〈27日目〉 平成22年 6月5日 土曜日 晴れ 加納宿〜河渡宿〜美江寺宿〜赤坂宿
【加納宿続き】
 5月は法事で広島に行ったものだから、街道歩きは4月以来となる。

半年振りに母親と兄弟姉妹とその連れ合い全員がそろった。
弥次さん以外は山口と広島に住んでいるので簡単に集まれるのだが、横浜に住む弥次喜多夫婦は、
このような行事がないとなかなか帰れない。

兄が広島空港まで迎えに来てくれて、ついでに島根県の浜田まで連れて行ってくれた。
さかな市場でおいしい「のどぐろ」の干物や「あかてん」という唐辛子の入った天ぷら
(関東ではさつま揚げ)などを買って、
宅急便で横浜に送っておいたけど、安くてうまいのに感激。 
下の姉の連れ合いは、6年前に食道がんで亡くなった。まだ58歳だった。今回は7回忌ということになる。

気をつけようと言って何に気をつければよいのかわからないが、とりあえず煙草をやめて3年半になる。
この頃は煙草を吸っている人を見ると不思議な感じがするが、兄も弟もその子らもみんなスパスパ吸っていた。

さて、加納宿からの中山道。
今回の街道歩きは、関ヶ原を通っていよいよ滋賀県に入る予定だ。
 民主党がもたついて、高速道路の1000円施策が続いているうちにと思い、今回も車で中山道にやってきた。

今回の終点予定の「柏原宿歴史館」の駐車場に車を置かせてもらい、東海道本線柏原駅から岐阜駅まで戻る。570円なり。

二日かけて570円分の中山道を歩くつもりだが、前回までの峠や山道はなく、平坦な舗装路のみのようで、今までの経験ではかえって疲れる道のりといえる。

〈柏原駅から東海道本線で岐阜駅に向かう〉

〈中山道加納宿に帰ってきた〉

〈中山道加納宿案内所〉
 前回歩き終えた岐阜駅へ向かう道まで戻り、続きを西に向かう。

歩き始めてすぐに普通の民家に「中山道加納宿案内所」という看板があったが、特に欲しい情報もなかったので素通りする。

岐阜県の中山道は相変わらず道案内が親切で、いかにも街道沿いの方が手作りで作られたと思われる道標があちこちに掲げてある。

〈相変わらず親切な標識が〉
長良川ツーデーウォーク

 何だか、やたらと急ぎ足で歩いてくる人とすれ違う。中には、ジョギングでやってくる人もいる。

例外なく、背中には『長良川ツーデーウォーク』のゼッケンを付けている。そうか、30kmも歩くつもりだからあんなにせわしなく歩いているのか・・・と納得。

われわれ弥次喜多道中は、マイペースでのんびりと西に向かう。

〈ジョギングで30kmコースに挑戦する人とすれ違う〉
 すれ違うツーデーウォークに挑戦している人は、圧倒的に中年の男性が多い。

弥次さんとて完全に中年のおじさんなのだが、そんなにあせって歩かなくても・・・と思ってしまう。

〈長良川ツーデーウォーク30kmコースの道標〉
鏡島弘法 乙津寺(おっしんじ)

乙津寺(鏡島弘法)は京都の東寺、神奈川県の川崎大師(平間寺、へいけんじ)と並び「日本三躰厄除弘法大師」の一つに数えられます。弘法大師の命日は旧暦の3月21日であり、月命日に当たる毎月21日には縁日会が開かれています。当寺の南を通る中山道は一方通行になり、参道から露天が並びます。
 天平10年(738)行基菩薩が、西は赤坂の浜より、東は各務まで七里(28q)の中央にあった孤島、乙津島に着船され、十一面千手観音像を彫り安置されたのが、この寺の始まりと伝えら
れています。

 弘仁4年(813)、創建開山である弘法大師は、嵯峨天皇の勅命を受け乙津島に着船されました。大師は秘法を尽くし、ひたすら願うこと37日間、法鏡を龍神に向けられますと、たちまち蒼海が桑田となり、大勢の人が集りとても感動しました。この縁によってこの地を鏡島と言うようになり、乙津寺の名称は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来します。 〈乙津寺HPより〉

