〈二十八日目〉 平成22年6月6日 日曜日 晴れ 赤坂宿〜垂井宿〜関ヶ原宿 | |
【赤坂宿続き】 | |
〈早朝の大垣駅〉 |
〈美濃赤坂行きの2両編成〉 |
朝6時過ぎにはホテルを出た弥次喜多道中は、6時37分の大垣駅発美濃赤坂駅行きの2両編成に乗り込んだ。乗客は1両あたり3〜4人といったところで、この時間に美濃赤坂方面に行く人、帰る人は珍しいのだろう。 ディズニーランド帰りらしいお嬢さん3人組が、迎えのお母さんの車に乗り込んでいった。大垣行きといえば、昔は23時30分頃東京駅発大垣駅行きの電車があり、酔っ払って寝込んだ茅ヶ崎あたりから通っている人が、大垣駅まで眠りこんで行ってしまった話をよく聞いた。 今日はこれから昨日と同じくらいの約20kmを柏原宿まで歩くつもりだ。そうするといよいよ滋賀県に入るのだ。 |
〈美濃赤坂駅に戻ってきた〉 |
〈矢橋グループの豪邸〉 |
|
大理石長者の町 昨日美濃赤坂駅に向かう途中で、右側に延々と続く豪邸を見ながら喜多さんと二人、「何者の家だろうね」「庄屋さんとか本陣とかなら説明板があってもよさそうなのにね」と不思議がっていたのだが、この家は「矢橋グループ本社」の建物で、矢橋グループとはこの地の特産物「大理石」で一代を築いた家らしい。中山道から美濃赤坂駅方面にかなり長い塀が続くが、中山道に沿ってもどれだけ広いの?というほど広大な敷地だ。 町の中心にあるこの四つ辻は、北に向かう谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点であるが、我々は中山道を西に向かう。 |
〈左たにくみ〉 |
〈この辺りは矢橋さん一族が多いのか?〉 |
〈矢橋家が延々と続く〉 |
赤坂宿にある金生山は大理石・石灰岩と化石の宝庫で、このあたりには大理石長者、石灰岩長者と言ってもいいような豪邸が多い。金生山は古生代ベルム期中〜後期(2.7億年〜2.5億年前)の珊瑚礁だそうで、豊富に化石を産出し、日本で最初に化石の命名が行われたのだそうだ。 想像もつかないはるか昔に海の底だったこのあたりには、珊瑚や海の生物の死骸が堆積し、熱せられ、圧で固められて大理石や石灰岩などに変化した。 |
〈中山道赤坂宿脇本陣跡〉 |
宿場の駅 五七 中山道赤坂宿、宿場の駅五七という休憩所があったが、朝早すぎて開いていない。この宿場は57番目の宿だと主張しているが、数え方の問題で、日本橋の次の板橋宿を一つ目の宿だとしている資料がほとんどだ。 そうするとこの「赤坂宿」は56番目の宿になるはずなのだが、日本橋を一つ目の宿と勘定しているのだろうか。 |
〈宿場の駅 五七〉 |
所郁太郎の墓 | |
〈幕末、井上聞多が襲われた時の刀傷を縫って命を助けた所郁太郎の墓がある〉 |
|
お嫁入り普請 「お嫁入り普請探訪館」という看板を掲げた家があったが、ここも早すぎて開いていない。皇女和宮が降嫁の際、この赤坂宿の54軒が新築し、それが嫁入り普請と呼ばれるのだそうだ。その時の家屋が今も一部残っているそうで、中に入れば詳しいことがわかったかもしれないが通り過ぎる。 それにしても、中山道の歴史の中で和宮の影響はあまりにも大きいのがわかる。 |
〈お嫁入普請探訪館〉 |
〈崩れ落ちそうな家の前に自販機が並ぶ〉 |
〈所郁太郎生誕地碑〉 |
〈中山道はまっすぐ西に向かう〉 |
〈右手には石灰を掘っている山が〉 |
兜 塚 この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)、杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。以後この古墳は兜塚と呼ばれている。 大垣市教育委員会 |
〈兜塚〉 |
〈赤い線が中山道 ほとんどまっすぐに西に向かう〉 |
〈昔の赤坂宿の写真が〉 |
この案内板で、昨日立ち寄ったしゃれた建物は旧岐阜県警察大垣出張所屯所だったことを知った。 いまは想像もできないが、大理石や石灰岩が豊富に産出されていたころには、本当に活気のある町だったのだろう。 廃線となった線路が今のさびしさを物語る。 |
