〈三十一日目〉 平成22年9月25日 土曜日 晴れ 高宮宿〜愛知川宿〜五個荘
【高宮宿続き】
高宮宿

 高宮宿は多賀神社への入り口で、町の中心に多賀神社の大鳥居がそびえている。この鳥居は高さ8メートルを超え、寛永12年(1635)に社殿と同時に建造されたものだという。鳥居から大社までの参道は3kmもあるのだそうだ。

昨日、彦根まで戻ってきた近江鉄道で、高宮駅まで戻る。

〈彦根駅から近江鉄道で高宮駅へ〉

〈近江鉄道はバスのように広告でラッピングしてある〉

〈高宮駅〉
【第64次 高宮宿 本陣1軒 脇本陣2軒 旅籠23軒 多賀大社の鳥居前町で8mを越える大鳥居が宿中央に建つ】

〈木曽海道六十九次之内 高宮 広重画〉

〈高宮宿の町並み〉

〈高宮神社j〉

〈高宮布の布惣跡〉

〈高宮神社と高宮宿の家並み〉

〈高宮宿をゆく〉

〈提灯屋さん〉
高宮上布

 また、高宮は多賀神社の門前町としてだけでなく、「高宮上布」と呼ばれた麻織物の問屋町としても賑わい、宿内人口は本庄宿に次いで中山道第二だったという。多賀神社は、この大鳥居から3kmも先にあり、伊邪那岐命・伊邪那美命の二神を祀っている。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」と謳われ、延命長寿の神として全国的に名高い。
〈中山道を歩く〉

〈多賀神社の鳥居と階段のある背の高い常夜灯〉

〈芭蕉の紙子塚碑 小林家〉
芭蕉の紙子塚

 たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子

 
『貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名付けた。』 高宮街つくり委員会
とあるが、これでは何のことだかわからない。小林さんに遠慮して、婉曲な言いまわしの説明になっている。近くの円照寺に泊るはずだった芭蕉が紹介されてこの小林家に泊ったところ、高名な芭蕉と気づかず単なる旅の僧と思った小林さんは、古い紙子(紙で作った寝巻のような着物)を用意したという。この句で間違いに気付いた主人は、新しい服を贈りその古い紙子は壺に入れ庭に塚を作って埋めたのだという。


〈中山道 高宮宿燈〉

〈円照寺と家康の腰かけ石〉

〈むちんはし〉
無賃橋

 『天保の初め、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利佐衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋を架けることを命じた。当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。』
高宮街つくり委員会

地元の人がいくらかのお金を出し合って作られた橋だから、地元の人がタダなのは当然として、旅人にはありがたい橋だったことだろう。広重も愛知川宿の題材に「むちんはし」を選んでいる。

〈犬上川にかかる無賃橋〉
若宮八幡宮 「産の宮」

 南北朝の争乱の頃足利尊氏の子義詮が、文和4年(1355)後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し翌5年京都へ帰ることになった。その時義詮に同行した妻妾が途中で産気づき、ここで男子を出産した。付人として家臣9名がこの地に残り保護したが、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪をおろして醒悟と称して尼となり、この地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。ここに土着した家臣9名が竹と藤蔓で作った葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社を祀りてこの宮ができた。古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。

ちょっと待った。せっかく産んだ子を幼くして亡くした尼さんの社を「安産祈願」にしてよいのか。

〈和宮八幡宮 産の宮〉

〈つづら細工や花笠が売られていた葛籠(つづら)の松並木 高宮布を背負った女性像が建つ〉

〈高宮宿をゆく〉

〈もとは水車が回っていたらしい〉
先人を偲ぶ館

 そろそろトイレにも行きたいしと思っていたら、「先人を偲ぶ館」の案内があった。ここ豊郷では、たくさんの偉い人が出ているらしい。さっそく中に入って見ると、現在の丸紅につながる「七代目伊藤長兵衛」、伊藤忠の創業者「伊藤忠兵衛」、丸紅の丁稚から重役となり当時60万円(現在の十数億円)という私財を投じて、豊郷小学校を寄付した「古川鉄治郎」、あけぼの印の缶詰につながる「藤野喜兵衛」などが紹介されていた。

近江商人という言葉はよく聞くが、どうしてこの近江の地に豪商が多く出たのだろうか。

〈豊郷尋常高等小学校跡に建つ先人を偲ぶ館〉

〈伊藤忠の祖 伊藤忠兵衛〉

〈古川鉄治郎か寄付した豊郷小学校〉
やりこの由来

 昔、幾日も雨が降らず農作物が枯れてしまって、村人たちは大変困っていました。村人たちは阿自岐神社の神様に雨を降らしていただくようお願いしたところ、「安食南にある大木の上から矢を放てば矢の落ちたところから水が湧く」とお教えになり、さっそく弓の名人に大木の上から矢を放ってもらうと、阿自岐神社の東の地面に突き刺さりました。その矢を抜くと清水がわき出し、乾いた大地をうるおおし農作物は大豊作となって、その清水を「矢池」と名付けました。この矢を放った大木が「矢射り木」と呼ばれ、それがなまって「やりこ」と言われるようになったと言われています。

