令和元年8月20日 火曜日 曇り 柴又帝釈天参拝 |
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〈寅さんが産湯を使ったという葛飾は柴又帝釈天に3年ぶりに参拝〉 |
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〈拝観料400円を払って帝釈堂彫刻ギャラリーへ〉 |
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〈総けやき造りの帝釈堂は昭和4年に完成〉 |
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〈塔供養の図 金子光清作 堂をめぐる外壁の木彫は法華経説話より取材し当時の名人により彫られた〉 |
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〈三車火宅の図 木嶋江運作〉 |
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〈慈雨等潤の図 石川信光作〉 |
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〈法師修行の図 横谷光一作〉 |
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〈多宝塔出現の図 石川銀次朗作〉 |
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〈千載給仕の図 加府藤正一作〉 |
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〈龍女成佛の図 山本一芳作〉 |
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〈病即消滅の図 今関光次作〉 |
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〈常不軽菩薩受難の図 法華経功徳の図 小林直光作〉 |
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〈法師守護の図 加藤寅之助作〉 |
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〈明治7年(1874)奉納の柴又帝釈天絵馬〉 |
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帝釈天
梵天とともに仏教の守護神。十二天のひとつで東方を守る。須弥山頂のとう利天の主で喜見城に住む。ベーダ神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。天帝釈。(大辞林〉
よくわからないが、日本は八百万の神の国だからありがたそうな対象は何でも拝んでしまうようだ。古代インド神話のヒンドゥー教の神が日本の葛飾区で信仰のお寺になってしまうのだから、節操がないと言えばないといってよいだろう。ちなみに柴又帝釈天の開山は寛永年間(1629)のことだそうだ。 |
〈祈願によって帝釈天が出現しご神水が湧き出る様子〉 |
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〈帝釈天板本尊出現を描いた明治2年(1869)の絵馬 帝釈天は黒ずくめで雲に乗り現れるものらしい〉 |
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〈東京の大空襲で焼けなくてよかった〉 |
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〈帝釈堂の地階部分の彫刻も見事〉 |
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〈渡り廊下を通って「すい渓園(大庭園)」にも行ってみる〉 |
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〈すい渓園にはりっぱな和室がたくさん 寺男の源ちゃんはちゃんと掃除をしていたのだろうか〉 |
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〈横山大観筆 群猿遊戯図(彫刻下絵)〉 |
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〈南天の床柱 客殿の床の間には樹齢1500年と伝わる日本一の南天の床柱が〉 |
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〈寺男の源ちゃんがいつも掃除をサボっていた山門〉 |
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〈渥美清がなくなって20数年経つが寅さんは不滅だ〉 |
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〈柴又帝釈天 題経寺山門を出ると門前商店街が始まる〉 |
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〈火曜日だったせいか参道商店街は閑散としている〉 |
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〈おいちゃん、おばちゃんが草だんごを売っていた「くるまや」のモデル高木屋 草だんごをお土産に購入 作りたてはおいしい〉 |
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〈渥美清もよく食べに来たという大和家の天丼998円 見た目は微妙だが濃いたれでおいしい〉 |
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〈大和家店内は寅さんの写真だらけ 変色具合が年月を感じさせる〉 |
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〈わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です 帝釈天で産湯を使い・・・山田洋次〉 |
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〈柴又駅の寅さん像の前には中国人か台湾人らしき観光客が 金正日もファンだったというから不思議ではない〉 |
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〈いつもおいちゃんたちとけんかして柴又を飛び出す寅さん それを言っちゃあおしまいよ〉 |
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〈見送るさくら像は平成29年に設置されたそうだ〉 |
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〈柴又は江戸時代から近世にかけて帝釈天の門前町として発展してきた〉 |
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〈源公が撞いていた鐘だが本物の音はなかなか聞けない〉 |
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寅さん記念館
帝釈天に参拝し、参道の大和家で天丼を食べ、高木屋で草だんごをお土産に買えば柴又観光のフルコースだ。ついでに3年前にも行った「寅さん記念館」に寄っていこうとしたら第3火曜日は休館日なのだという。月に一度しか休館日はないのに、なんとも間の悪い話だ。仕方ないので3年前に訪れた時の写真を載せておく。
しかし、渥美清のキャラクターと、山田洋次監督の才能で国民的な支持を得た「男はつらいよ」だが、最近の若者の反応は違うのだという。こんな身勝手で無茶苦茶な人は迷惑だ、許せないというらしい。確かに身近に寅さんがいると迷惑かもしれないが、現代は明らかに不寛容社会になっているようだ。 |
〈くるまやの店先で居眠りをする寅さん 4作目まではとらやだった〉 |
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〈寅さんの全財産 映画の中だから笑っていられるが家族だったらいい迷惑だろう〉 |
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