〈かつては石灰岩を満載して走っただろう線路〉 |
ただ現在も石灰産業は健在のようで、右手には「河合石灰工業」という大きな工場があった。石灰岩はおもにセメントの材料として使われるが、そういえば山口県の秋吉台も石灰岩でできている。その下にある秋芳洞という鍾乳洞は、水の侵食で石筍や石柱が見事だ。だから「宇部セメント」や「小野田セメント」などのセメント大手の会社が出来たのだ。 ちなみにこの近くの伊吹山も全山石灰岩でできているのだそうだ。 |
〈河合石灰工業〉 |
〈昼飯町の由来〉 |
〈このあたりは昼飯町という地名〉 |
善光寺へ仏像を運ぶ途中昼飯を食べたことから「ひるめし」という地名になり、下品だから「ひるいい」とし、最終的には「ひるい」となった、という「昼飯町」を過ぎると、「青墓」に着く。 伝承地 照手姫の水汲み井戸 昔、武蔵相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美人がいました。この娘と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。照手姫は深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところまで売られてきました。長者はその美貌で客をとらせようとしますが、姫は拒みとおしました。怒った長者は一度に百頭の馬に餌をやれとか、籠で水を汲めなど無理な仕事を言いつけました。一方毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、照手姫が忘れられず、姫をさがして妻に迎えました。この井戸は姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです。 |
〈史跡 照手姫水汲井戸〉 |
〈小篠竹の塚 照手姫の墓と伝えられるが小栗判官の妻に迎えられたのではないのか〉 〈義経伝説 よしたけあん〉 |
|
〈青墓宿の田園風景〉 |
|
それにしても、街道歩きを始める前は名前も知らなかった「照手姫」。実にいろいろな所でその名を目にする。最初は東海道藤沢宿の遊行寺で、小栗判官が毒酒を盛られて死んだ伝説を目にした。その恋人が照手姫であった。 甲州道中では小仏峠を越え、小原宿の手前に「美女谷」があり、その美女とは「照手姫」であった。へ〜、照手姫はこんなところで生まれたのかと、思いを新たにしたが、なんとこんな離れた美濃のはずれに売られてきていたのだそうだ。 それにしても大炊長者は大人げないではないか。 |
〈一里塚跡には常夜灯が〉 |
この垂井の追分には休憩所が設けてあったが、時刻はまだ8時半だ。当然開いていない。朝早くから歩き始めると涼しくて楽なのだが、資料館などの施設が開いていないのが残念だ。 ここの外のベンチでしばし休憩することにする。 |
〈垂井の美濃路と中山道追分道標〉 |
垂井町指定史跡 垂井追分道標 垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場だった。 『追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられました。道標は高さ1.2m、幅40cm、表に「是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とあり、裏に宝永六年巳丑十月 願主奥山氏末平」と刻まれている。』 宝永6年とは1709年のことで、中山道では7番目の古さだそうだ。 |
〈奥山さんが建てた追分道標〉 |
〈相川を渡って垂井宿の中心へ〉 |
〈江戸初期には人足渡しだったという〉 |
【第57次 垂井宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠27軒 欅の根本から湧く清水から垂井の名が生まれた】 | |
〈木曽海道六十九次之内 垂井 広重画〉 |
|
〈垂井宿の案内板は木を組み合わせて作ってある〉 |
