〈二日目〉 平成24年5月4日 金曜日(みどりの日) 曇りのち雨 千住宿〜草加宿
4か月ぶりの日光道中

 5月3日と4日で甲州道中の残り37kmを完歩するつもりで、ひと月以上前から計画を練っていたのだが、4月30日現在の天気予報では3日の予報は雨の確率が90%になっている。さすがに土砂降りの雨の中を歩くのはつらいので、泣く泣く上諏訪のホテルをキャンセルした。

でもこの決断は大正解だった。3日は関東地方から東北・北海道にかけて、5月では観測史上最大の雨量を記録したところもあるそうだ。東北の被災地の皆さんの仮設住宅にも川の増水や土砂崩れが押し寄せ、かわいそうなことになっている。


しかし、せっかくの連休だというのにどこも歩かないのはつまらないので、1月に歩いたきりの日光道中を、前回の続きの北千住宿から草加宿まで歩くことにする。

〈北千住駅近くの日光道中〉
千住宿は日光道中の最初の宿場で、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿にちょうど匹敵する日本橋から二里(8km)程度の距離にある。

旅人にとって宿泊するには近すぎて、宿場と言っても遠くへ旅立つ旅人を見送りに来た人が羽を伸ばすところだったらしい。また、そのような理由がなくともわざわざ遊びに来る人もたくさんいたのだろう。

右の案内板にも「千住見番跡」として、以下のような説明がある。

江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅籠が50軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年まで営業していたといいます。

娯楽の少なかった昔は、そのような男どもがせっせと通っていたのだろう。

〈千住本陣跡とその周辺の説明板〉
お休み処「千住 街の駅」

お休み処「千住 街の駅」というところがあったので、さっそく入って千住の案内パンフをもらう。

ここは元魚屋さんの店舗を利用しているそうなのだが、若い娘さんが二人暇そうにしていた。

お茶もいただけるそうだが、まだ歩き始めたばかりで休むには早すぎるから、休まず続きを歩くことにする。

〈お休み処「千住 街の駅」
 
〈千住宿 宿場通り 江戸時代も同じ道幅だったのだろう 右:高札場跡由来〉

〈商店のシャッターには江戸時代を彷彿とさせる絵が〉

〈商店街で示し合わせて描いているのだろう〉

〈しかし連休だというのにこんなにシャッターがおりていていいの〉

〈歩道にはこのようなタイルが〉
 
〈横山家住宅 江戸時代後期建築 上野の戦いで敗走する彰義隊が切りつけた刀傷が残っているそうだ〉

〈北へ旧日光道中 ということはそんなに古いものでもない〉

〈北へ 旧下妻道〉
 
〈千住 名倉医院〉
千住 名倉医院

 名倉医院は江戸時代以来、骨接ぎと言えば名倉、名倉と言えば骨接ぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関であった。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便が良かったので駕籠や車で運ばれてくる骨折患者がひしめいていたという。門前の広場はこれらの駕籠や大八車などのたまり場であった。
 名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年間(1716〜36)頃千住に移り、明和年間(1764〜72)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
 現在、江戸時代中期から昭和中期まで盛業時の建物が保存されている。昭和59年足立区登録記念物(史跡)となった。
 かつて名倉医院の周辺には、患者が宿泊して治療できる、金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療にあたる医師および接骨師を兼ねていた。


平成23年3月 足立区教育委員会

〈名倉医院のりっぱな蔵〉
 
〈千住新橋を渡る 河川敷にはこいのぼりが泳ぐ〉
 
〈荒川土手は3年B組金八先生のロケ地なのだそうだが見ていないので知らない 振り返ると北千住駅丸井の向こうにスカイツリーが〉

〈高級味付 いなり寿司専門 藤寿司 食べてみたかった〉

〈石不動尊〉
いなり寿司専門店

 関東で「いなりずし専門店」というのはかなり珍しいのではないだろうか。東京近辺では握りずしが一番の御馳走と思っている人が多い
うちの息子などもそうで、たまにお土産に買って帰ると、握りずしは別腹と言ってうまそうに食べている。

