭神
は薬師如来、那智の祭神は観音菩薩の化身だとされ熊野における浄土信仰が盛んになっていき
ました。すると上皇や貴族たちは多くのお供を連れ、大規模な熊野詣でを行いました。その後
院政が途絶え武士の世になると、熊野詣での中心は武士や一般庶民へと移り、熊野街道には
切れ目なく旅人の行列が続いたのでした。


そんな熱狂的な信仰を集めたのは、熊野権現が浄不浄を問わず、貴賤にかかわらず、すべての
衆生を受け入れてくれる神だったからです。上皇〈法皇)の熊野詣でを特に「熊野御幸
(ごこう)
といいます。ちなみに「御幸」とは上皇・女院の外出をいい、天皇が御所の外に出るのを
「行幸
(みゆき)」といいます。

天皇は一年中行事や儀式にしばられ勝手な旅行などはできませんから、天皇の熊野詣では一度
も行われませんでした。上皇にはそういう制限はなく、富と暇を手にした上皇たちは競うよう
に熊野御幸を行いました。院政期において、当時の天皇は幼帝が多く上皇はその父であること
がほとんどで、上皇は皇位を退いても天皇以上の権力を握り、その行動を規制する人がなく、
自由に熊野を参詣することができたのです。


〈熊野へは紀伊路と伊勢路の2ルートがあり、今日からは紀伊路をたどり熊野三山を詣でるのが一般的だった〉

〈延喜7年(907)宇田上皇が初めて熊野に参詣し、弘安4年(1281)の亀山上皇まで訳400年もの間、熊野御幸は続けられた。

〈上皇たちは鳥羽から舟で淀川を下り、天満橋辺りの渡辺津で上陸したあと、街道筋に点々とある王子社を巡拝しながら・・・〉

〈・・・紀伊半島を海岸沿いに南下し、紀伊田辺から中辺路に入り本宮に到着した〉

〈本宮より新宮へは舟で熊野川を下り、新宮・那智を巡り、その背後にそびえる妙法山に上り大雲取・小雲取山を越えて・・・〉

〈・・・再び本宮に出て都への帰路についたというのが、当時最も多く利用された経路。(約20日長くても1ヵ月)〉

〈神宝館には平安初期より天皇・上皇・将軍家・大名家から・・・〉

〈奉納された国宝・重要文化財が1200点以上〉

〈国宝 衵 萌黄小葵文固綾(あこめもえぎこあおいかたあや)〉

〈このような様々の貴重なお宝が奉納された〉

〈さあ、そろそろ松坂に向けて電車が出る時間〉

〈もう一度振り返ってありがたい熊野速玉大社を拝む〉
喜多さんと合流

 今回のローカル線旅は、3泊4日で初日の大阪を起点に2日目は和歌山、奈良、3日目の今日は松坂に宿をとった。喜多さんはローカル線はどうでもよいが、旅にはくっついて行きたいというわがままな相棒で、後半のハイライト伊勢神宮には一緒に行きたいという。

仕方がないので、松坂のホテルはツインを予約して、喜多さんに先にチェックインしてもらい合流することにする。
弥次さんが、各駅停車の紀勢本線で松坂駅に着いたのは18:45のことだった。ホテルで合流した後は近くの居酒屋で夕食をとる。

〈15:11発 新宮からはJR東海になる〉
2日目に戻る 最終日へ
番外編に戻る
ポータルサイトに戻る  
   
inserted by FC2 system