平成16年8月21日(土曜日)〜28日(土曜日) スペインの旅
   

中学生のころからスペインに行ってみたかった。

ギターを弾き始めた頃から漠然と憧れに似た感情を持ち続け、それはなかなかこころの奥底におりのように
たまったまま解消することはなかった。

アンダルシア地方、アルハンブラ宮殿、セビリア、バルセロナ、マドリッド、その昔山海塾の森田にもらった
ドン・キホーテの木彫りの人形、ピカソ、ダリ、ゴヤ、スペインの美女、フラメンコ、いい加減な性格に違い
ないスペイン人たち・・・


〈アルハンブラ宮殿 ライオンの噴水〉
 結婚25年で銀婚というわけだが、それをだしに海外旅行をしようという話が夫婦のあいだに持ち上がった。
平塚のお母さんが「カナダに行ってみたい」と言っていた、という話も聞いていたので、誘ってみたがどうも
体力に自信がないという。

ならばと、前から一度行ってみたかったスペインはどうだということになり、喜多さんも異存はないらしく、
話はとんとん拍子に進んだ。地元のJTBで、「スペインに行きたいんだが」ともちかけると、カウンターの
おじさんもスペイン好きだったらしく、見どころを説明しながらお薦めツアーを選んでくれた。

安いツアーもあったが、「移動がバスばかりで、若い人でないとつらいですよ」とまっとうな意見を述べる。
「確かにね〜。安いのはありがたいけど、せっかくスペインまで行ってつらい思いをするんもな〜。」と、
おじさんお薦めのひとり35万円くらいのツアーをその場で申し込んだ。
   
    
〈ジプシーのフラメンコ〉

 二人の子供にも一応「一緒に行かないか?」と声はかけてみたが、留守番しているという。これ幸いと、
二人の子供には8日間留守番してもらうことになった。親は二人分のツアー代が助かったが、しかしもったい
ないね。僕のこどもの頃には、海外旅行に連れて行ってやるという親がいるとは信じられなかったけどね。

そうして平成16年8月、長い間夢だった「スペイン旅行」に喜多さんと二人で出かけることになった。
実は
平成16年は昭和56年3月28日に結婚式を挙げてから23年目であり、銀婚式にはあと2年あった。娘が高校
2年生、息子が高校1年生で、一番精神的にものんびりした時期であった。来年になれば娘が、再来年には
息子が大学受験で、親が大手を振って海外に遊びに行くのは気が引けたものだから、少し早目の銀婚旅行と
することにした。

奥さんはこども2人分、8日分の食事を作り冷凍庫に保管した。献立スケジュールも作り、その献立表の通り
に温めればとりあえず食事の心配はない。子どもたちは子どもたちで、親の束縛を離れそれぞれの開放感を
楽しんでいるようであった。親の心配をよそにまったく平気な顔をしている。

1日目 8月21日(土) 成田空港〜スキポール空港〜マドリッド空港 ホテルプラガ
2日目 8月22日(日) プラド美術館〜トレド ホテルプラガ
3日目 8月23日(月) メスキータ〜アルバイシン地区〜フラメンコ鑑賞 Hモナステルジョ デ ロス バスィリオス(修道院)
4日目 8月24日(火) アルハンブラ宮殿〜ミハス〜地中海 ホテルラス ピラミデス
5日目 8月25日(水) ロンダ〜セビリア〜バルセロナ ホテルTRYP アポロ
6日目 8月26日(木) サグラダファミリア〜グエル公園〜ピカソ美術館 ホテルTRYPアポロ
7日目 8月27日(金) モンジュイックの丘〜バルセロナ空港〜
8日目 8月28日(土) スキポール空港〜成田空港
   
〈1日目 出発の日〉

 8月21日(土曜日)前日にタクシーを予約しておいたので、最寄の駅まで大きな旅行用スーツケースを二つ
積み込んでいざ出発。タクシーに乗り込むと、運転手さんが「俺を知らない?」みたいなことを言う。ぼくは
誰だか分らなかったが、なんと二軒となりのIさんのご主人だった。どうもアルバイトでタクシーの運転手さん
をしているらしい。いかに近所付き合いがないか露呈した瞬間だった。

「旅行か〜、いいな〜」みたいな話しをしながら最寄り駅まで送ってもらった。少しでも倹約しようというこ
とで、成田まで普通電車を乗り継いでいくことにした。品川までは京浜急行、品川から青砥までは都営地下鉄、
青砥からは京成電鉄に乗り継ぎ成田を目指す。土曜日だし通勤客もいないので電車はまったくすいている。
JRの成田エキスプレスや、京成のスカイライナーを利用するより時間はかかるがなんてことはない。出発の
二時間くらい前に成田空港に到着した。

