〈二十六日目〉 平成22年4月25日 日曜日 晴れ 鵜沼宿〜加納宿
【第52次 鵜沼宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠25軒 木曽川をはさんだ対岸には犬山城が】

〈木曽街道 鵜沼ノ驛 従犬山遠望 英泉画〉

〈犬山橋からの犬山城遠望〉
 和田宿の「本亭」や、細久手宿の「大黒屋」のような歴史的建築に泊まるのも悪くないが、やはりビジネスホテルが気楽でよい。鵜沼駅の近くでホテルを探したが無いようなので、木曽川を渡った愛知県犬山に「犬山ミヤコホテル」を予約した。今はネットで簡単に空室確認と予約ができるので大助かりだ。

昨日は、ホテルから徒歩5分の犬山駅前の居酒屋で一杯飲みながら食事をした。今日は6時過ぎにはチェックアウトをして続きを歩くことにする。食事がついていない気楽さだ。この「犬山ミヤコホテル」は外観は古びているが、内装はリフォームしたばかりのようでどこもきれいで好感が持てた。

〈犬山ミヤコホテル〉

〈JR鵜沼駅には環境音楽が流れている〉

〈近代的で清潔なJR鵜沼駅〉
 犬山駅から2駅の名鉄新鵜沼駅で降り、連絡道でJR鵜沼駅側に向い、昨日歩き終えた赤坂の地蔵さんのところまで戻る。

JR鵜沼駅はつい最近建て直したのだろう、御覧のように非常に近代的な駅舎だ。外のベンチに座っているとかすかに音楽が聞こえてきたのであたりを見回すと、スピーカーからさりげなく音楽が流れている。

山崎町の信号から国道21号線を赤坂地蔵の方に戻っていると、大きな樽の上に寝転んでいた犬が飛び降りすり寄ってきた。パンでもないかとリュックを探してみたが、何も入っていなかった。残念でした。

〈犬がなつく〉
 鵜沼駅から10分ほど歩いて、昨日歩き終えた赤坂の地蔵さんまで帰ってきた。今日はここからのスタートだ。

いま歩いているのは岐阜県各務原市だが、泊まったのは愛知県犬山市だ。木曽川をはさんで県が違うが、中山道は愛知県は通らない。

〈赤坂の地蔵さん〉

〈鵜沼宿をゆく〉
 中山道鵜沼宿町屋館があったが、現在の時刻は朝の7時だ。見学ができるようだが当然開いていない。

鵜沼は宇留間
(うるま)とも書き、古代からの交通の要衝で、宇留間(売間)の市が立った所といわれる。

明治42年に濃尾大地震の壊滅的な打撃を受けており、現在宿場の遺構はほとんど見ることができない、と物の本には書かれているが、このように保存されている家屋もある。

〈中山道鵜沼宿町屋館〉

〈景観重要建造物〉

〈文化庁 登録有形文化財〉
 鵜沼という地名には馴染みがうすいが、岐阜県各務原市に属する。

鵜沼宿から加納宿(岐阜駅)にかけては、名鉄各務原線とJR高山本線に沿って中山道は続いている。

和田峠や、十三峠のように線路から大きくはずれた旧道では、病気やけがなど不測の事態が起こった時に一抹の不安があるが、御嵩宿から先は旧道に沿うように線路が走っているから精神的な安心感がある。

〈鵜沼宿道標〉
 このあたりは尾根を歩いている感じで、左手に再び犬山城が見えてきた。この丘に最初に城を築いたのは織田信康(信長の叔父)で、天文6年(1537)のことだった。小牧長久手合戦(1584)の際には、羽柴秀吉は大坂から12万人の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦った。

元和3年
(1617)からは尾張藩の付家老成瀬隼人正成が城主となり、幕末まで続いた。明治4年(1871)に廃藩置県で廃城となり天守閣を除くほとんどは取り壊されたそうだが、明治24年に再び成瀬家の所有となった。
驚くのは平成16年まで成瀬さん個人所有の城だったのだそうだ。現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有になっている。さらに驚くのは、現在の当主になっている成瀬淳子さんは、数年前まで弥次さんのいる会社に勤められていたそうで、部署が違うから全く知らなかった。

〈左手(南)に犬山城が見える〉

〈石仏が並ぶ〉

〈衣裳塚古墳〉
 朝ごはんを食べずに歩き始めたから、どこかの喫茶店で昨日のようなモーニングセットを食べたいところだ。東京などでは20年くらい前までは喫茶店がそれなりにあり、モーニングセットを出していた店もあったと思う。でも普通は、コーヒーがたとえば400円で別にモーニングセットを注文すればプラス200円とかのシステムだったと思う。