〈中山道 やりこの里〉

〈一里塚の里 石畑〉

〈石畑は高宮宿と愛知川宿の間の宿〉

〈伊藤忠兵衛碑〉

〈伊藤長兵衛屋敷跡〉

〈伊藤忠・丸紅の祖 伊藤忠兵衛記念館〉

〈伊藤忠兵衛記念館内部 嗚呼乃木大将のレコード 当時はめずらしい洋式風呂〉

〈中山道一里塚跡碑〉

〈江州音頭発祥地碑〉

〈歌詰橋〉
歌詰橋

 天慶3年(940)平将門は藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まで来たとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して「歌を一首」といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。以来村人はこの橋を「歌詰橋」と呼ぶようになったのである。

平将門は真面目な男だったのである。歌などにかまわず、秀郷の首にでも噛みついてやれば鬱憤も晴らせたであろうが、なまじ良い歌を読んでやろうと思ったばかりに、勢いを失って落ちてしまった。

〈宇曽川と歌詰橋の説明板〉
【第65次 愛知川宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠28軒 無賃橋がかけれれていた愛知川の東岸の宿】

〈木曽海道六十九次之内 恵智川 広重画〉
恵智川  

 恵智川(愛知川)の南を近江国第一の大河江智川が西流していた。この川の北岸から南岸を望んだのがこの絵である。

この橋は、通行料を無料としたため「むちんはし」と呼ばれていた。橋のたもとの標柱には「むちんはし はし銭いらず」と記してある。


愛知川宿に入った。

〈広重の愛知川の絵が〉

〈由緒ありそうな洋風建築〉
 今回の街道歩きは6月以来3か月ぶりだ。しかも、この夏は異常ともいえる暑さが続きろくに歩いていない。弥次喜多道中は、やはりというかトレーニング不足で疲れ方が早い。これが、月に何度も歩いている時だと、20kmくらいの道中はなんてことないと思えるのに、12〜3kmで結構歩いたなと感じる。やはり普段のトレーニングは大切だ。

しかし、2週間前の予定を23〜25日に変更してよかった。初日は寒いくらいだったし、昨日も今日も歩くには快適な気温と天気だった。34〜5℃から一気に20℃前後に下がったちょうどその時で、ラッキーだった。30数度の中を歩くのは無謀というものだろう。

〈八幡神社 このあたりには神社が多い〉

〈明治天皇御小休所 旅籠竹の子屋平八 竹平楼と祇園神社の常夜灯〉        
 ずっと休憩せずに歩いてきたし、時間もちょうどお昼時。愛知川を渡った先に何軒かの食事できる店があったので、休憩を兼ねて食事する。

頼みにしている地図では、愛知川を渡ったすぐ先を左に折れることになっているのだが、線路を越えずにまたすぐ右折するようになっている。しかし、近江鉄道を越えないと右折できる道がないので、国道8号線を少し先まで行ったがやはり違う。愛知川に沿った道に常夜灯が見えたので、地図を無視して近江鉄道を越えるとやはりこの道が正解だ。ただでHPからプリントした地図を使っているので文句を言えた義理ではない。

〈愛知川〉

〈愛知川を渡ると左に折れる〉

〈この常夜灯が目印〉

〈相変わらず変わった屋根が多い 本日は五箇荘駅で終了〉
 予定では武佐駅まで歩く予定であったが、本日横浜に帰らなければならないので、街道近くに駅のある「五箇荘」で終了することにした。五箇荘駅には、懐かしい人たちのコンサートポスターが貼ってある。左は「海援隊」、武田鉄也はドラマで頑張っているが、「海援隊」としてのコンサートもちゃんと頑張っていたのだ。

右のポスターは、「タイムスリップ60’s 70’s 同窓会コンサート」と銘打ってある。出演者はと見ると、美しい十代の三田明、てんとう虫のサンバのチェリッシュ、花の首飾りのタイガース加橋かつみ、スワンの涙のオックス真木ひでと、みずいろの手紙あべ静江、あずさ2号の狩人、ハローグッバイの柏原芳江、ナビゲータはフォーリーブスの江木俊夫だと。みなさん弥次さんが小学生から高校生にかけてのアイドル達ではないか。
みんなこんなところで頑張っていたんだね。

〈懐かしの人たちも頑張っている〉
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