平成31年3月30日 土曜日 晴れ 錦川清流線で同窓会 
 
 
同窓会

 東京にいる友人から、3月30日という半端な日に同窓会をやりたいという連絡があったのは、約ひと月前の2月24日のことだった。「3月末に岩国に帰ることができる方はご連絡ください」というもので、馬場企画、村重・小林サポート、岩国幹事片山、東京幹事山田とある。

やはり山口県は遠いので、そう簡単に参加できるものでもないが、顔ぶれが懐かしい。そういえば、弟が3月に車で来ると言っていたし、帰るついでに九州の未乗車路線のローカル線旅もいいな、と計画を立ててみた。


〈岩日線開業50周年記念碑〉
   
 
〈義兄に北河内駅まで送ってもらった この沿線に住んでいたわけではないので初めて乗る駅〉
   
岩日線から錦川清流線へ

 岩国高校へ通っていたころは、自転車通学だったので電車(実際は電化されていないので気動車)通学をうらやましく思っていた。ただし、岩日線で錦町方面へは本数も少なく、乗り遅れると大変だから自転車通学が正解だったかも。

岩国には、瀬戸内海の大動脈山陽本線と、岩国~徳山を結ぶ岩徳線、岩国と島根県の日原を結ぶ予定だった岩日線の3本の国鉄があった。しかし、国鉄が民営化され、全国的にそうであったように、赤字路線はどんどん廃線となっていった。その中で岩日線はすでに開業していた錦町までを「錦川鉄道」として第3セクター方式で運営を続けられることとなった。昭和62年にJR西日本岩日線から転換とあるから、ちょうど目黒区から横浜に引っ越し、娘が生まれた年のことだ。

〈錦川鉄道設立 二十五周年記念碑〉
   

〈岩国方面から2両編成の錦川清流線気動車が到着 電化されてなく電線がないから美しい写真が撮れる〉
   

〈反対の錦町方面からも到着 単線のため中間点の北河内駅ですれ違う〉
   
 
〈最初の乗車予定の川西駅で乗らなかったので幹事の片山君から心配してスマホに連絡が〉
   
雙津峡(そうづきょう)温泉へ

 当初の予定では、玖珂駅から川西駅まで岩徳線で行き、数分後に岩国方面から連絡する錦川清流線に乗るつもりだったのだが、義兄が送ってくれるという。ありがたいので、東京からこのために帰ってきている友人2人が乗ると言っていた「北河内駅」までお願いすることにした。

別の友人に、「送ってもらえるので南河内か北河内で乗る」と連絡して、「了解」と返信が来たのに、川西駅で乗ってこないから幹事が心配して携帯に連絡をくれた。世の中このようにいい加減なのだ。文句を言うと「よく見たらそう書いてあった」と、カエルの面になんとやらだ。終点の錦町駅に迎えに来ていた宴会場のバスに乗りこむ。

〈錦パレスからの迎えのバスに乗り込む〉
   

〈この日集まった同級生は25名 先生が1人 自分も含めて東京から6名 発起人は上海からかけつけた〉
   

〈正式な同窓会ではないが45年の歳月が一瞬で埋まる〉
   
岩日線よ いつまでも

 高校生のころ、ちょうど拓郎や陽水などのフォークが爆発的に台頭してきた。それまでは作詞家や作曲家が作った歌を歌手が歌うのが当たり前で、小学生のころはやったグループサウンズも例外ではない。いや例外としては加山雄三や荒木一郎がいたかもしれない。

同じクラスの馬場君が、詩を書き連ねたノートを見せてくれたのは3年生の秋だったと思う。一番最初のページにあった詩に感激したぼくはその詩をメロディーにのせた。そうしてできた曲が「岩日線よ いつまでも」だ。
ただ、その願いもむなしく岩日線は姿を変えてしまった。できたらみんなで久しぶりに歌ってみたかったのだが、自分の回りには当たり前にあるギターがない。

〈雙津峡温泉の錦パレス 帰りはとことこトレインで〉
   

〈錦町駅から先は雙津峡温泉駅までタイヤで走る「とことこトレイン」が走っている 運行距離6kmは日本一の長さ〉
   

〈広瀬トンネル内はライトで光る蛍光石の壁画が続く〉
   
羊猿会

 昭和30年生まれのひつじ年と、31年のさる年生まれの学年なので「羊猿会」と称する同級生も、すでに全員が63歳になった。今日参加している中にも、がんとの闘病を続けている人がいる。すでに亡くなった同級生もいる。明日は我が身だ。

しかし、今回は参加して良かった。久しぶりに会話する同級生も、顔を見ても思い出せない同級生もいたが、岩国駅に戻り、同級生の居酒屋で二次会をしてさらに楽しい時間を過ごせた。明日からは、未乗車区間の山陰本線と九州のローカル線を乗りつぶす旅に出る。

〈この壁画の長さも日本一だそうだ〉
   
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