〈二日目〉平成20年 329日 土曜日 晴れ 板橋宿〜蕨宿〜浦和宿

【第1次 板橋宿 本陣1軒 脇本陣1軒 中山道第一の賑わいの宿だった】

〈木曾街道 板橋の駅 英泉画〉
 中山道の一日目を歩いてから二か月以上経っている。その間に東海道を踏破したからだ。
2月9日〜11日の三日間で石部宿〜草津宿〜大津宿〜三条大橋と、東海道最後の約50kmを歩いてきた。
おととしの12月24日に日本橋を出立して以来1年と1か月半の月日が流れた。

延べ30日間の徒歩の旅だった。

この中山道はどのくらいで踏破できるだろう。
東海道と違って、地元横浜からは出発点からして遠い。
今までは横浜起点で西に向かう旅立ったが、今度はまず日本橋より北西での出発になるので
電車代もかかる。
それでも乗りかかった舟、頑張って歩くとしよう。

今日は、喜多さんは所要のため弥次さんのひとり旅だ。
東銀座までは定期券があるので有効利用し、三田駅まで京急からの直通で着いた。
そこから都営三田線に乗換え、前回歩き終えた新板橋駅まで行くことにする。

板橋は東海道を歩いているときに何度か名前が出てきた新撰組局長近藤勇が斬首されたところだ。
この板橋で切られた首は京都に送られ、その首を盗み出した元隊員が首を埋めてもらおうと新撰組ゆかりの寺にお願いしたところ、住職の勤め替えで藤川宿の宝蔵寺に埋められることになった。
以上のことは、東海道の藤川宿で書いたとおりだ。


〈板橋駅前の中山道〉
  
〈板橋宿〉
  
板橋

せっかくだから、その近藤勇の墓があるらしいので寄ってみようと思ったが、見つけることができなかった。
まあ、近いのでまた機会もあるであろうと蕨宿に向けて歩くことにした。
首都高速の下を抜けた先に、旧中山道仲宿があった。


商店街をしばらく歩くと、人だかりのしている橋があった。ちょうど季節もよく桜が満開だ。
案内板を読むとここは「板橋」で、板橋区の由来となった橋だとある。
へー、そうであったか。
板橋区の人たちはこのことを知っているのだろうか。
板橋の写真を撮ってさらに北西を目指す。


〈板橋〉
  
〈板橋とさくら〉
縁切り榎

 板橋の先に「縁切り榎」という案内板があった。
江戸時代この榎の下を嫁入り行列や婿取り行列が通ると、不縁になるといわれ、この木を「縁切り榎」というようになった。

幕末、孝明天皇の妹皇女和宮が将軍家茂に降嫁の際には、榎にもこもが巻かれたという。

その先に花のきれいな神社があったので入ってみる。

〈縁切り榎〉
  
〈しだれ桜がきれいな神社があった〉
志村一里塚

 17号線に合流し、蓮沼、小豆沢と過ぎた先に志村一里塚がある。
りっぱな木が植わった一里塚で、東京にもこんな一里塚が残っているのだと思いを新たにする。

歩いて見なければ、東京に一里塚が残っているなんて絶対にわからない。


〈志村一里塚〉
荒川を渡る

 志村坂下の先で戸田橋を渡ればもうそこは埼玉県だ。
あっけなく東京都から埼玉県にはいったが、江戸時代までは同じ武蔵の国でこの川が国境ではなかった。

大きな戸田橋を渡りきった先に曲尺手橋という小さな橋がある。
そこから右下の狭い道路に行ったところが旧中山道らしい。また
17号線にもどり蕨警察署入口の信号を越えた先に、いかにも旧道ですといった斜め右に入る道がある。
木戸らしきものも作ってある。久しぶりに見る街道といった感じだ。


〈荒川にかかる戸田橋〉
  
〈日本橋から16km 埼玉県に入った〉
【第2次 蕨宿 本陣2軒 脇本陣1軒 旅籠23軒 日本橋から2番目の宿】

〈木曾街道 蕨之駅 戸田川渡場 英泉画〉
 この蕨市は全国一人口密度が高い市だそうで、とにかく住宅が密集して余計な緑地などないぞというイメージだ。
地図で見てもほとんど緑の部分はないが、蕨城跡もあるようだ。今回は立ち寄らなかったが、また機会があれば寄ってみたい。

ここから北町交番前までの約1kmは道路も建物も宿場をイメージした整備がされている。

マンホールのふたも側溝のふたも蕨宿のためにわざわざ作ったもので、このように整備された宿場は、この先も含め埼玉県ではこの蕨宿だけだった。

〈蕨宿歴史民族資料館別館〉
  

歴史民俗資料館があったので立ち寄ってみる。

入ると母親と幼稚園くらいのこどもで何か作っている最中で、おじゃま虫のような心境で中を見学する。
写真撮影が禁止になっていたので、ざっと見て早々に退散するが、蕨市はいままでマイナーなイメージしかもっていなかった。

しかし、この宿場の保存状態を見る限り、埼玉県では文化的な町といえると思う。街道の出口に小ぎれいな公園があったので写真を撮って、
17号線を越え、それから先はなんてことない住宅地を進む。


〈蕨宿歴史民族資料館〉
  
  
焼米坂

六辻の先から左に折れしばらく行くと「焼米坂」という坂があった。

昔はここで旅の携帯食だった焼米を売っていたようだ。
しかし、この近くに住んでいる会社の女性に聞いても知らないと言っていたから、いまは完全に忘れ去られている坂なのだろう。


〈焼米坂〉
  
【第3次 浦和宿 本陣1軒 脇本陣3軒 旅籠15軒 天保14年(1843)には家数273軒の小さな宿場だった】

〈木曾路の駅 浦和宿 浅間山遠望 英泉画〉
調神社

浦和宿に入るとだんだんと賑やかになり、右手に緑の濃いところがあった。
立ち寄ってみると「調神社」とある。
地元の人以外でちゃんと読める人などいないと思うが、これは「つきじんじゃ」と読む。


狛犬の代わりに狛ウサギのある変わった神社だ。
普通は龍の口から出ている手水の水もウサギの口から出ている。


〈調(つき)神社〉
  
 奈良時代、租庸調の調(貢物)がこの地に集められ、ここから伊勢神宮に出発したらしい。
社伝によれば、開化天皇
3年(紀元前156年)に創建されたという、ずいぶんと歴史のある神社だ。
中世ころから調(ツキ)が月に通じるということで月信仰と結びつき、ウサギを神の使いとみなす
兎信仰が行なわれるようになったらしい。


裏から入ったので「こまうさぎ」を最後に見て、今日の中山道歩きは終了。
浦和駅まで歩いて
JRで帰ることにする。
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