〈1日目〉 平成21年2月14日 土曜日 晴れ 日本橋〜内藤新宿

〈甲州道中もやはり日本橋から〉
中山道と並行して甲州道中をスタート


 中山道は昨年暮れに下諏訪から塩尻宿まで歩いたが、冬の間の長野県は寒くてつらそうだ。しかも、塩尻に行くまでに半日仕事だ。かといって、どこも歩かないのは少し寂しい。・・・ということで、冬の間は甲州道中に挑戦することにする。

甲州道中も、東海道・中山道のスタートと同様に日本橋まで行き、正しくスタートすることにする。

〈東京都のマークをつかむ獅子〉
本物の日本国道路元標


 今回は、車の途切れるのを待って、しかも日本橋の交番のお巡りさんの目を盗んで、橋の真ん中にある本物の「日本国道路元標」の撮影に成功した。

ここが正真正銘の日本の道路の中心地だ。

〈やっと本物の日本国道路元標の撮影に成功〉
 その「日本国道路元標」の真上には、首都高速道路からも見えるようにこのようなしゃれた標識があるのだが、首都高を走っているドライバーには、そんな余裕はないだろう。
〈首都高速からも見える道路元標〉

〈重厚な麒麟の彫刻〉
400年の歴史 日本橋西川


 ちょうど地下鉄日本橋駅を出たところに高級寝具で有名な日本橋西川がある。この日本橋西川は1615年にこの日本橋のたもとに出店した正真正銘の老舗だ。徳川家康が江戸幕府を開き、商業発展のために起点となる日本橋を中心に有力な商人を誘致するにあたり、近江商人より4家が選ばれた。その一つの商人がこの西川だ。創業は1566年、もとは西川甚五郎商店と称した。

ちょうど羽根布団のいいのが欲しかった弥次さんは、ちょっと見てみるだけのつもりで店に入ってみたが、つい羽毛布団と羊毛の毛布を買って、自宅に送ってもらったのだった。

〈400年続く日本橋西川〉
405年目の引っ越し(2020.8.31追記)

 もう10年以上前に一度羽毛布団と毛布を買っただけなのに、ずっとDMを送ってくれる日本橋西川さんだが、あれ以来一度も何も買っていない。申し訳ないですね。羊毛の毛布は羊毛が消耗したのかあまり暖かくなくなったので、楽天でポリエステルの毛布を取り寄せたが、これが暖かくて重宝している。

最近またDMが届いたが、1615年の出店以来初めて引っ越しをするのだそうだ。一時的に隣のコレド日本橋に引っ越した後、リニューアルしてまた405年商売を続けてきた地に戻るのだろう。「三方良しの近江商人」の奥深さを感じる。このような長い歴史を持つ店や会社がたくさんあることは日本が誇ってよいところだろう。

〈一度買っただけなのにずっと送られてくるDM〉
   
かつての白木屋

 今はコレド日本橋となっている場所には、1999年まで「東急百貨店日本橋店」として、「白木屋」が存続していた。白木屋は京都の小間物屋・呉服屋として知られていたが、寛文2年(1662)江戸の日本橋通りに進出し、町人から大名・大奥までも顧客にして江戸3大呉服店として名をとどろかせていた。

1932年には大火を起こし日本初の高層ビル火災となった。その際、和服で下着をはいていない女性が飛び降りられずにたくさん犠牲になったことで、女性の洋風下着が普及するきっかけになったとテレビなどで取り上げられることが多いが、これはどうもマユツバものだと言われているらしい。

〈白木屋の後に立つコレド日本橋〉
 寅さんが口上で、「カドは一流デパート、赤木屋黒木屋白木屋さんで、紅白粉(べにおしろい)つけたおねえさんから、くださいちょうだいでいただきますと、五百が六百くだらない品物ですが、今日はそれだけくださいとはいいません。」などと言っている白木屋さんだ。振り返ってみると、左手に大和証券、右手に野村證券が見える。

どちらのビルもずいぶん古くなっている。しかも、このあたりでこんな階数ではもったいないくらいの低層ビルだ。

〈証券会社のメッカ〉
東京駅

 地図では東京駅は通らないのだが、せっかくだから立ち寄ってみる。この東京駅の煉瓦は、渋沢栄一の深谷煉瓦製造株式会社が作ったと中山道深谷宿を歩いた時に学習した。人間何歳になっても勉強なのだ。

一時、こんな古臭い建物は壊して高層ビルにしようという乱暴な意見もあったようだが、時代は変わり貴重な歴史的建築物は極力保存される方向にある。


〈東京駅に立ち寄ってみる〉
和田倉門


 つきあたりで皇居のお堀にぶつかる。ここは和田倉門というところだ。

ここまで来たところで、地図を見ると少し戻ったところに「平将門首塚」があるではないか。これはぜひとも見学に行かなければ。

〈和田倉門〉

〈樅の木は残ったの原田甲斐が殺されたところ〉

〈ビルの谷間に平将門の首塚が〉

〈将門首塚由来〉

〈将門の首塚の周りにはガマがたくさん〉
将門首塚

伝承では、将門の首は平安京まで送られ東の市・都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり
故郷に向かって飛んでゆき数カ所に落ちたと言われている。その中でも最も著名なのが大手町に
あるこの首塚であるが将門の首塚は今まで歩いてきた中山道神田明神にもあり、東海道掛川にも
あった。
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村であったが、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられて
きたという。この将門さんの怨霊はいまだに移転させようとしたりすると、大いに祟るらしい。
弥次喜多夫婦もたたりがないように、十分に手を合わせてきた。