〈鏡島弘法 梅寺 瑞甲山乙津寺への参道〉
 
〈鏡島(かがしま)弘法 乙津寺(おっしんじ)はツーデーウォークのチェックポイントになっていて、弥次喜多も間違われた〉
小紅(おべに)の渡し

小紅の渡しは、寛文8年(1668年)頃よりあったものと思われる。
 長良川にあった小紅の渡しは、方県(かたがた)郡小島(こじま)村と鏡島村を結び、上流の亀ノ渡、下流の河渡渡の中間に位置した。加納藩主(戸田光永)が寛文8年(1668年)に、2人の弟「光澄(現在の本巣群本巣町)、光賢(現在の本巣群北方町)」に5千石ずつを分知(ぶんち、分割相続)した。 その加納藩と2人の弟の治所(ちしょ、政府)を結ぶ街道を渡船場(とせんば)とした。渡船場付近の長良川は古川と井川(現長良川)の合流点のすぐ下流で川幅が約180m以上の渡しであった。〈乙津寺HPより〉


ということで、乙津寺を西に向かうと堤防があり、その向こうは長良川だ。
そこに今も渡し船があるらしいので、これはぜひ乗らねばならない。

〈小紅(おべに)の渡しへ向かう〉
 「小紅の渡し」は、元禄5年(1692年)川下にあった中山道の「河渡の渡し」に対して、裏街道として栄えました。
 「小紅」の名前の由来は、
1.小紅という女船頭がいたとする説
2.対岸から嫁入りするときに、花嫁が川面に顔を映して紅を直したとする説
3.べニを採る草がはえていたとする説
4.小紅という地名があったとする説
など、いろいろあります。
 〈乙津寺HPより〉

広い長良川の河川敷を川に向かって歩いて行くと、・・・
お〜、渡し船だ。

あの船に乗って向こう岸に渡れると思うとうれしい。

〈本当にこの先に渡し船はあるのだろうか〉
【第54次 河渡宿 本陣1軒 脇本陣0軒 旅籠24軒 長良川の水害に悩まされた宿場】

〈岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩 英泉画〉
 
〈これが小紅の渡しだ〉

〈船頭さんに中山道の人か?と聞かれた〉

〈ツーデーウォークの人も渡しで向こう岸へ〉
 
〈ツーデーウォークの人は西岸から東岸へ 人数が多いので行列ができている〉
小紅の渡し

 東から西に向かう旅人は、われわれ弥次喜多道中だけだったので貸切で乗れた。

「代金はいくらですか」と船頭さんに聞くと、「この渡しは県道だからタダだよ」とおっしゃる。「え〜、県道なんですか?」と二人で驚き、うれしくなった。

日本にもまだこのような川渡しが残っていることに驚く。
ちなみに月曜日が定休日のようなので、乗りたい方は月曜日と大雨の後は避けた方がよいだろう。

ただし、この小紅の渡しは裏街道なので、本来の中山道ではない。今の河渡橋あたりの「河渡の渡し」が中山道であったようだ。

〈長良川沿いを下る〉

〈根尾川にかかる寺田橋〉

〈長良川の支流根尾川〉
 河渡(ごうど)の宿に入った。

なるほど、長良川を渡ったところの宿だから河渡宿なのかと納得。

英泉は、河渡の画題に「鵜飼」を選んでいるが、弥次さんの故郷岩国の錦川でも錦帯橋のほとりで鵜飼がおこなわれている。

そういえばテレビを見ていたら、「サントリーBOSS」のCMで宇宙人ジョーンズが鵜匠になって、錦帯橋をバックに鵜飼をしていた。
伊吹吾郎扮する鵜飼の師匠と家に帰ると、杉田かおる扮する奥さんから「給料は?」と問われた伊吹は「出ちょらんよ・・・」と答えるが、胸をはたかれて落ちた給料袋を取り上げられていた。子どもに向かって「早うご飯食べんさい」と岩国弁でせかす奥さん。面白いCMを作るものだね。

