〈十二日目〉 平成26年3月28日 金曜日 晴れ 日光道中最終日
最後の日光道中

 平成24年年1月7日に日本橋から北千住宿までを歩いて以来、2年3か月もの月日が流れた。

その間に並行して甲州道中を踏破しているのだが、高々140km程度の日光道中にしてはかかりすぎだ。

東海道五十三次、およそ495kmを1年1か月で踏破したことを思えば、明らかに街道に出かける頻度が減っていると言ってよいだろう。

いつまでもこのままにしておくわけにもいかないので、天気の良い日を選んで、喜多さんと最後の日光道中を歩く旅に出かけた。


青春18切符が使えるので、例によってグリーン車をおごることにする。
 
〈再び今市駅より歩き始める〉
 
〈前回は写真に撮らなかった日光例幣使街道の杉並木 中山道倉賀野宿からの例幣使街道は今市宿で日光道中に合流する〉
 
〈左の杉並木が日光道中 右が日光例幣使街道 合流地に追分地蔵がある〉
 
〈渡辺佐平商店 清開 杉玉がまだ新しい 工場見学できると書いてあった〉
二度目の今市宿

 前回一人でJR日光駅まで歩いたので、本当は神橋までの約1kmを歩けば完歩ということになるのだが、最後くらいは弥次喜多そろって歩き終えたい。
ということで、前回も歩いた今市宿から今度は二人で同じ道を歩くことにする。

喜多さんが杉並木を一度も歩かないのでは、日本橋からほとんど国道沿いを歩いてきた甲斐がないというものだ。


今市駅に12時過ぎに降り立った弥次喜多道中は、まず日光例幣使街道の杉並木を少し散策してから、日光道中杉並木を歩き始める。

〈おいしいいまいちの水〉
 
〈杉並木保存地区の入り口には昼休みで寝転んでいる運転手がたくさん〉

〈朝鮮通信使今市客館跡〉

〈この場所に朝鮮通信使の宿泊施設があった〉

〈杉並木公園〉
 
〈瀬川の一里塚あたりで一里塚を探す一人旅に声をかけられた〉
瀬川の七本杉伐採痕

 七本の杉の根幹が密着し一株になった。

明治35年(1902)の大暴風雨、大正3年(1914)の大風で損壊し、残りの五本も老朽化して昭和43年(1968)に切り倒されてしまったという。

それにしても大きい。

〈瀬川の七本杉伐採痕 でかい〉

〈日光道中杉並木をゆく〉

〈砲弾打込杉〉

〈戦場となった杉並木〉
杉のオーナー

 杉並木を大木を眺めながら歩いていくと、大木にはそれぞれ企業や個人のネームプレートが、ばねのワイヤーで表示してある。

有名企業や大学などが多いが、夫婦での名前もかなりある。

どのくらい出せばオーナーになれるのかと思って歩いていたら、説明板があった。

なんと1本1,000万円なのだそうだ。
栃木県はその運用益で杉並木の維持運営を行い、希望すればいつでも同額で県が買い取ると書いてあったが、それにしても1,000万円はちと荷が重い。

〈大木の杉にはそれぞれにオーナーのプレートが〉

〈薬師堂の石の釣鐘〉

〈半跏思惟像がずらりと並ぶ〉
 
〈明治天皇御小休所 もうすぐ日光駅〉
 
〈東武日光駅 東武線の運賃はJRより全然安い〉

〈古い建物のみやげ物屋さんがたくさん〉

〈日光彫りの店〉

〈板垣退助像 東照宮などが消失するのを恐れ東照宮に陣を張る大鳥圭介、土方歳三、旧幕臣などを説得し戦火から救ったという〉
 
〈天海大僧正 久能山から家康の遺骨を移し東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人 とある〉
   
 
〈ついにゴール 神橋に到着〉
 
〈一応日光道中踏破記念に一枚 これで五街道のうち四街道を制覇〉
やっとゴール

 この神橋の先におなじみの日光東照宮や二荒山神社や輪王寺などの広大な神社・仏閣があるわけだが、
これらは何度も訪れているので、今日はこれで終了。またJR日光駅までの1km強を歩いて帰る。

途中に湯葉を製造販売している店があったので、生湯葉を買って帰ることにする。
帰ってからさっそく刺身で食べてみたが、非常においしかった。

次回からは、五街道最後の「奥州道中」に向かうか、それとも「日光例幣使街道」か「北陸街道」か悩むところであるが、
足が動かなくなるまで歩き続けたいと思う弥次さんであった。
   
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奥州道中へ
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