 岩国の家では、すしと言えば「岩国ずし」か、「いなりずし」か、関東では太巻きと言っている「巻きずし」か、僕は好きではなかったが、鮗やアユを丸ごと酢漬けにし、お腹に酢飯を詰めた「魚ずし」しかなかった。


そのせいなのかどうなのか、ぼくは今でも生の魚がそのまま乗っている握りずしがあまり好きではない。いなりずしや巻きずしが好物なのだ。安上がりだね。

〈東武線梅島駅前の旧日光道中〉

〈将軍家御成橋 御成道松並木跡 それこそ跡形もない〉

〈となりの中嶋書道塾ではこれでもかと褒めまくり〉
 
〈鷲(わし)神社 往古入り江の景勝地なり 伝えて申すに諸神舟にて上陸したるところなりとある〉
六月

 鷲神社の少し先に「六月二丁目」という交差点が見えてきた。文学部出身の弥次喜多としては、少しは学のあるところを見せねばと、あれは六月だけど「ミナツキ」と読むんだろうね・・・と近づいてみたら、そのまま「ロクガツ」と読むのであった。

それにしても五月も七月もないのにどうしていきなり六月なのか。と疑問に思い調べたら、珍しい地名ではあるが、由来は明らかではない。伝説には源義家が当地の土豪と苦戦の末に辛勝したのが酷暑の六月であったからという(旧暦の六月は炎暑の候である)。・・・ということでモヤモヤは収まらないのであった。

〈六月という地名〉

〈民家の軒先にシャクナゲの花が〉

〈このあたりは風情も何もない 竹の塚の日光道中〉

〈おおここにも名倉を冠した接骨院が〉

〈浅間神社〉

〈草加せんべい いけだ屋〉

〈小宮のせんべい〉
草加せんべい

 さすがにこの辺りは「草加せんべい」の本場だからせんべい屋さんが多い。
『草加は昔から米どころと言われ多くの米がとれたことから、農家の人たちは余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていました。江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになりました。このころから保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まっていったと考えられています。当初は生地に塩を練りこんだものでしたが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになりました。明治後半になると煎餅屋が増えていきますが、当時はお煎餅屋としてではなく、雑貨などの商売の片手間に行われていました。大正時代以降、煎餅の認知度は高くなります。そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品として天皇に献上されたことにあります。これが「天皇家が召し上がったおいしい草加の煎餅=草加せんべい」として名称が広がっていきました。このころから煎餅づくりは地場産業として発達していきました。』(草加市役所HP)ということのようです。

〈甚平せんべい本舗〉

〈魚の尾びれのようなものがあるけど・・・〉

〈近づいてみると今時珍しい鳩舎だった〉

〈今様草加宿〉

〈草加市役所と地蔵堂〉
 約10kmの日光道中も、今日のところはこれでおしまい。

実は、一昨日あたりからめずらしく風邪をひいて調子もあまりよくなかったのだが、およそ2万歩近くを歩いたらすっかり調子を取り戻した。

この後は、草加駅の向かいのビルにあるレストラン街で中華料理屋さんに入り、生ビールで渇いたのどを一気にうるおして、五目焼きそばと餃子で満腹に。


しかし、甲州道中の踏破は今度いつにしようか悩みどころだ。6月2日はコンサートだし、9日〜10日は母の米寿の祝いで山口県周防大島の「サザンセト」というホテルに兄弟が集合することになっている。

我が家も実に久しぶりに家族全員で帰省することになるが、今回のように悪天候で飛行機が欠航することだけはやめてほしいね。広島空港からレンタカーを借りて尾道で尾道ラーメンを食べて、しまなみ海道で愛媛県にわたり、三津浜港からフェリーで大島にわたる計画なのだ。

〈趣のある吉田家〉
inserted by FC2 system