奥州道中〈二日目〉 平成26年6月2日 月曜日 晴れ 氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿
氏家宿続き

〈泊まったビジネスホテルの隣は餃子工場〉

〈餃子消費量日本一奪還が本当に嬉しそう〉
 
〈瀧澤家住宅〈栃木県指定有形文化財建造物)紡績などの事業で財を成した人らしい〉
瀧澤家住宅

 さくら市は16日までに、明治天皇の訪問時に建設された客殿「鐵竹堂」などが県指定文化財になっている櫻野の「瀧澤家住宅」(個人蔵)を購入する方針を固めた。9月定例市議会に購入費や業務委託料など総額1億2910万円を盛り込んだ補正予算案を提出した。

「瀧澤家住宅」は明治20年代に実業家瀧澤喜平治が建設。1998年、「鐵竹堂」と洋風の望楼を持つ「蔵座敷」、豪壮な構えの「長屋門」の3棟が県指定文化財になった。100年以上たった今でも当時の状態のまま保存されている。

 中でも「鐵竹堂」は1892年、陸軍大演習の際、明治天皇の小休所となったことで知られる。L字型に4部屋を配置し、東側玄関前に車よせが張り出すつくりになっている。主室の八畳間は「天皇の間」とされ、畳は当時から変えていないという。(下野新聞HPより抜粋)


〈鎮守八幡宮〉

〈この辺りの街道沿いには立派な家が多い〉

〈狭間田一里塚 日本橋より32番目の一里塚〉

〈日本三大美肌の湯 喜連川温泉とある〉

〈国道293号線を外れて左のセブンハンドレッドクラブ方面へ〉

〈日帰り温泉 早乙女温泉があるらしいがまだ歩き始めたばかり〉

〈二十三夜供養塔〉
 
〈早乙女坂古戦場の案内板があったのでさっそく立ち寄ってみる〉

〈天文18年(1549)那須氏、喜連川塩谷氏500余騎と・・・〉

〈宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で〉

〈激戦の末宇都宮軍は喜連川連合の鮎瀬弥五郎実光に背後から・・・〉

〈大将の尚綱が射たれ退散したといわれています〉
早乙女坂古戦場の跡

 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、 戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、 早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、 北部支配への橋頭ほ(堡)を確保する上で最も重要な課題であった。

このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文18年(1549)の戦いは、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。

弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。

今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養等が建ち、古戦場の跡を示している。

〈早乙女温泉があったがまだ朝の10時〉

〈おっ 手つかずの旧道を発見 早速足を踏み入れる〉

〈これは江戸時代に参勤交代で通った道そのものだろう〉
 
〈高塩背山の墓入口とあったが知らなかった人 昭和31年没の歌人で若山牧水とも交友があったという〉

〈手つかずの奥州道中もおしまい 民家が見えてきた〉
 
〈下ってきた奥州道中を振り返る〉
 
〈奥州道中には中山道のような道祖神はないが文字を刻んだ石碑が多い〉
 
〈奥州道中はこの先の橋を渡る 橋のたもとに道標が 右江戸道 左下妻道〉
喜連川宿
 
〈喜連川は温泉が豊富でJR東日本の温泉付き分譲地「びゅうフォレスト喜連川」がある 8割がた売れているみたいだが住む気にはなれない〉
 
〈街の駅「本陣」に軽食喫茶「蔵ヶ崎」があったのでコーヒーでもと思ったが朝早すぎて開いていない この建物は大正15年建築の喜連川警察署で貴重な建物だそうだ〉

〈喜連川スカイタワー 2011年3月11日の東日本大震災での損傷が激しく営業中止中 このまま廃止の公算大だそうだ〉

〈内川にかかる金龍橋を渡る〉

〈温泉ナス団地という案内板が〉
 
〈田町公民館の脇に金雞山という神社があったので一休み 珍しく道祖神があったが最近作ったもののようだ〉
 
〈明治天皇御小休止之際御膳水の石碑の横にあまり古くなさそうな道祖神〉

〈街道沿いに大量の赤いけしの花 ♪赤く咲くのはけしの花~白く咲くのは百合の花~ と死んじゃった藤圭子が歌っていた〉
 
〈映画のぽっぽやでは志村けんが♪赤く咲くのは赤い花~ 白く咲くのは白い花~と酔っぱらって歌っていた 公園ではお年寄りがゲートボールの練習中〉
大田原宿

 『手にすくう水もなし』と詠われた荒れ地那須野ヶ原の中にあって扇端湧水地帯付近に位置し比較的水の便に恵まれていた大田原市は奥州街道の宿場町として繁栄したが、戦国時代より続いた大田原氏の居城・大田原城の城下町でもあった。そのため、旧市街地には城下町時代の往時を偲ばせる敵の来襲に備えた狭い道、鍵型に曲がった道などの面影が随所に残り、古くから栃木県北地域の政治経済文化の中心的役割を担ってきた。

ということなのだが、弥次さんにとって大田原といえば、今から18年くらい前にゴルフコンペに向かう途中、買って4か月半、3,500kmしか走っていない新車をぶつけられて廃車にしたネガティブな思い出の地なのであった。

双方とも廃車になったほどのぶつかりようであったが、大事に至らなかったのは不幸中の幸いであった。

〈大田原市に入った〉

〈与一の里銘木選 高久宅のツツジ群 推定樹齢200年とある)

〈佐久山温泉 きみのゆを発見〉

〈体中汗でべたべた 温泉に入ってゆこう〉

〈この辺りの法事や宴会などを一手に引き受けているのだろう〉

〈入浴料は520円 安い 100%厳選かけ流しの湯で最高〉

〈生ビールが最高にうまい かつ丼で満腹になって1時間ほど昼寝〉

〈あ~最高の温泉だった この暑いのにサウナにも入ってさっぱり 二十三夜塔〉

〈豊道春海翁生誕の地の大きな碑が 有名な書家らしい〉

〈旧奥州道中 佐久山宿 下町の碑〉
   

〈大田原は那須与一のゆかりの地らしい〉
   
 
〈川越山 無量寿院 正浄寺 箒川を渡る〉
   

〈古そうな馬頭観世音碑〉
 
〈那須与一の墓→とあるが・・・〉
   
 
〈蒲廬(ホロ)碑〉 
   
蒲廬(ホロ)碑

文化9年(1812)10月、那須野に一隊の兵士が刀を荷い槍をうち立て行進する蜃気楼が現れた。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚僧が目撃し、その光景を記した。それが蒲盧碑原文である。のちに石に刻んで建立したのが碑である。

土地の者は蜃気楼のことを「ホロ」と呼んでいた。当時親園地区は八木沢村と呼ばれ、代官・山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていた。山口鉄五郎は水路を開削し新田を開発するなど農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。

人見伝蔵の著「那須野蜃気楼 蒲廬碑考」の中では、中国の書「中庸」の中には「政治は蒲や盧のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲盧に結び付けたものとしている。

 
〈この辺りでは蜃気楼のことをホロと呼んでいた〉
 
〈りっぱな国井家と町初碑 表面に「此町初寛永四卯年」とある〉
   

〈寛永四年の与左衛門さんの石碑に子孫の謹一さんが解説板を立てたのだろう〉
 
〈馬頭観世音碑〉
   
二日目の今日も暑かった。

 宇都宮では32℃だったらしい。

しかし、今日の道中には佐久山温泉「きみのゆ」があった。源泉かけ流しの湯にたっぷりつかり、サウナでさらに汗を流し、休憩所で生ビールを飲みほし、かつ丼でおなかをいっぱいにした後1時間ほどゆっくり昼寝をした。

地元のじじばばにとって、この温泉は昼寝をしに来るところらしく、全員が休憩所でタオルを顔にかけて昼寝をしている。

今日は奥州道中を一気に歩く四日間の中でも一番距離が長く28kmだ。しかも途中で休憩したところに地図を忘れてきて数百メートル戻ったりもした。佐久間温泉「きみのゆ」ありがとう。
 
〈本日の宿 那須プラザホテルに到着〉
   
   
   
   INDEX
   
inserted by FC2 system