〈30日目〉 平成22年9月24日 金曜日 曇り 醒ヶ井宿〜番場宿〜鳥居本宿〜高宮宿
【醒ヶ井宿続き】
 昨日歩き終えた醒ヶ井宿に、彦根のホテルから帰ってきた。相変わらず、中山道に沿って清らかな湧き水が流れ、バイカモが清流にそよいでいる。

朝7時過ぎにホテルを出て、朝ごはんも食べてないので、どこかで食料を仕入れてくるべきだったのだが、認識が少し甘かった。米原はそこそこに大きい駅だから売店とか、マックとか何かあるだろうと軽く考えていたのが間違いだった。米原で降りてみたが、売店も何もない。駅前には喫茶店くらいあるだろうと駅のまわりを探してみたが、開いていて食事できる場所はどこにもない。マックがあったが開店は10時と書いてある。いったいこの町の人たちは自宅以外で食事などしないのか。仕方がないから朝食抜きで醒ヶ井駅に向かう。

〈醒ヶ井宿に帰ってきた〉

〈醒ヶ井宿の昨日歩いた道を振り返る〉

〈西行水と泡子塚〉
泡子塚

 
泡子塚の由来には、『西行法師東遊のとき、この泉のほとりで休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりこの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる もし我が子なら元の泡に帰れ」と祈り、
水上は清き流れの醒井に浮世の垢をすすぎてやみん
と詠むと、児はたちまち消えて、元の泡となりました。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。今もこの辺の小字名を児醒井といいます。

〈泡子塚由来〉
 とのことなのだが、西行法師は冷たいではないか。仮にも、自分の飲み残した茶の泡を飲んで懐妊した我が子に、泡に帰れなどとよくそのような冷たいことが言えたものだ。

よく茶の泡から生まれてきたものだと褒めてやって、「泡太郎」とでも名付けて大切に育ててやるべきではないのか。

〈醒ヶ井宿の民家の軒先にあったカボチャのオブジェ〉
六軒茶屋

 このあたりは六軒茶屋といい、かつては同じ形の家が六件あったのだという、今ではこの家一軒だけになっている。

このような入母屋造りの家の屋根の三角になったところには、ほとんどが「水」の文字がある。

かつては火事が最大の脅威だったのだろう。

〈六軒茶屋〉

〈一類狐魂等衆の碑〉

〈乳房の形の地蔵〉
一類狐魂等衆の碑

 六軒茶屋の先に、非常に興味深い石碑があった。
これは「一類狐魂等衆」の碑で説明文を読むと、なるほどとうなずける伝承が書いてあった。

江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が「母親の乳が飲みたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と自身の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うございました。本当の母親に会えたような気がします。懐に70両の金があるので貴方に差し上げます。」と云い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことはできないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。

老人は幸せな気持ちで死んでいったことだろう。

〈一類狐類魂等衆の碑〉

〈やはり屋根には水の文字が〉

〈河南から右に旧道に入る〉
結納専門店

 東海道大津宿を歩いた時にも、結納の看板があって不思議に思ったのだが、ここにも「結納専門店 幸夫婦屋 定紋・富久紗・風呂敷 田部結納店」という看板があった。

関東では、結納などで商売ができるほど、結納にお金をかけることなど聞いたことがないのだが、このあたりでは商売になるほど結納にお金をかけるのだろう。

〈田部結納店の看板〉

〈ほとんどがベンガラを塗った家〉
ベンガラ

 顔料酸化鉄顔料では最も生産量が多い。かつてインドのベンガル地方産のものを輸入したために「べんがら」と名づけられた。天然に産するものもあるが、今日弁柄は合成されたものが多く使われている。化学組成は鉄の赤錆と同様といえる。

着色力・隠蔽力が大きく、耐熱性・耐水性・耐光性・耐酸性・耐アルカリ性のいずれにも優れており、安価な上無毒で人体にも安全なため非常に用途は多い。中部・近畿地方以西の伝統的民家建築の木材に塗られているものを目にすることができる。欠点は彩度が低いことで、鮮やかなものは橙赤色をしている一方、彩度の低い赤褐色のものも多い。日本においては一般的に赤というより褐色の顔料として認識されていることも多い。〈ウィキペディアより抜粋〉


〈久禮の一里塚〉

〈久禮一里塚の先の楓並木〉
【第62次 番場宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠10軒 山間の寒村で宿の長さは中山道の中で最短】

〈木曽海道六十九次之内 番場 広重画〉
番場宿

 中山道の中で一番宿の長さが短かったという「番場宿」。長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公「番場忠太郎」の出身地とされるが、今の時代の人たちには何の事だかわからないだろう。弥次さんもかろうじて聞いたことがある程度で、実際に読んだことも舞台で見たこともない。

番場宿の蓮華寺は、聖徳太子の創建と伝える古社で、境内に元弘の乱
(1333)でこの寺で自刃した、六波羅探題北条仲時ら430余人の墓がある。この時の死者の名を記した過去帳は国の重要文化財となっている。それにしても、どこまで行っても食べ物を売っている店がない。リュックの中の飴玉も飲み物もすっかり空になってしまった。久しぶりにひもじい思いをしながら弥次喜多道中は続く。

