日光道中〈1日目〉 平成24年1月7日 土曜日 晴れ 日本橋〜北千住宿

〈2010年ケルヒャージャパンのクリーニングできれいになった日本橋〉

〈4度目の日本橋を日光に向けてスタート〉

〈東野圭吾の「麒麟の翼」で一躍有名に 写真を撮っている人がたくさん〉
日光道中もやはり日本橋からスタート

 甲州道中をあと2日分残しているが、冬の山梨県から長野県にかけては氷点下の予報が出ている。

冬の間に歩けるところをやっつけておいて、甲州道中は少し暖かくなってから残りの30数kmを歩くことにする。

この3連休は天気もよさそうなので、日光道中の弥次喜多道中をスタートさせることにした。

日光道中もやはり日本橋からスタートだ。

〈五街道の起点だからここから羽ばたくという意味を込めたそうだ〉

〈里程標 宇都宮市はわずか107kmだ〉

〈日光道中は東海道・中山道に比べれば楽勝の距離〉

〈築地に移転する前の魚市場は日本橋にあった 一心太助も活躍〉
 
〈中山道方向へスタート 天下の三越 今は三越伊勢丹となったがたいそうな造りだ〉
 
〈三越の象徴は今も昔もライオンだが百貨店の力に往時の面影はない〉
 日本橋室町3丁目南交差点を右折して本町通りに入る。旧道歩きをしてきた弥次喜多道中には、何とも物足りないなんということもない道路だ。道の両側には第一三共製薬、田辺三菱製薬、帝国製薬、アステラス製薬などの大手製薬会社が立ち並ぶ。

江戸時代には薬問屋が並んでいたのだろう。東京の面白いところは、江戸時代からの地域の特性が今もそのまま続いているところだ。この先の馬喰町は繊維関係の街だし、浅草橋は人形店の街だし、浅草は靴・履物の店が多い。

〈旧日光道中 本町通りは昭和通りで分断されている〉

〈江戸時代から続く小津和紙店の前庭にはこうぞやミツマタが植えてある〉

〈旧日光街道本通り碑〉
小伝馬町と吉田松陰

 小伝馬町と言えば牢屋敷であるが、江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する留置所に近い性質を持った施設であった。

常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間(1573〜1592)で、それが慶長年間(1596〜1615)に小伝馬町に移って来たようである。小伝馬町の牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。

高野長英や吉田松陰らも収容されており、吉田松陰はこの小伝馬町で処刑され、遺骸はこの後訪れる南千住の回向院に埋葬された。文久3年(1863)に高杉晋作らが世田谷の若林に改葬し、今は松陰神社となっている。このことについての経緯は司馬遼太郎の「世に棲む日々」に詳しい。


〈小伝馬町交差点〉

〈地下鉄小伝馬町駅を出たところにある史跡碑〉

〈身延別院〉

〈十思公園「時の鐘」処刑時の合図の鐘だったそうだ〉

〈小伝馬町牢屋敷跡 吉田松陰はここで処刑された〉
 十思公園には、牢屋敷跡、処刑場跡、吉田松陰終焉の地碑などがあるが、このような場所は陰鬱としていやだね。

ただ歴史と歩く・・・ということになると、このような場所を抜きにしては語れない。歴史を訪ねるということは、墓を訪ねる旅でもあるのだ。人はいつか死ぬ。どのような死に方をするかの違いはあるが、霊魂がこの世に残るということは人の想像の産物だ。

人に限らず、生きとし生けるものはすべて死んだら無になるのだと思っている。そうはいっても、このような牢獄で苦痛の末に殺されるのは絶対にごめんだ。吉田松陰も、現代から見れば何も悪いことをしていないのに・・・そのような時代だったということだ。

高野山真言宗大安楽寺は、明治15年牢屋敷跡や処刑場跡で買い手のつかないこの土地を当時の大富豪大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して創建されたのだそうだ。

〈大安楽寺 誰も住みたくない牢屋敷跡に建てられた〉

〈延命地蔵尊 ここで処刑された人を弔うため建立された〉

〈馬喰町は繊維・衣料会社が集中している〉

〈浅草橋交差点からスカイツリーが見えた〉
郡代屋敷跡

江戸時代に、主として関東の幕府直轄地の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。
伊奈忠尊が罪を得て失脚した寛政四年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。
文化三年(1806)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
平成六年三月 中央区教育委員会


〈郡代屋敷跡 今は交番になっている〉

〈神田川の両岸には屋形船がたくさん停泊 泥の河に出てくるような船がゆく〉
浅草橋

 浅草橋は人形店の老舗が集まる街だ。

「人形は顔が命」の吉徳は、創業300年の日本を代表する人形の店だし、右手に見えている秀月や久月は、吉徳ほどの歴史はないようだが、それぞれ大きな店を構えている。

我が家でも、娘のために7段飾りを買ったがまともに飾ったのは何回あるだろう。いつの間にか部屋に家具が増えて人形を飾るスペースはなくなってしまった。押入れの奥深くしまわれたまま20年近く経ってしまっている。

〈吉徳・秀月・久月のビルが立ち並ぶ〉

〈創業210年 駒形どぜう〉

〈喜多さんはどぜうを食べたがったが苦手なのでパス〉

〈駒形橋西詰からスカイツリーを望む 左手にはアサヒビールの本社が〉
浅草寺

 推古天皇36年(628)檜前浜成・竹成
(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦に漁撈中、一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(はじのなかとも)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し自宅を改めて寺となし礼拝供養に生涯を捧げた。
 大化元年(645)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し夢告によりご本尊をご秘仏と定められた。
 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には慈覚大師円仁さま(794〜864、比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。
(HPより抜粋)