 おもしろうてやがてかなしき鵜飼かな 芭蕉

〈長良川にかかる河渡(ごうど)橋が見える〉
 
〈馬頭観音堂として親しまれる愛染堂 天保期以来4度の移転・再建を重ねているという〉

〈いこまい中山道 河渡宿〉

〈喜多さんは何を祈るか〉
 河渡宿は、戸数64軒で中山道では最小の宿であったという。
戦災で全戸焼失し古い建物は全く残っていないそうだ。

〈手作りの道標がありがたい〉
 河渡宿は、江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を隔て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来宿泊して大いに繁栄した。・・・

と、一里塚の説明にあるが、この河渡宿は長良川の水害に悩まされ続け、それを防ぐため江戸後期には宿全体を五尺盛り土し、それを指揮した代官を神として祭っている。(本当は54番目だけど・・・)

説明板によると文化12年6月には、未曾有の洪水にみまわれ、このままでは宿も絶えるのではと、時の代官松下内匠が宿中を五尺あまり土盛りをして、その上に家屋を改築し、文化15年に工事を完成させたとある。

〈河渡宿 一里塚跡碑〉

〈時の代官を神として祭る松下神社〉

〈碑は太平洋戦争の戦災で壊れ一部しか残っていない〉
 
〈本田(ほんでん)地蔵堂 延命地蔵〉
 街道のあちこちに秋葉神社はあるが、このように洋風の門扉に守られた神社は初めて見た。

設置した人は、ちょうどいいサイズの扉があったと思ったのかも知れないが、神社にライオンの取っ手のついたベルサイユ風門扉は似合わないと思う。

〈洋風門扉の秋葉神社〉
 
〈本田代官所跡〉
 
〈さぼてん村〉
  
〈ハウスの中はサボテンのこどもだらけ〉
  
〈そうか サボテンはこうして出荷されるのかと目からうろこ〉
さぼてん村

 街道の左手に延々とサボテンのハウスが続く。

これはすごい。初めて見るね。サボテンはこうして育てて出荷していたんだね、と弥次喜多道中は興奮気味だ。

あまりにもたくさんありすぎて、鉢に一つずつ入れてある姿がイメージできない。

その先の樽見鉄道の踏切を渡ると美江寺宿へと入ってゆく。

〈樽見鉄道 美江寺駅〉
【第55次 美江寺宿 本陣1軒 脇本陣0軒 旅籠11軒 濃尾地震の震源に最も近く1軒を残し全壊した】

〈木曽海道六十九次之内 みゑじ 広重画〉

〈右岐阜加納ニ至ル 左北方谷汲ニ至ル〉

〈美江寺宿名所・遺跡図〉
美江寺

 この地域は長良川や揖斐川などの氾濫によくみまわれていたので、奈良時代の初めこの地域を氾濫から守ろうと考えた住民たちは、伊賀国にあった十一面観音をここへ移し大伽藍を建立して祀った。

それ以来川の流れが穏やかに美しくなったので、人々はこの寺を美江寺と呼ぶようになった。

その後斎藤道三によって、この寺は岐阜(当時は井ノ口)に移転させられたが寺名だけは残ったという。

〈美江寺宿 美江神社 高札場跡〉

〈美江神社の中に復元された高札場〉

〈中山道美江寺宿跡〉
 
〈虫籠窓の残る家と本陣跡〉
 美江寺宿は美江寺の門前町として発展した宿場で、町並みはL字型に曲がっている。

江戸時代の地図の通りの道を歩いてゆくと、「右大垣赤坂ニ至ル」の道標があった。ちょうど休憩できるようになっていたので、しばし休憩することにする。


〈右大垣赤坂ニ至ル 左大垣墨俣ニ至ル〉
 
〈広重の風景に似た川と千手観音像〉
  
〈神明神社とその先の赤い橋〉

〈中山道跡地案内〉

〈かつての中山道はこの位置でこの幅だった〉
 
〈小簾紅園(おずこうえん)へと続く田園の道〉
 
〈揖斐川を渡って赤坂宿へ向かう〉

〈このあたりはずっとこの道標があって安心 ここは呂久〉

〈良縁寺〉
小簾紅園(おずこうえん)

 天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり、赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納(岐阜)の新路線が栄えた。

これが江戸時代の初期に整備されて五街道のひとつ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
慶長15年(1610)ころ、この呂久の渡しの船頭屋敷は13を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭8人、助務7人が置かれていた。

