令和2年12月2日 水曜日 晴れ 京都・三十三間堂~方広寺~豊国神社 
 
   

〈トマムに続いて、ほら京都もこんなに魅力的だよ~ と誘う阪急交通社〉 
   
 別にこのDMで心が動いたわけではなく、もともと不謹慎ながら外国人観光客のいない京都は、今年が最初で最後のチャ
ンスだろうと考えていた。DMでは婉曲に「近年世界中からのお客様で混雑していた京都・・・」とあるが、最近の京都は
地元の人も迷惑するほどの大混雑だったという。「比較的空いている
こそ、古都京都の紅葉がお得に落ち着いて見ら
れる、
大チャンス!!」だそうだ。皆考えることは一緒だということだ。

実は、トマム・ウポポイに行く計画を立てる前からスケジュールを立てていて、当初はJTBで11月25日から30日までの5泊
6日の予約をお願いしていたのだが、喜多さんの都合が悪く1週間ずらすことにした。紅葉の時期は12月初旬までというとこ
ろが多いし、トップシーズンを外したほうが少しでも人混みが少ないかもしれない。


勤めていた会社は、割と福利厚生がしっかりしていて、かつては北海道から石垣島まで安く泊まれる寮や保養所があったし、
海外にもカナダやグアムに施設があった
(利用したことないけど)。しかし、時代の流れで会社の業績の低迷に伴い、あるいは
株主対策なのか、ほとんどの寮や保養所は閉鎖されてしまった。京都の寮も2~3回利用したが、リーズナブルに泊まれる
ありがたい厚生施設だった。


会社独自の健康保険組合も割と余裕があったのか、本人と扶養家族は年に5日間×4,000円の宿泊費補助が出る。旅好きの
弥次喜多道中からすれば使わない手はない。今回も2人で40,000円の宿泊費補助が出るのだが、ネットでの予約は認められず、
JTBか日本旅行か近畿日本ツーリスト経由で予約しないと補助が出ない仕組みになっている。ほかの健保からすればうらや
ましい制度だろうが、さすがにここにきて、財政悪化により今年度をもって中止する旨のお知らせがあった。会社によっては、
退職すれば国保に入るしかないところも多いだろうから、だまって協力するしかない。それでも、インフルエンザの予防接種
は全額、人間ドックは95%補助してくれるのだからありがたい会社だ。ながい会社員生活の間には「やめてやる!!」という
ようなこともあったが、我慢して働いてきたおかげだろう。


ということで、最後の健保補助も使い5泊6日の京都紅葉の旅だ。

1日目 12月2日 水曜日 三十三間堂~方広寺~豊国神社
2日目 12月3日 木曜日 渡月橋~天龍寺~嵯峨野トロッコ列車~仁和寺
3日目 12月4日 金曜日 鞍馬寺~貴船神社~三千院
4日目 12月5日 土曜日 東福寺~泉涌寺~醍醐寺
5日目 12月6日 日曜日 清水寺~高台寺~六道珍皇寺~六波羅蜜寺
6日目 12月7日 月曜日 二条城~京都鉄道博物館

山口の弟も誘って途中で合流する予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、病院に勤めているので今回は
自粛したいという連絡があった。まっとうな判断だろう。
   
コロナとGoToトラベル

 今回の京都行きは夏には予約していて、その時点では多少は感染者も落ち着きつつあったのだが、ここにきて特に北海道や大阪で感染者が大幅に拡大しつつある。

横浜に帰ってきた翌日の朝刊には、「コロナ拡大 大阪に自衛隊派遣へ 北海道も検討 医官や看護官」と大きく見出しが出ている。すっかり悪者になった感の「GoToトラベルキャンペーン」だが、細心の注意で京都の紅葉を楽しんで来ようと思う。今回の旅のテーマは「京の歩き旅」だ。極力歩いてツアーでは見られない京都を発見出来たらうれしい。

〈京都に滞在中の6日間はすべて晴れの予報〉
   

〈京都駅の目の前にある東本願寺 真宗大谷派の本山 宗祖は親鸞聖人 寺院は全国に約8600、門徒は約100万人だそうだ ホテルまで約1kmを歩く〉
   
ベッセルホテル カンパーナ京都五条

 JTBでホテルを予約する際、最初に選んだのは京都駅直近の「都ホテル京都八条」だったのだが、3年前にローカル線の旅で泊まってすごくよかった「ベッセルホテル カンパーナ京都五条」を思い出して取り直してもらった。

何がいいと言って、シティー(ビジネス?)ホテルなのに、結構立派な大浴場とサウナ風呂があるのだ。どうにもトイレと一緒の、部屋の洋風作りの風呂は疲れがとれない。昭和のおじさんだからね。このホテルはJTBの集計する客の評価もすごくいい。地下鉄烏丸線の五条駅から徒歩1分なので観光にも便利だ。

〈サウナ好きの弥次さんにはうれしいホテル〉
   
国宝 三十三間堂 

 息子が中学の修学旅行で行って、「すごくよかった」と言っていたので、いつか行ってみたいと思っていた三十三間堂に初めてやって来た。喜多さんは三度目だというが、確かにこれは圧倒される。奈良の大仏さんより感動する。

中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(国宝)、合計1001体がご本尊。正しくは「十一面千手千眼観世音」といい、当院の像は檜材の「寄木作り」で頭上の11の顔と40種の手に表現される。中尊(国宝)は、大仏師湛慶(運慶の長男)82歳の時の造像で鎌倉期(建長6年)の名作と評価される。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、他の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年かけて復興された。(パンフより)

