奥州道中〈4日目〉 平成26年6月4日 水曜日 曇り時々晴れ 芦野宿〜白坂宿〜白河宿
芦野温泉ホテル

 他に宿がないので何気なく予約したのであるが、こんな山の中にシングルの部屋がある。不思議だなと思っていたが、なんと一人でひと月くらい湯治に来る人が多いらしいのだ。年寄りや湯治客のための温泉だから未就学児は来るなとも書いてある。シングル館に泊まり、部屋の案内を見ると、ひとり客のために毎日15時より談話時間を設けてあるらしい。

翌朝、朝食をシングル館に泊まっている人たちといただいたが、ほとんどの人は顔なじみらしく、新顔にどちらが悪いのか聞いていた。弥次さんも聞かれたが、「申し訳ないがいたって健康で、街道歩きのためにこの温泉に泊まった」と、申し訳なさそうに答えておいた。

〈芦野温泉の湯はいかにも効きそうだった〉

〈芦野温泉の裏手のグリーン開発 別荘地をもくろんでいたのだろう〉

〈旧道は左の道に入る〉

〈馬頭観世音 芦野氏のお墓があるようだ〉

〈芦野宿集落入口に河原町地蔵尊があった〉

〈各家にこのようなりっぱな屋号の常夜灯が 足袋屋〉

〈こちらは染屋 ちょうど出てきた奥さんと立ち話をした〉

〈この屋号は商工会の費用で作ったと言っていた〉

〈創業300年 うなぎの丁子屋〉

〈利酒師のいる店 那須屋と奥州道中〉

〈石の博物館 ちょっと興味があったが開館前〉
芦野宿

 奥州道中は幕府の命により整備され、これによって、従来の東山道、中世以来の関街道と呼ばれた伊王野谷を通る道は、脇街道となった。関ヶ原合戦の後、慶長年間のことである。

これにより、芦野は城下町として、また新街道の宿駅として、江戸時代の流通経済の発展に伴い交通の要衝(江戸方面からみれば関東北 端の宿駅であり、東北からすれば、関東の入り口に当たる)として発展した。芭蕉の奥の細道をはじめとして、多数の文人墨客がこの地を訪れている。明治になるとこの道は、「陸羽街道」となり、新国道の開通まで国道の機能を果たしていた。
〈町のHPより〉

〈紙すき屋〉

〈立ち話をした奥さんが遊行柳を見て行ってくださいと言っていた〉

〈旧奥州道中沿いの遊行柳を見に行く〉

〈那須町指定史跡 遊行柳〉

〈これが遊行柳〉

〈とちぎ銘木百選 遊行柳〉

〈謡曲「遊行柳」と朽木柳〉

〈芭蕉や蕪村も訪れたという〉

〈遊行柳の奥には神社が〉

〈田んぼの緑が美しい奥州道中〉

〈べこ石の碑 形が牛に似ていることからべこ石といわれたらしい 孝行や善行をすすめている〉

べこ石の碑

 この碑は嘉永10年(1848年)10月に芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒が撰文建立したもので、全文19段、約3500の文字を刻した碑文である。