 JTBカウンターで搭乗券その他を受け取れば、あとは飛行機に搭乗し出発を待つだけだ。待合室の窓から日本航空のジャンボ機が見える。「きっとあの飛行機だよ」と言いながら写真を撮る。果たして、その通りに目の前のJALのジャンボジェット機に乗り込んだ。

一度乗ってしまえば、オランダのスキポール空港に到着するまで、10時間の間ちょっとおろしてくださいというわけにはいかない


〈鶴のマークもなくなったがその後会社更生法を経て復活〉
 
 席の目の前には、ナビゲーターや映画やゲームがそれぞれ楽しめるようにテレビ画面が据えてある。8年前にハワイに行ったときには、まだこんな個人用の画面などなかった。画面を見るにしても、前方のスクリーンで見るしかなかった。カーナビ同様、自分がいまどこを飛んでいるか、目の前の画面で確認することができる。画面の地図には、関東・北陸からロシアまで映っている。成田を出発したJAL機は、まっすぐに北に向かっている。関東と北陸を抜け日本海を北上し続けると、そのうち日本海も終わり、広大なロシア大陸の上空を飛び始め、やがて進路を西に向ける。

一路、ヨーロッパを目指す長時間の旅が始まった。

〈マドリッドから旅は始まる〉
 飛び立って何時間がたったころだろうか。ロシアの平原が見えてきた。手元の機内誌の地図と見比べながら、「アムール川かな」などと、喜多さんと盛り上がる。ジェット機は西へ太陽を追いかけながら進むので、いつまでたっても日が暮れない。

散々退屈な思いと、エコノミークラスの狭い椅子にお尻を痛くしながら、飛行機は降下を始めた。

〈飛行機からロシアの大地を見下ろす〉
 オランダ、アムステルダムのスキポール空港に到着だ。降下する飛行機から見る風景は、高層ビルなどまったくない緑ばかりが一面に広がった想像通りのオランダの景色だった。風車は見えなかったけどね。成田の、平地の少ない日本独特の風景とは根本的に違う。海抜の低いことで有名なオランダは、ちゃんと区画整理が整った牧場みたいな、緑ばかりの国であった。

このスキポール空港で、スペインのイベリア航空に乗り換えるため、マドリッド行きの搭乗ゲートまで歩く。何年か前までは、イベリア航空が日本に乗り入れていて直通便もあったのだが、乗客が少なかったのか撤退してしまったそうで、今はスペインへの直通便は一便もないそうだ。


〈オランダの平野〉
 それでも迷わずに15分くらい空港内を歩き、マドリッド行きのゲートまでたどり着く。念のためにカウンター
のスペイン人らしきお姉さんにチケットを見せて、片言で「このチケットは、このゲートで間違いないか? 
インディアン ウソ ツカナイ」というと大きくうなずいたので一安心する 
 やがて搭乗の時間となり、イベリア航空機に乗り込む。外国の飛行機は、日本のバスの感覚なのか、ろくに掃除もしてない感じで薄汚れている。機内誌もあるにはあるが、もう何週間も取り替えていないようで、汚いことはなはだしい。日本の飛行機の機内がきれいすぎるのかもしれない。

2時間半くらいの搭乗時間が過ぎ、もう深夜になったマドリッドの空港にジェット機は降り立つ。オランダのスキポール空港とは違い、夜になったせいで住宅の灯りがきれいに見える。日本の蛍光灯の明かりと違い、電灯の赤っぽい色が暖かい感じがする。

〈マドリッド空港の夜景〉
   
 実は、このツアーは成田で顔負わせをするわけではなく、マドリッドで集合して初めて一緒のツアー参加者が
わかる仕組みになっていた。成田からの参加者と、関空からの参加者の合計で20人くらいはいただろうか。関空
からの参加者はパリ経由でマドリッドに到着したそうだ。飛行機、特に国際便は何時間も遅れることがあるので、
ちょっと不安なツアーだなと思ったがそれでも全員現地時間の夜11時ころ出口で集合することができた。

ミチさんという現地のJTBガイドさんに引率されて、我々にわかツアー集団は深夜12時ころのホテルに到着。深
夜にも関わらず、ホテルのロビーでミチさんに明日の朝の予定とか、明日のオプショナルツアーへの参加とか、
セキュリティーの案内とかの説明を受けてやっと部屋に入ることができた。もう成田を飛び立ってから15〜16
時間は経っているはずだから、日本では朝の10時くらいじゃないだろうか。眠いのやら、眠くないのやらよく
わからない。
   
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