〈さっそく三十三間堂を拝観〉
   
日本唯一の千体観音堂

 正式には蓮華王院(国宝)といい、長寛2年(1164)鳥辺山麓(現阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一角に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。(パンフより)

いや~見事でした。もっとゆっくり拝観したかったのだが、修学旅行か社会見学か小学生や中学生が団体で次から次へとくるので、喜多さんは感染を怖れて早く出ようと急かすのだった。

〈撮影禁止なのでネットから拝借〉
   

〈通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの桃山期の重文建造物〉
   
池田屋事件 もうひとつの舞台地

 三十三間堂の太閤塀に沿って歩いていたら、「此付近 坂本龍馬 北添佶摩など土佐志士寓居跡」という石碑が立っていた。この辺りは東山七条あたりで、清水寺にも近い。幕末土佐藩脱藩の坂本竜馬やその同志だった北添佶摩などがこの辺りに住んでいたのだそうだ。

ここで竜馬は妻となる楢崎龍と出会うことになる。お龍の晩年の回想録「反魂香」によると、河原屋五兵衛の隠居所を借りて、中岡慎太郎、北添佶摩、望月亀弥太、大利鼎吉、菅野覚兵衛等と同居していたという。北添は新選組に踏み込まれ池田屋事件で戦死するも
竜馬はからくも生き延び、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言をあげることになる。

〈池田屋事件 もうひとつの舞台地碑〉
   

〈隣の智積院に来て見るが16:30でちょうど閉門の時間だった 残念〉
   

〈智積院は豊臣秀吉が夭逝した長男・鶴松の菩提寺として建てた祥雲禅寺が前身〉
   

〈庭園は国の名勝というが閉門で入れない〉
   

〈長谷川等伯一門の障壁画も有名〉
   
 
   
 
〈天正13年(1585)豊臣秀吉と対立したため、兵火により堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました・・・とある〉
   

〈鳥辺野 京の代表的な葬送地 「鳥辺野の煙」とあるように東宮実仁親王、藤原道長、頼道親子など多くの皇族・貴族がここで荼毘に付された〉
   

〈豊国廟参道は京都女子大・京都女子高への道だった 若い女性がいっぱい〉
   

〈妙法院門跡の後ろはフォーシーズンズホテル京都〉
   
方広寺

 「天正14年(1586)豊臣秀吉が奈良・東大寺をしのぐ大仏殿を建立。大地震で大破したのち再建するも火災などで失われ、現在は本堂、大国堂、梵鐘を残すのみ。梵鐘には豊臣家滅亡の引き金となった銘文がみられる。」とのことで、この地にはかつて広大な面積を誇る「方広寺」があったのだ。

当地東山には、ながく「大仏」がありました。豊臣政権が造営し、徳川政権が維持したものです。その寺の名を、江戸時代以後方広寺といいました。現在も同寺は存在しますが、当時はいまとは比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院本堂)や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。

へ~、初めて知りました。

〈方広寺大仏殿跡地〉
   
 
〈徳川家康が豊臣家の財力の消耗を狙って秀頼に造らせた梵鐘 国家安康が家康の文字を二分して呪詛を図ったといちゃもんをつけた〉
   
狸親父 家康

 慶長19年(1614)豊臣秀頼が、亡き父秀吉の追善のため造った鐘である。秀吉追善のためと表向きにはなっているが、豊臣家の財力の消耗が狙いで徳川家康が秀頼に勧めて造らせたものである。

 撞木を挟み、この鐘の上部には東福寺の僧清韓の書いた銘文が刻まれており、その銘文の中の「国家安康」と「君臣豊楽」の八文字が徳川家康の怒りをかった。家康の文字を二分して呪詛をはかり、豊臣家の幸福を祈念するものだ、との主張であった。もちろんそういった意味はなく、「国家安康」は国家の安泰を願ったもので、「君臣豊楽」は君主も臣下も皆豊かで楽しく、といった意味である。これに対し、片桐且元はこの問題を解決すべく、家康のもとへ向かったが、面会すらさせてもらえず、状況は悪化し、大坂冬の陣へと向かっていった。すべては家康が豊臣家を滅亡させようととった策略であり、その裏では家康の政僧というべき天海と金地院崇伝と深い関係があったようだ。
 

〈高校の日本史で習ったよな・・・と思いつつ感慨に浸る〉
   
 大坂夏の陣での豊臣家滅亡の後、鐘は徳川家より呪いの鐘とされ、地面に置き鳴らなくされてしまい、明治17年に寄進で鐘楼が建て直されるまで雨ざらしであった。その際、現在の鐘楼の天井画が移築された。この天井画は元々伏見城の女性の化粧室の天井画であった。

鐘の寸法
高さ・・・4.2メートル、外径・・・2.8メートル、
厚さ・・・27センチ、重さ・・・82.7トン

〈伏見城の女性の化粧室の天井画を移築したそうだ〉
   
 
〈「ほうこくさん」の名で親しまれる豊臣秀吉を祀る神社 伏見城の遺構と伝わる唐門は国宝〉
   

〈ホテルに帰ろうと歩いていたら「大仏殿石垣」の碑が 巨大な石垣 秀吉は土木工事好きだったというが〉
   
 
〈鴨川にかかる五条大橋を渡ってホテルまで歩いて帰る 3時間程度でも結構観光できる 本日の歩数12,400歩〉
   
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