長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形がか臥牛に似ているための呼称と思われ


〈白河の関まで10.6km〉

〈板屋の一里塚 日本橋から四十四里〉

〈風情のある馬頭観世音〉

〈花が美しい奥州道中〉

〈南国っぽい杉林〉

〈幕末維新の志士たち という写真が貼ってあった ほとんど知っている有名人たち〉

〈馬頭観世音〉

〈花が美しい奥州道中 白河の関まで8.1km〉

〈脇沢の地蔵様〉

〈鳥の形に刈った植木がずらり〉

〈古そうな狛犬〉

〈廃止になった小学校の二宮尊徳像〉

〈白河の関6.2km〉

〈え〜 ここに白河の関跡の表示が あたりを見回しても何も見当たらない〉

〈泉田の一里塚 江戸から四十五里〉

〈この先 初花清水〉

〈旧道が湾曲して残っている〉

〈初花清水 ちょうど水が切れていたのでペットボトルに水を詰める〉

〈瓢(ふくべ)石〉

〈この先100m 明治天皇御小休所〉

〈明治天皇山中御小休所碑〉

〈明神の地蔵様〉

〈下野(栃木県)と会津(福島県)の境 境の明神〉

〈ついに福島県白河市に入った〉
白河宿

〈福島県側の境の明神 陸奥側の境の明神は玉津島明神 下野側は住吉明神を祀っている〉

〈奉納和算額 数学の問題が解けた喜びを神仏に感謝し奉納したもの〉

〈ニ所の関 白河の関は「ニ所の関」といわれた通り二か所にあった その一つがここだという〉

〈福島県から栃木県側を振り返る〉

〈衣がえの清水〉

〈弘法大師が身を清め衣がえをしたという〉

〈これが衣がえの清水〉

〈白河の関6.5kmとあるが奥州道中沿いではない〉

〈やはり福島は大変 除染作業中〉

〈歩いてきた道に除染した土などが大量に積んである〉

〈牛頭観世音〉

〈義経を奥州に連れて行った金売吉次の墓があった〉
奥州道中食事事情

 6月1日から歩き始めて4日目だが、昼食には苦労した。街道沿いに食堂などがまったくないのだ。

歩き始めてから初めての食堂といってよいだろう。もちろん街道を少し外れて幹線沿いには今風のレストランや回転ずしやラーメン屋さんなどがあったが、旧奥州道中沿いにはまったくと言ってよいほど食堂らしきものがなかった。手打ラーメンとあったので期待して入ってみる。ちょっとあっさり目の喜多方ラーメン風であった。

〈やっと見つけた食堂 朝日屋食堂〉
白河の関

 白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関、勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国らに通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。寛政12年(1800)白河藩主松平定信は、文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。

白河検問所
 白河警察署が国道4号線沿いに設置している常設の検問所。関東からの犯罪流入を防ぐことを目的とし、「現代の白河関」と称している。

 〈→白河の関10km どんどん遠くなってゆく〉

〈戊辰の役古戦場 右は明治時代の同所〉

〈ここで官軍と会津軍が戦った〉
戊辰の役古戦場

 昨年のNHK大河ドラマは、会津の新島八重を主人公にした「八重の桜」であった。山口県人としては気の重いドラマであったが、会津の人たちは時代の流れを感じ取れない人たちが多かったのではないか。八重さんは、新島襄と再婚して先進的な気概を持っていたのであろうが、「ならぬものはならぬのです」と言っているようではだめだと思う。

長州の大村益次郎
(村田蔵六)などは、既成概念にとらわれない生き方をして、明治維新を成し遂げた。太平洋戦争中も東北出身の高級将校が頑固に玉砕や特攻を指導したというではないか。

〈戊辰の役古戦場〉

〈会津藩戦死墓 白河口の戦いの中でも最大の激戦地 304名の戦没者の名が刻まれる〉

〈田辺軍次の墓 狂気を感じる〉

〈左奥州道〉

〈東日本大震災の仮設住宅が立ち並ぶ〉

〈小峰城の石垣も震災で壊れて修復中〉

〈復旧工事は平成28年までかかるそうだ〉
 高校の日本史の授業の時、先生が「福島に行ったら山口県から来たと言ったらだめですよ。途端にサービスが悪くなりますよ」、と言っていた。確かに会津の人たちからすれば、薩長をはじめとする官軍には恨み骨髄だろう。会社でも冗談ではあろうが福島県出身の人から「長州は許せん、薩摩は西南戦争で仇を打ったが・・・」といわれたことがある。

でも考えても見てほしい。物事は常に一方から見てはならない。今の中国・韓国も同様だ。幕末、会津差配の新撰組や見回り組などに長州人はどれほどの犠牲を出したか。
中国・韓国にも言いたいのだが、過去ばかりとらわれずに未来を明るくすることを考えようではありませんか。ということで、4日間で90kmを歩く奥州道中の旅も終わり。五街道を7年半かけてすべて踏破した。

〈白河駅から横浜に帰る〉
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