そのころの川幅は平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだと言われている。

文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、そのおり船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて『落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ』と詠まれた。

〈呂久の渡し 呂久渡船場跡〉
 後に和宮様のご遺徳をしのび、昭和4年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした小簾紅園が建設され、昭和45年(1970)には巣南町指定の史跡となった。

この地呂久の渡船場は、大正14年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成により、この地より東に移り現在の揖斐川水流となり、長い歴史を閉じることとなった。


ということで、大正まではこの地に揖斐川が流れていたのを、改修工事により水流を現在の位置に変えたということらしい。

〈和宮も渡った揖斐川渡船場跡碑〉

〈落ちてゆく身と知りながら・・・の碑〉

〈まったく未練がましいと怒る喜多さん〉
 喜多さんはまたもや未練がましいと怒るが、まあ、そうはいっても現代の京都のお嬢さんが、東京に嫁に行くのとはわけが違う。

喜多さんいわく、「ま、このあたりは京にも近いから多少の未練がましさと愚痴を言うのはわかる。しかし、江戸に着くまでずっと文句を言い続けるのはいかがなものか。」と手厳しい。

先ほどからのどが渇いて自販機を探しているのだがどこにもない。
公園だからあるだろうと探し回って見たが、やはりない。
ないと思えば、ますますのどが渇く。

〈小簾紅園〉

〈この橋を渡ると大垣市に入る〉

〈左木曽路 右すのまた宿〉
 この道を降りたところに街並みがあったので、中山道は右に折れるのだが、まっすぐ行ってみるとあった。

飲み物の自販機があることがこんなにありがたいとは、東京や横浜に住んでいる人にはわからないだろう。

小学生が買っていたので後ろで待っていると「こんにちわ」と挨拶してくれた。田舎の子供はいいね。

冷たいCCレモンと水を飲みほしてやっと生き返った弥次喜多道中は、続きをめざして西へ向かう。

〈この道は左下に下りる この先に自販機はあった〉

〈中山道三廻り半碑〉

〈中山道七廻り半碑〉
 三廻り半とか、七廻り半とかいうのは、要するに道がくねくねと曲がっていることの総称なのであろう。

いくつかの曲がり道を通って、近鉄養老線の踏切を越えれば、もうすぐ赤坂宿だ。

本日はこの赤坂宿の美濃赤坂駅から2駅先の大垣駅までJRで行き、大垣駅近くの「ロワジールホテル」に宿泊する。

美濃赤坂駅から大垣駅までは東海道本線から出た盲腸のような支線だが、あくまで東海道本線なのだそうだ。

〈白山神社〉
 今日の行程は約20kmで距離は大したことないのだが、やはり平坦な舗装路だけで、山道よりかえって疲れる感じがする。

まして西に向かう旅で、夕日に向かって歩くものだから、まともに夕日を浴び続け、それを避けるために帽子のつばで顔を守るから、どうしてもうつむいて歩くようになってしまう。

木曽路や十三峠、琵琶峠を歩いた時とは違う疲労が残る。

〈一里塚跡がさびしい〉
 
〈赤坂宿の火の見櫓が見えてきた〉
【第56次 赤坂宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠17軒 関ヶ原の戦の前夜まで東軍が陣を張った地】

〈木曽海道六十九次之内 赤坂 広重画〉
 
〈広重が描いた杭瀬川と河港の赤坂港と川灯台〉
赤坂港

 しゃれた建物があったので覗いてみると、管理人のおじさんが「どうぞお入りください」と言ってくれた。この常夜灯は、この地が東海道桑名までの川船の港だった名残で、燈台の役目をしていたのだそうだ。

時刻はちょうど5時。閉めかけていたのをまた開けてくれたので、靴を脱いで中を見学させてもらう。

このあたりは大理石の産地で、国会議事堂にも使われているそうだ。そんなわけで大理石の展示が多い。

このあと美濃赤坂駅がわかりづらく、ひと悶着あったが、なんとか無事に大垣駅へ。駅ビルの居酒屋で飲んだ夕食のビールと焼き鳥がうまかった。明日も頑張って歩こう。

〈赤坂宿本陣跡〉

〈美濃赤坂駅に続く豪邸〉
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