〈中山道番場宿の碑〉

〈明治天皇番場御小休所碑〉

〈蓮華寺入口 南北朝の古戦場〉

〈元弘3年5月9日 北条仲時以下430名余が自刃し、血の川となったという蓮華寺〉

〈蓮華寺宝物 北条仲時公所持のやり〉

〈観経曼荼羅 巨勢金岡の筆〉

〈北条仲時公所持の薙刀〉

〈北条仲時と自刃した人たちの過去帳 重要文化財〉

〈北条仲時以下430余人はこの場所で自刃した 南無阿弥陀仏〉

〈中山道 西番場の街道沿い〉

〈番場宿 西のはずれ〉

〈摺針峠に向かう 振り返れば伊吹山が〉

〈中山道のすぐ左には名神高速が走る〉

〈右 摺針峠 彦根〉
 番場宿からの山間の道を通って、摺針峠にやってきた。

途中、年配の男性が10人くらい集団で歩いていた。いかにも定年後に同好の士が集まって歩いてます、といった感じのグループだった。

挨拶がてら、「これから日本橋を目指すのですか」と聞いてみたかったのだが、黙って通り過ぎた。

〈この坂道を登り切れば摺針峠〉
【第63次 鳥居本宿 本陣1軒 脇本陣2軒 旅籠35軒 望湖堂跡からは琵琶湖の絶景が】

〈木曽海道六十九次之内 鳥居本 広重画〉

〈望湖堂跡のお宅の庭から見せてもらった琵琶湖の眺め〉

〈望湖堂の奥さんと とても米寿には見えない若々しい奥さん〉
望湖堂

 旧中山道からは琵琶湖が見えないので、せめて琵琶湖の見えるところまで・・・と思って、神社への石段を上がると、明治天皇摺針峠御小休所の石碑の傍で、その家の奥さんが掃除をしておられた。目があったので、「こんにちわ〜」と挨拶をして、「琵琶湖がよく見えますね〜」というと、「庭に入って見ますか?」と言われる。

うわ〜、ありがたい。道からは手前の木が邪魔をして琵琶湖がよく見えないのだ。さっそく、庭にお邪魔して見せていただくと、そこには琵琶湖を見渡せる絶景が広がっていた。この奥さんは、望湖堂の奥さんで、いろいろお話を伺ったが、望湖堂そのものは、今から20年くらい前に火事で焼けてしまったのだそうだ。その時。何も持ち出せず貴重な江戸時代からのお宝がみんな焼けてしまったと言われていた。

〈望湖堂のお宅〉
 最後に、奥さんと記念写真を撮って、「お元気で」とお別れした。米寿だと言われていたが、米寿に見えますか。
奥さんの若いころには、琵琶湖の手前は埋め立てられてなく、広重の絵のようにすぐ下まで湖だったそうで、
陸地もみんな水田で夕日が反射してきれいだったといわれていた。近年目の前に富士テックのエレベーター
試験塔ができてせっかくの景観をぶち壊しにしてしまっている。

   
望湖堂跡説明板

 『江戸時代、摺針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行きかう旅人は、ここで絶景を楽しみながら、「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどであった。その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政7年(1795)8月、奉行宛てに連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えていることからも推測される。この望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や、朝鮮通信使などの資料なども多数保管していたが、近年の火災で焼失したのが惜しまれる。』
奥さんは、淡々と話されていたが本当に残念だ。

〈望湖堂跡説明板〉
 この山道で二人の年配の男性と出会った。挨拶すると、「この道をゆくと峠まで行けますか」と聞かれたので、丁寧に教えてあげた。中山道を京都から歩いているのだそうで、弥次喜多道中とは逆コースだ。まだ歩き始めて間もないので、これからの中山道の注意点をいろいろと教えてあげた。

和田峠を越えるには、下諏訪から一気に和田宿まで20数kmを歩かなければならないこと。泊るには「本亭」という宿しかないこと。予約をしていかないと、危険なこと・・・など。

おじさんは、「あ〜、いいことを聞いた。メモしておこう」と言っていた。

〈旧中山道は山間の道をゆく〉

〈彦根市に入った このあたりは近江商人の町〉
   

〈鳥居本宿に入ってきた〉

〈赤玉神教丸有川家 誰も出てこなかったので買いそびれた〉

〈来週鳥居本宿のお祭りがあるらしく、各家が赤い布で盛り上げている〉
 
〈山一本家合羽所の木の看板〉
鳥居本宿の合羽

 『享保5年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向かう旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804〜30)には15軒の合羽所がありました。』とのことで、鳥居本の合羽は和紙に柿の渋で防水を施したため赤く染まっていたという。当然、現代では需要などあるはずもなく、生産をしているところはないそうだ。

街道沿い家々では、来週の宿場祭りを盛り上げるべく、それぞれに工夫を凝らした赤い布を飾っていた。・・・とここまで書いて思い当った。そうか、この赤い布は柿の渋で赤く染まっていたという「鳥居本の合羽」なのだと。