〈雷門前は参拝客であふれかえっている〉
 
〈雷門前から見るスカイツリー〉
 
〈仲見世通りは参拝客でいっぱい〉

〈雷門橋西から見るスカイツリー〉

〈待乳山聖天(まつちやましょうでん)も参拝客でいっぱい〉

〈そばには池波正太郎生誕の地碑が〉

〈ボンネットバス〉

〈山谷の泪橋 明日のジョーだ〉
小塚原回向院

 荒川区と台東区の境あたりは「山谷」と呼ばれるドヤ街だ。やたら安い簡易宿泊所がたくさんある。昼間からおやじたちが酒を飲んでいるような街だ。

南千住駅を越えてすぐ左手に延命寺があるが、ここは小塚原刑場跡だ。東海道の鈴ヶ森もそうであったが、あまり長くはいたくない場所だ。

回向院は、小伝馬町で処刑された吉田松陰を埋葬した場所で、ほかにも橋本左内や変わったところでは、鼠小僧、高橋お伝、腕の喜三郎などの墓がある。

〈小塚原回向院〉
解体新書

 明和8年(1771)3月4日に、杉田玄白・前野了以・中川淳庵等がここへ腑分けを見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語のターヘル・アナトミアを持ってきてその図を実物とひきくらべ、その正確なのに驚いた。

その帰り道3人は発奮してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心の末、ついに安永3年(1774)8月に、『解体新書』5巻をつくりあげた。

これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学が盛んになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。・・・ということで、刑死した人も日本の医学の進歩に大いに役立ったのだった。


〈小塚原刑場跡〉

〈蘭学を生んだ解体の記念に〉
小塚原刑場跡

 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)あたりから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)奥行き30間(約54m)あまり、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが、周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。

 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行き倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の死んだ馬の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。

〈橋本左内の墓 安政の大獄で小塚原で斬首となった〉
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘル・アナトミア」の翻訳に着手し、「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。

回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。


平成20年30月 荒川区教育委員会

〈同じく安政の大獄で斬首となった吉田松陰の墓〉
吉展ちゃん事件

 1963年3月31日、東京台東区入谷町の村越吉展ちゃん(4つ)が自宅前の公園に遊びに行ったまま行方不明となった。まもなく村越家に数度に渡る身代金要求の電話が入る。4月7日、犯人指定の「品川自動車」に母親(当時28歳)が身代金50万円を持っていくが、吉展ちゃんは戻らず、身代金だけが奪われた。
 65年、迷宮入りかに見えたこの事件の捜査に平塚八兵衛らが投入される。以前から容疑者の一人だった元時計職人・小原保(当時30歳)のアリバイ崩しに成功し、自供させた。それによると吉展ちゃんはすでに殺害されていたことが判明、荒川区にある円通寺墓地にて遺体が発見された。


ぼくが小学2年生のころの事件で、テレビで連日報道されていたのを覚えている。
犯人の小原保は、1971年12月23日死刑執行された。

〈吉展地蔵尊〉

〈鼠小僧の墓〉

〈右:腕の喜三郎 左:高橋お伝の墓〉
 
〈スサノオ神社は参拝せずに通り過ぎる〉
 
〈昔はただ大橋と呼ばれたという千住大橋〉
芭蕉 奥のほそ道旅立ちの地

 深川を出立した芭蕉と曽良は、この地で船をおり日光道中を北に向かった。

千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそヽく

この公園に設置してある「おくのほそ道行程図」によると、元禄2年(1689)3月27日、この地を出立した芭蕉は、翌28日間々田に到着、29日には鹿沼、4月1日には日光に到着したことになっているが、間々田は上野から約70kmもある。何かの間違いだろう。それにしても150日間で平泉・立石寺を経て新潟・金沢をめぐり大垣までを歩きとおしている。全行程は600里余りだという。しかも名句を残しながら。

夏草やつわものどもが夢のあと

〈奥の細道 矢立初めの地碑〉
 
〈よく歩いたね 五街道が終わったら跡をたどってみたいね〉

〈北斎 富嶽三十六景 武州千住〉

〈日本大橋盡(つくし)岩国錦帯橋が西の大関〉
芭蕉旅立ちの像

 この場所で芭蕉は矢立初めをしたということだから、芭蕉の像は筆を持ち紀行文を書き込んでいるところだ。歩きながら書いたとも思えないが、何か名文が頭に浮かび、まさに最初の一文字を書こうとしているところだろう。

この先は、やっと国道4号線から外れ旧道らしい細い道を歩くことになる。

〈日本橋から7km〉
 
〈芭蕉矢立の像 ひだり草加 みぎ日本橋〉
やっちゃ場

 やっちゃ場は多くの問屋のせり声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所からきたと言われている。古くは戦国のころより旧陸羽海道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。
 街道の両側に30数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響き渡り江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和16年末に第二次世界大戦勃発により閉鎖となり、以来青果物市場は東京都青果物市場へと変わって行き、やっちゃ場という言葉のみが残った。
 五街道奥州街道・日光道中の両側に30数件の青物問屋がも気を並べている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった、と言ってもよいだろう。
(説明版より)

〈此処は元やっちゃ場南詰〉

〈昔はかくやあらんといった青物問屋の屋号が〉

〈旧日光道中道標〉

〈一里塚碑 日本橋から二里〉

〈千住宿 問屋場跡碑〉

〈旧日光道中 千住宿らしい喧噪〉

〈北千住駅 本日はここで終了〉
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