|
〈煉瓦造りの倉庫 昔は酒を作っていたようだ〉 |
〈しかし 今は月極駐車場〉 |
紙屋塚 古来紙は貴重品であり、奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては戸籍の原簿作成に重要な役割を果たした。ここの紙屋も府中に国府が置かれた当時から存在し、室町ころまで存続したと考えられる。また当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯から集められた紙の検査所の役割も果たしていたものと考えられる。一説には美濃紙の発祥地ともいわれている。 垂井町教育委員会 |
〈紙屋塚〉 |
丸亀屋 右に見える建物は、200年前から今も営業を続ける旅籠「亀丸屋」で、安永6年(1777)に建てられた母屋と離れがあり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りなのだそうだ。 ぱっと見、そんなに古い建物には見えない。 |
〈旅籠 亀丸屋〉 |
〈格子が美しい〉 |
|
〈垂井宿の名となった垂井の泉に立ち寄る〉 |
|
垂井の泉 | |
〈湧き出る水は澄み切っている 鯉も気持ち良さそう〉 |
|
〈葱しろくあらいあげたる寒さかな 芭蕉〉 |
〈垂井の大欅と泉の碑〉 |
〈垂井宿御休み処 旧旅籠長浜屋〉 |
〈文化末年(1817)ころ建てられた旧商家〉 |
〈広重の描いた垂水宿はこのあたりの風景だという〉 |
|
〈東海道本線を越えて関が原へ向かう〉 |
〈日守の茶所〉 |
〈垂井一里塚 国の指定史跡は板橋志村一里塚と2か所だけなのだそうだ〉 |
|
浅野幸長は五奉行のひとりであった浅野長政の嫡男で、甲斐甲府16万石の領主であった。 関ヶ原の戦いでは、秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えたという。 だんだんと関ヶ原の合戦の雰囲気が伝わってくるようになった。 |
〈これより関ヶ原町〉 |
〈関ヶ原の中山道をゆく〉 |
|
野上 七つ井戸 『ここ野上は、垂井宿と関ヶ原宿の間の宿でした。江戸時代のころから僅少の地下水を取水して多目的に利用されてきました。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人には喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったでしょう。』 ということで、最近修復・再現した井戸だそうだ。 この近くには、壬申の乱(672年)大海人皇子行宮跡があるらしいが、街道から外れるので見に行かないことにする。 |
〈野上 七つ井戸〉 |
【第58次 関ヶ原宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠33軒 古代に天武天皇が不破の関を設け関ヶ原の名が】 | |
〈木曽海道六十九次之内 関ヶ原 広重画〉 |
|
〈関ヶ原の中山道はよい雰囲気が残る〉 |
|
関ヶ原合戦の跡 松並木から左手に、関ヶ原の合戦の際、家康が最初に陣地を築いた桃配山が見える。いま歩いているあたりは、山内一豊の陣の跡だ。東海道掛川宿を歩いた時に、掛川城に立ち寄ったが、次の天下は家康のものだと見極めた山内一豊は、徹底して家康の腰ぎんちゃくになった。自分の掛川城を家康に明け渡して、無城になって関が原の合戦に臨んだが、その甲斐あって戦後土佐24万石を手に入れた。 男が勝負する時はすさまじいものだと感服する。 |
〈家康が陣地を築いた桃配山〉 |
〈関ヶ原 山内一豊陣跡をゆく〉 |
|
六部地蔵 六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修行している人のこと。その六部の行者が宝暦11年(1761)ごろ、この地で亡くなられたので、里人が祠を建てお祭りされたと言われているそうだ。 この六部地蔵は、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼まいり」と詠まれているように、痛みのひどい病気を治すことで知られています。関ヶ原町 そういえば東海道沼津宿の広重の絵には、天狗の面を背負って西に向かう六部の姿が描かれている。 |