〈近江鉄道 鳥居本駅舎〉

〈脇本陣跡 この家もやはりベンガラ塗り〉

〈包紙紐荷造材料松宇の看板〉

〈珍しい桧皮葺の常夜灯〉

〈そろそろ鳥居本宿も終わり〉
彦根道

 彦根道は、家康が関ヶ原合戦後の上洛に使ったことから「ご上洛道」の名もあるが、朝鮮通信使が通った「朝鮮人街道」として有名である。この道は、現在の東海道線に沿うように彦根、安土、近江八幡などを通って野洲で再び中山道と合流している。

なぜこの区間だけ別の道を通るようにしたのか、はっきりとしたことはわからないが、八幡や彦根のほうが経済の発展ぶりを外国に示すことができ、大行列を受け入れる態勢も整えやすかったのではないかと思われる。将軍上洛のみで参勤交代には通らせない特別な道を、最大級のもてなしとして使ったということもあるのかも知れない。
〈中山道を歩く〉

〈中山道と彦根道との分岐点〉

〈しばらく東海道新幹線に沿って歩く 八幡神社入り口でひと休み〉
小野小町

 このあたりは、小野という集落らしい。
小野小町の出生地だという説明板があったが・・・

「地元に伝わる郷土芸能『小野町太鼓踊り』の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生地とする伝承が残っている。『出羽郡小野美実(好美)は奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない可愛い女児に出会った。美実はこの女児を養女にもらいうけ、出羽の国に連れていった。この女児が小町という。」

ふ〜ん、有名人はどこにでもこのような伝説があるものだ。

〈小野小町塚〉

〈これが小野小町地蔵尊〉

〈芭蕉の昼寝塚がある床山八幡宮〉
 それにしても、今日は朝からろくに食事をせずに歩いてきたものだから、喜多さんも機嫌が悪い。途中にコンビニの1軒くらいあるだろうと気楽に考えていたが、とんでもない話であった。コンビニどころがパンを売る商店ひとつなかった。

1時半を過ぎて、やっと道路沿いに「フレンドマート」というスーパーが見えた。さっそく、店内で弁当と焼きそばを買いこんで、休憩コーナーで食べる。食事にありつけるということは、こんなにありがたいことだったのかと思いを新たにする。

山中で遭難した人の不安とひもじさはこんなものではないだろうが、今日は中山道で遭難しそうであった。

〈やっと食料品を売る店を見つけた〉

〈中山道旧跡 床の山碑 その先にはカラフルな前掛けのお地蔵さん〉
 醒ヶ井宿から予定通り14.3kmを歩いて高宮宿に入った。本日は高宮駅から近江鉄道で彦根まで戻り、ホテルの駐車場から車に乗り込み、ちょっとしたサプライズイベントを行う予定だ。

それは、米原駅前で「さんとれいん」という喫茶店をやっている、高校時代の同級生「かーも」を突然訪ねてみる・・・というイベントだ。

何しろ25歳の頃以来、30年間一度も会っていない。

〈石清水神社〉

〈高宮宿に入った〉

〈近江鉄道で高宮駅から彦根駅に戻る〉
 今時刻は3時半、果たしてこの時間に訪ねて店を開けているだろうか。とりあえず、米原駅近くの店の駐車場に車を入れ、喜多さんと二人店に入ってみた。

すると、店のカウンターには男性一人しかいないではないか。昼間は店にいないのかなと思い、ま仕方ないねと思ったら、女性が水を持ってきた。
「いらっしゃいませ」
「・・・ぼくがだれだかわかる?・・・ほらプレアンで一緒だった弥次郎兵衛だよ」

「・・・え〜、うそ。・・・ぜんぜんわからない」
というような会話があって、だんだんと記憶が蘇ってきたのだろう。30年前の話しや、同級生の話題で30分ほど盛り上がった。「かーも」は京都の女子大に行っていたから、大学1年の時京都の大原三千院などを案内してもらい、一緒にコタツに入って湯豆腐を食べたのに・・・・・。30年の歳月は、二人をおじさん、おばさんにしてしまったのだね。

〈彦根駅前 後ろにはホテルサンルート彦根〉
 これから長浜に鯖そーめんを食べに行くからと、「さんとれいん」を出て、車の中で喜多さんが言うには、「ふ〜ん、私と結婚していなければ、あの人と結婚していたわけね。」

いや、そういうわけでは・・・、

ま、たぶん、こういう運命だったのだよ。


長浜に着いた弥次喜多は、しばしの散策の後、数年前にも岩国の家族で来ておいしかった「鯖そうめん」を食べるために「翼果楼」に入る。


〈鯖そうめんの店 翼果楼〉
 喜多さんは、「おなかがあまりすいていないから・・・」と言うけど、無理やり鯖そうめんを2つ注文する。

やっぱりというか、自分の分はぺろりと平らげて「おいしかった」と言っている。いつもこの言葉にだまされて注文しないでいると、必ず少しとられてしまう。
自分のおなかでは、食べるペース配分が決まっていて、途中で喜多さんにとられると欲求不満が残る。


これも長年連れ添ったおかげで、喜多さんの習性を見抜いているおかげだろう。

〈これが鯖そうめん おいしかった〉
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