〈四日目〉 平成20年4月26日 土曜日 曇りのち小雨 桶川宿〜鴻巣宿
【第6次 桶川宿 本陣1軒 脇本陣2軒 旅籠36軒 紅花の集散地として栄えた】

〈岐阻街道 桶川宿曠原之景 英泉画〉 
中山道4日目 桶川宿


 江戸から6番目の宿「桶川宿」からのスタートだ。

この桶川は、かつては紅花の産地でそのほとんどがこの中山道を通って京都に運ばれたという。

しかし、今は街道沿いにそれを味わえるものは、ほとんど何も残っていないようだ。

〈中山道 桶川宿道標〉

〈今も人が住んでいるみたいな風格のある家〉
   

〈材木屋さんとコーヒー店〉

〈中山道宿場館〉

 それでも古い建物を見ながら北西に進む。

材木屋さんの棟続きに渋そうなコーヒー店があったので、ちょっと寄ってみようかと思ったが、まだ歩き始めて間もないのでパスすることにする。

テレビ番組と違って、見どころに寄る判断が難しい。店が主体ではなく、街道を歩くのが主体だから、あんまりのんびりしていると本日の終着予定まで歩けなくなってしまうからだ。
 弥次さんは、東海道で薀蓄をたれたように日本史が好きだ。しかし、今のところ薀蓄を語れるような史跡がない。

皇女和宮が江戸に下るとき、この桶川宿に宿泊されたようだが、弥次さんの勉強不足かそれらしい史跡も見当たらない。


街道を少し離れて探せば、史跡も残っているし、見どころもあるのかもしれない。
間の宿 北本宿

そうこうするうちに北本市に入った。

さいたま市は結構通り過ぎるのに時間がかかったが、上尾市、桶川市、北本市と少し歩けばすぐに次の市に入ってしまう。

道の左手に何か史跡らしきものが見えたので、信号が変わるのを待って見に行ってみることにする。

〈何か史跡らしきものが・・・〉
 行ってみれば、このあたりの昔の写真が紹介してあり、となりには新しい中山道の碑がある。しかもその碑には北本宿とある。桶川宿の次は鴻巣宿ではなかったのか。どうもこの北本は、正式な宿ではないが東海道の岩淵のように、間の宿(あいのしゅく)であったようだ。

中山道には東海道のように幕末の志士はでてこないのか、義経は出てこないのか、家康は出てこないのか。方角からいっても平将門や足利尊氏や新田義貞などは出てきてもよさそうな気がする。

頼むよ、ほんとに、中山道。
少しは楽しませてくれ!!!

〈もしかして空襲で古いものは燃えてしまったのか〉
多聞寺のムクロジ

 北本駅の近くに「多聞寺」という寺があり、ここには「ムクロジ」の大木があるという。

ムクロジとは弥次さんは始めて聞く木の名前であるが、行って見ると木の下にたくさんのムクロジの実が落ちていた。


喜多さんはいくつか拾ってもって帰るのだという。

〈多聞寺〉
 何とこのムクロジの実は、その昔正月にはかかせなかった羽根つきの羽根に使われていた、あの黒い硬い丸い球だった。この実に羽根をつけて羽根つきの羽根にしていたとは、今回この多聞寺でこの実を見なければ一生知らないままだっただろう。

今の子どもは羽根付きなど見たこともしたこともないだろうが、弥次さんの子どものころには正月といえば、男の子は凧揚げかこま回し。女の子は羽根つきか双六かカルタに決まっていた。

〈ムクロジの大木〉
 だから、弥次さん世代が本物の羽根つきの羽根に付いていた固くて丸い実を知っている最後の世代だろう。さすがに喜多さんの平塚のお母さんにこの話をすると知っていた。昔は、自分で羽根つきの羽根を作ったりしたのだろうか。

ムクロジの実は、まるで塩ビのようにきれいな半透明の外殻の中に、いきなり黒くて固い実がある。銀杏のようにタネの周りに果肉はない。いさぎよく外殻とタネだけだ。

喜多さんは持ち帰って庭に植えるのだといっていたが、果たして芽が出るであろうか。

〈ムクロジの実〉
トマト大福


 このあたりは、トマトの産地らしく「トマト大福」ののれんのある和菓子屋さんがあった。
ちょっと食べて見たい気もしたが、味を想像してやめた。


イチゴ大福と違って、全国で普及していないところを見ると、あまり需要はなかったのだろう。

〈トマト大福ののれんが〉
 こうして歩いてみると、このあたりの埼玉県の人には申し訳ないが「文化」がない。

文化とは何か。新しいビルを建てることなどではない。古い伝統をちゃんと守っていくことが文化だと思う。埼玉県でも川越などは、古い伝統を残していこうとする「文化」があるのだが・・・。

この写真の木などは、枝葉が邪魔なのであろうが、枝ごと丸裸にされている。

〈枝がすべて切り落とされてトーテムポール状の木〉
 ほかの県では、家の邪魔になるからといって、木の枝を全部切り落とすような例は見なかった。
これではなんのために木があるのかわからない。

かろうじて神社の木はこのように緑が残っているが、民家のそばの木で枝を全部切り落とされた無残な姿をこの街では何度も見た。もう少し、古いものと共生できないだろうか。もう少し古いものを大事に残す努力をしてもよかったのではないだろうか。 

〈さすがに神社の木は枝が切り落とされていない〉
【第7次 鴻巣宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠58軒 江戸時代より雛人形の産地だった】

〈岐阻街道 鴻巣 吹上冨士遠望 英泉画〉
鴻巣宿は江戸時代より人形の産地

 このあたりの皆様、勝手なことを言って申し訳ありませんでした。

そんなことを思って歩いているうちに鴻巣市にはいった。鴻巣は江戸時代より雛人形の産地で、江戸の十間店
(じっけんだな)、武州越谷とともに「関東三大雛市」の一つとして繁栄してきたという。

人形店の外に、「この橋を渡ると一年長生きできます」という、コンクリートつくりに赤い色を塗った太鼓橋があったので、これも縁起物と喜多さんと渡ってきた。

〈鴻巣市にはいった〉
武蔵水路

 「武蔵水路」という人工の川があった。

ブイがいくつも流れに逆らうように浮いている。
まっすぐでかなり流れが速い川だが、「なんのためにブイを浮かべているんだろうね」と喜多さんと話しながら、今日はこの先の北鴻巣で中山道歩きを終了。

ショートカットで駅に向かおうとしたが、駅は目の前に見えているのに、道がないため線路が渡れない。大回りをして、北鴻巣駅から湘南ライナーで横浜に向かう。


〈武蔵水路〉
 駅の「ご協力ください看板」で、先ほどの武蔵水路のブイの理由がわかったような気がした。

この武蔵水路で若い女性の死体が上がったのだそうだ。
身元の割り出しにご協力くださいと駅に看板があった。

この水路は人工でまっすぐなため、あっという間に下流まで流されてしまうだろう。
このブイは上流から流れてくる物を引っ掛けるためにあると見たがどうであろう。

弥次さんの考えすぎだろうか。
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