4日目 函館朝市〜五稜郭〜ハリストス正教会〜高田屋嘉兵衛資料館
函館

 箱館は、遠いむかし、アイヌたちがウスケシ(湾の端)と呼んでいたらしい。室町時代、この箱館の湾の沿岸から日本海岸の江差にかけて、奥羽出身の土豪どもが大小の館を築いて割拠していたそのなかに、河野政通(こうのまさみち)という者がいて、ウスケシの地に大きな館を築いた。―― 箱のような館ではないか。というので、土地の者が箱館とよぶようになり、ウスケシの地名が後退して、そのあたり一面を箱館とよぶようになったという。(中略)ついでながら、箱館が函館という文字にかわるのは明治2年のことで、嘉兵衛の時代には函館の文字は用いられていない。(司馬遼太郎 菜の花の沖)

〈函館湾に浮かぶ国鉄時代の青函連絡船 ホテルの部屋から〉

〈函館奉行から設計を命じられた武田斐三郎は、フランス人から贈られた書物を参考にしてヨーロッパの「城郭都市をモデルとする要塞を考案〉

〈この五稜郭で旧幕府脱走軍の榎本武揚や新撰組副長土方歳三などが新政府軍と戦った〉

〈五稜郭タワーと土方歳三〉

〈ハリストス正教会に行ってみる 函館も暑かった〉

〈ハリストス正教会の前で絵を売っていたおじさん 日本人は文化的なものにお金を使わないと怒っていた〉

〈赤レンガ倉庫 金森洋物館〉
高田屋嘉兵衛

 この夏、北海道へ行ってみようと思ったのも、たまたま読み始めた司馬遼太郎の「菜の花の沖」に
感化されたことが一因だ。赤レンガ倉庫のそばにその「高田屋嘉兵衛資料館」があるので、入って
みた。明和6年
(1769)淡路島都志本村で貧しい農家の長男に生まれた嘉兵衛は、船乗りとなって
持ち前の才覚を発揮し、水主(水夫)から始まってあっという間に沖船頭へと異例の出世をはたした。

1796年、28歳で当時としては最も大きな「辰悦丸」
(千五百石積み)を新造。ついに念願の船持船頭
になり、「諸国物貨運漕高田屋嘉兵衛」の看板をかかげて、5人の弟たちと協力して独立への第一歩
を踏み出した。今読んでいる第3巻では、いよいよ自分の持ち船「辰悦丸」で、この函館に商品を積
んでやってきたところだが、この後クナシリからエトロフ島への航路を拓き、未開のエトロフ島に多
くの漁場を開拓し、北方領土の開拓に尽力した。また、1811年に発生した「ゴローニン事件」の解決
を図り、日本とロシアの民間外交のさきがけとなった人だ。50歳の時に弟金兵衛に事業を任せて
淡路島に引退。郷土の発展のためにも尽力したが、文政10年
(1827)59歳で波乱に満ちた生涯を終えた。

今の弥次さんと同じ歳で、何事も成していない凡人の弥次さんはただただ恐れ入るのみだ。
   
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