〈五日目〉 平成20年5月6日 火曜日 晴れ 鴻巣宿〜熊谷宿 | |
【第7次 鴻巣宿続き】 | |
中山道5日目 鴻巣宿から 今日は一人で、前回歩き終えた北鴻巣から歩き始める。前回、駅を目の前にして線路を渡れず大きく迂回した道を、もとの中山道に復帰した。 しかし、この中山道は東海道を歩いた弥次さんにとっては、歴史を語る薀蓄が披露できなくてつまらない。 あるのはこのようにやたら新しい道標のみだ。 |
〈新しい道標はあるが史跡は見当たらない〉 |
〈中山道は単調〉 |
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〈手書きの道標〉 |
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単調ながらも、中山道を歩いている人が多いのだろう。ちょっと複雑に道を曲がる箇所には、このように地元の人が書いてくれたのだろう、手書きの標識がありがたい。 素直に矢印に従って中山道を進む。 このあたりの道標や、案内はやたら新しい。最近の街道歩きブームに役所もやっと腰を上げたというところだろうか。 |
〈新しい道標と案内〉 |
前に弥次さんより一回り世代が上と思われる、女性の二人連れが歩いていたが、さっさと追い抜いてしまう。 中山道の見どころはいったい何なのか。今のところ、東海道のような感動も感激も充実感も何もない。 しかし、中山道も東海道のように踏破すると宣言したからには、ズルをするわけにはいかないのだ。 |
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〈久下の権八地蔵〉 |
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〈地元の人のやさしい気遣い〉 |
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久下の権八地蔵 地元の人のありがたい手書きの道案内に従って「久下の権八地蔵」を左に折れると荒川土手に上がる。 歌舞伎でおなじみの白井権八はここで人を殺し金を奪うが、このお地蔵さんに「このことは他言するなよ」と話しかけた。 すると地蔵は「われは言わぬが、おぬしも言うなよ」と言ったというところからこのお地蔵さんは「物言い地蔵」と呼ばれているそうだ。 〈中山道を歩く〉 |
〈荒川堤に上がる坂道〉 |
〈荒川堤〉 |
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荒川堤に上がると、視界が一気にひらけた。 何とも気持ちのよい景色がひろがる。 一面の草原と、はるかかなたに山脈が見える。 もう少し空気が澄んでいれば富士山も見えるだろう。 葦の中でさえずっているのはヨシキリだろうか。 うるさいほどの小鳥の声が聞こえる。 |
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〈はじめて中山道らしい自然に出会う〉 |
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〈もう少し空気が澄んでいれば富士山も見えそう〉 |
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〈気持ちの良い土手沿いの道を熊谷宿に向かう〉 |
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海まで73.0km 海まで73.0kmという標識があった。 東海道ではお目にかかれない標識だ。 さすがに山の道「中山道」。 海まで73kmというのは、弥次さんの田舎の山口県ではどこにもない距離だ。 さすがに関東平野は広い。 |
〈海まで73.0km〉 |
荒川 荒川の橋げたの下で、トランペットの練習をしている。何とものんびりとした時間が過ぎてゆく。 中山道も捨てたものじゃない・・・と、先日までの埼玉を非難していたことは完全に忘れている。 この辺りの中山道は荒川に沿って歩くが、荒川は流路延長173km、流域面積2,940平方km、川幅は御成橋(埼玉県鴻巣・吉見町)付近で2,537mになり、日本最大なのだそうだ。 |
〈荒川の上流は秩父の長瀞〉 |
〈久下の渡し 冠水橋跡碑 ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋があった〉 |
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〈熊谷駅前〉 |
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【第8次 熊谷宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠19軒 家数107軒 熊谷次郎直実の出身地】 | |
〈岐阻街道 熊谷宿 八丁堤ノ景 英泉画〉 |
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熊谷宿にはいった。 この熊谷宿は、平家物語で有名な熊谷次郎直実の出身地で、高城神社は熊谷氏の氏神であり 平安時代から続く古社だそうだ。 境内には大木もある。いつもと同じに道中の安全を祈願して神社を後にする。 |
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〈高城神社〉 |
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〈熊谷寺〉 |
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熊谷次郎直実 熊谷直実の墓があるという熊谷寺(ゆうこくじ)にも立ち寄ってみたが、バリケードで中に入れない。 こんな寺は始めて見た。何があったというのだろう、人の気配もまったくない。借金のかたにとられて しまったのだろうか。頼むよ、埼玉県。 たまに歴史を語る史跡があったと思ったら、バリケードで中に入れない。埼玉県、嫌いになっちゃうよ。 と、ここまで書いてHPで調べたら、この熊谷寺は日曜日だけ開けているのだそうだ。何で土曜日にわ ざわざ横浜から来たのに中に入れてくれないワケ?と、ガキみたいにむくれるのであった。 それでも、熊谷次郎直実についてひと薀蓄。 熊谷次郎直実は、一ノ谷の戦いで騎馬で海上の船に逃げようとした平敦盛を、「敵に後ろを見せるのは 卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落と した。首を斬ろうとカブトを上げると、直実は我が子と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。 直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って 人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。 (覚一本『平家物語』「敦盛最期」より) この事から、直実の出家の志が一段と強くなったといい、後に出家して蓮生と名乗った。2006年には、 この熊谷寺で蓮生上人800年忌が催されたという。 ちなみに織田信長の好んだ歌 |
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〈美しい麦畑が延々と続く〉 |
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〈東京から70km、高崎まで40km〉 |
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ともあれ日本橋から70kmを歩いてきた。広大な麦畑が美しい。 | |
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