〈六部地蔵〉 |
ドアのガラス越しにツタがびっしり詰まっている家があった。 蔦が描かれたポスターが貼ってあるのじゃないかと思うくらい、きれいにドアのガラスに密生している。 小屋の中身はどんなになっているのだろうか。 |
〈ポスターのようだが本物のツタ〉 |
関ヶ原駅に着いた。 時刻はまだ11時。これから歴史民俗資料館に行ってレンタサイクルを借りて古戦場めぐりをする予定だ。 駅から東海道本線を越えて、歴史民俗資料館を目指す。 |
〈関ヶ原駅に到着〉 |
関ヶ原民族資料館 歴史民俗資料館は、関ヶ原駅から坂道を上って東海道本線を越え、数百メートル行かねばならない。行くまでにかなり疲れてしまったが、せっかく来たのだから資料館の展示も見学することにする。関ヶ原の合戦で東軍・西軍の陣地がどうであったか映像で紹介している。やはり、勝敗の決め手は毛利・吉川・小早川の動きだ。 家康の天下を見越した吉川広家は、毛利家の存続を願い家康と密かに内通し、西軍ではあるが戦わないことを約束する。 |
〈歴史民俗資料館〉 |
関ヶ原決戦地 小早川秀秋は西軍を裏切り、東軍勝利の立役者となる。合戦当時は19歳だったという。 この決戦地は、三成の首を取るべく絶え間なく攻める東軍と、必死に応戦する西軍とが最後まで戦った合戦最大の激戦地であった。このとき、家康につくか秀吉の嫡男秀頼を擁する三成につくか、家の存続が最大の命題の大名は考えに考えただろう。 勝負は紙一重だった。しかし、三成より家康の方が人望があった。仮に三成が勝って、秀頼と淀君の世になったらたまらんと思った大名も多かったであろう。 |
〈関ヶ原決戦地〉 |
〈笹尾山の石田三成陣地から見る関ヶ原〉 |
|
笹尾山 西軍の大将であった石田三成は、6000の兵を配しこの笹尾山に陣を構えた。合戦時、竹矢来の前には島左近、中間に蒲生郷舎を配置し、三成は山頂で指揮をとっていたという。 ずっと歩いてきた弥次喜多道中は、街道歩きでは初めて自転車に乗った。下りはこがなくてもスイスイで気持ちよい。 |
〈現代の馬とでもいうべき自転車に乗って史跡めぐり〉 |
ひつまぶし ちょうど昼時で昼御飯を食べたいのに、食事できるところがなかなか見当たらない。これだけ観光客がたくさんいるのに食べるところがない。仕方ないからまた東海道本線を越えて、駅の方に自転車を走らせると「魚しげ」といううなぎ屋さんがあった。他に見当たらないので、鰻を食べることにする。 弥次さんは「ひつまぶし」、喜多さんはうな丼を注文して待つことしばし。 |
〈うなぎの魚しげ〉 |
ボリュームたっぷりのウナギで満腹になった弥次喜多道中は、急速に街道歩きの意欲をなくしたのであった。時刻はまだ2時前だが、急きょ電車で柏原駅まで戻ることにする。 「中山道」は逃げないし・・・、今度は関ヶ原駅から歩けるし・・・ 理由はいくらでも出てくるのであった。 「魚しげ」の向かいにあった「高木精肉店」で揚げたてコロッケまで買ってしまった弥次喜多道中は、歴史民俗資料館に自転車を返して、コロッケを食べながら東海道本線で柏原宿に戻るという安易な道を選んだ。 |
〈関ヶ原町は三成贔屓のようだ〉 |
柏原宿 電車で柏原宿に戻った。 なんだか関ヶ原宿から柏原宿まで踏破したような気にもなったが、いやいやズルはできない。次回はちゃんと関ヶ原宿から不破の関を通り、今須宿を経てまたこの柏原宿に着くつもりだ。次回時間をとられないように、歴史館を見学していくことにする。 柏原宿に唯一残るもぐさの「伊吹堂」に、広重も描いた巨大な福助がいるらしいが、日曜日は定休日で見られなかった。次回来るときにはぜひ見てみたいものだ。 |
〈柏原宿 映画監督吉村公三郎生家〉 |
〈柏原宿は福助人形が有名〉 |
|
〈中山道 柏原宿の家並み〉 |
|
ポータルサイトに戻る | |