将門公の首塚に手を合わせてきた弥次喜多コンビは、皇居のお堀に沿って内藤新宿を目指す。
先ほど東京駅の脇を通ってきたが、甲州道中の左手には東京駅の正面が見える。

〈皇居のお堀に沿って進む〉

〈東京駅の正面を左手に〉
 皇居のお堀はジョギングのメッカであるが、このあたりはコースから外れているために、人通りは少ない。
明治生命館


 この壮麗な建物は昭和9年(1934)3年7ヶ月の歳月をかけ建てられた「明治生命館」で重要文化財に指定されている。昭和の建築物では初めて重要文化財に指定された建物らしい。

戦後は、アメリカ極東空軍司令部としてGHQに接収され、米・英・中・ソ4カ国の対日理事会の会場として使用された歴史がある。中は見学できるそうだが、またの機会にして先を急ぐことにする。

〈重要文化財 明治生命館〉

〈皇居のお堀〉
 江戸時代にこの街道を歩いた旅人は、同じような江戸城のお堀の景色を見て通ったのだろうか。
そのころは、その先に壮麗な江戸城が見えたのだろう。
第一生命館

 明治生命館のすぐ先に「第一生命館」がある。戦後、マッカーサーのGHQ本部が置かれたことで有名な建物だ。明治生命館といい、第一生命館といい、保険会社は昔からいい商売だったのだろう。建物がやたら立派だ。

弥次さんも、第一生命には保険料を30年間払い続けてきたが、一度も使わないままこの歳になってしまった。それはそれで結構なことだが、一度くらいは保険を使ってみたかった。払った保険料は、職員の給料に消えてしまったのかと思うと少し悔しい。

〈第一生命館〉

〈桜田門〉
桜田門

 桜田門が見えてきた。安政7年(1860)3月3日、安政の大獄を強行した井伊直弼は、水戸藩士を
中心とした浪士にこの場所で暗殺された。長州の精神的な礎であった吉田松陰も、井伊直弼によって
伝馬町の露と消えた。東海道品川宿を歩いた時に妓楼土蔵相模跡があったが、この暗殺前夜水戸
浪士たちはその土蔵相模で別れ杯を交わしたという。
 外桜田門の標識の向こうに国会議事堂が見える。
このあたりは、何といっても日本の中心地だ。

〈皇居のお堀はジョギングコースで有名〉

〈国会議事堂の周りは厳重な警戒だった〉

〈半蔵門〉

〈東京の観光にはオープンバスで〉
最高裁判所


 この建物は三宅坂にある最高裁判所だ。一般市民としては、桜田門の警視庁と同様にあまりお世話になる場所ではない。

この最高裁まで争われる裁判は、かなり新聞やテレビを騒がせた事件ということになるのだろう。この先の人生でも、この建物に被告として連れてこられることだけはないようにしたいものだ。

〈最高裁判所〉
厳重な警戒


 日本橋から4kmの標識の前後には、警視庁機動隊のバスがたくさん止まり、機動隊員が警戒に当たっている。

あまりに物々しいので、そばの機動隊員に何の警備をしているのか聞こうかと思ったが、遠慮してやめておいた。外国の要人が来ている話も聞かないから、デモに備えての警備なのかも知れない。遠くで、デモ隊のシュプレヒコールのような声が聞こえていた。
 半蔵門を左に折れ、新宿通りを麹町あたりでふりかえれば、幼い姉と弟が手を取り合って楽しそうにしている彫刻があったが、国立劇場の表示板の下に見えている男性も警察官だ。

田舎で警察官をみると、交通違反の取り締まりというイメージだが、国会議事堂の近くでは、警察官は交通違反など細かいことには目もくれない感じがする。


〈四谷見附口城門跡〉
新宿歴史博物館


 四ツ谷駅の右手に「四谷見附口城門跡」が残っている。この見附口城門跡を見ていくには、四ツ谷駅の手前を少し右に折れる必要がある。それにしても、日本橋から5.5kmを歩いてきたが、江戸城の規模の大きさには今更ながら圧倒される。

四谷見附を過ぎたあたりで、300mほど右に入ると「新宿歴史博物館」の案内表示があった。基本的には、街道沿いの博物館は見学していく方針なので、早速立ち寄ってみる。

〈かつて新宿を走っていた都電〉
【内藤新宿】

〈内藤新宿の宿場の様子〉
内藤新宿と新宿御苑

 新宿歴史博物館などこうして街道を歩かなければ、たぶん一生縁がなかったところだろう。「新宿」の地名は、甲州街道の宿場町「内藤新宿」の名が起源となっているそうで、内藤とはこの地を治めていた大名、内藤さんによるものだ。その内藤さんの屋敷は今の「新宿御苑」あたりにあったという。

この宿場は、甲州道中最初の宿場「高井戸宿」が日本橋から17kmと遠く、旅人に不便であったことから1698年に設けられた新しい宿場であった。新宿は夏目漱石、坪内逍遥、小泉八雲、尾崎紅葉、島崎藤村、田山花袋、永井荷風、林芙美子など文豪が多く住んだ町でもある。

〈新宿御苑入口〉
 この歴史博物館にはそれらの資料も多くあるので、かつての文学少年、(現在は単なる歴史好きおじさんとなってしまったが)には見所の多い博物館だった。しかし、普段の生活は職場の築地と住んでいる横浜の往復以外には、たまに銀座に立ち寄るくらいで、新宿にはとんと縁のない生活だ。

学生時代には、新宿歌舞伎町でアルバイトをしていたこともあったのだが、街はとんでもなく変貌している。およそ30年ぶりに新宿御苑に立ち寄ってみて、本日は新宿駅から湘南ライナーで帰ることにする。


〈新宿の街が見えてきた〉
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