ドトールとかマックとかの台頭で普通の喫茶店はほとんど姿を消した。今になって名古屋から「コメダ珈琲店」が東京圏にも進出し、昔ながらの漫画がゆっくり読めて長時間粘れる喫茶店が復活してきた感がある。

〈国道から外れた旧道は車が少なくて助かる〉

〈キリマンジェロ〉

〈コーヒーの付属品〉
 なんかこじゃれた喫茶店があったので入ってみようと思ったが、モーニングやってますとも何とも書いていない。

ま、なきゃないでコーヒーだけ飲もうと入って、「モーニングセットはないんですか」と聞いてみた。「モーニングセットはないんですよ。うちのセットだけです」よくわからないが、ホットコーヒー380円を注文して待つこと5分。出てきたのはモーニングセットではないのか。これをモーニングセットと言わずして何がモーニングセットか。ドン!!
(テーブルをたたく音)

〈昭和食堂〉
 トースト、ゆで卵、野菜サラダ、餡とシナモンシュガー、びっくりするのは里芋とタケノコの煮物。

運んできた女性に聞いてみた。「飲み物を注文するとどれでもこれが付いてくるんですか」「そうですよ、この辺じゃまだうちは少ない方です」恐るべし、中京文化圏。

お客はほとんどが近所の夫婦、親子づれといったところで、380円でこれだけ食べられて、週刊誌でも見てゆっくりできれば毎日でも来たいところだ。横浜の家の近所では、朝マックが関の山だ。うらやましい。

〈しばらく国道21号線を歩く〉
川崎重工各務原工場

 三柿野駅を高架で越えた先の右手には、広大な川崎重工各務原工場の敷地が広がる。

左手は「航空自衛隊岐阜基地」だから、この工場で製作された飛行機ができたてほやほやで納入されるのだろう。川崎重工のフェンス脇には自衛隊機が展示してあった。

〈川崎重工 各務原工場〉
 自分が理系人間でないから、航空機のような金属の塊が空を飛ぶものを作るというだけで尊敬してしまう。

三菱重工にしても川崎重工にしても、日立や東芝や新明和などの軍需産業にかかわっている会社は、いかにも男の職場という感じがするね。

そういえば、姪のYちゃんの旦那は、航空自衛隊の管制官だ。こんな所で働いているんだろう。

〈航空自衛隊の管制塔〉
 六軒という地名に、六軒一里塚跡碑があった。六軒というからには、その昔六軒の家があったというところだろう。

東京の三軒茶屋に学生時代少し住んだことがあるが、この手前には二十軒という名鉄の駅があった。

〈旧中山道六軒一里塚跡〉
各務原市民公園

 まだ時刻は10時前だが、先ほどコーヒーを飲んでから1時間半くらい経つので一休みすることにする。この公園は広大で、塀や柵がないことで開放感あふれる空間になっている。だいたいこのような広い土地は、もと火薬廠とかの国管轄だったところが多い。もとは何だったのだろうと考えていたらその先に説明板があった。
各務原市民公園は、世界的な建築家黒川記章氏のデザインによる市民のセントラルパークです。その特色は、
一、全面芝生
一、旧岐阜大学の古木を保存
一、公園内外に垣根を設けず街並みへの波及効果
一、隣接する新境川桜並木との一体化


いかにも役人が会議のレジュメとして書いたような味気ない説明板だ。

〈公園のベンチで一休み〉

〈芝生の広がる美しい公園〉

〈文学的素養のない説明板〉

〈黒川記章氏設計の公園だそうだ〉

〈新境川の桜並木〉
 各務原市が一体化をめざした「新境川の桜並木」を過ぎ、さらに西に向かって歩いていると、「手づくりあげぱん義十郎」の看板が。
普通の民家で手づくりあげぱんを作って売っているようだ。食指が動く。この先でもふつうの民家で手作りプリンの看板を出している家があった。

喜多さんもケーキとかパンとか作るのが得意だから、横浜の家の前でも売ってみたらと仕向けると、家の前を通るのは近所の人だけだからお金をもらうわけにはいかないという。それじゃ、最初から気持ちよくさしあげた方がよい。

〈手づくりあげぱん義十郎〉
 中山道も加納宿あたりの都会になってくると、造り酒屋さんもビルになっている。

この造り酒屋さんは「榮一」という銘柄のお店のようだが、「今年もうまい酒が搾れました」「蔵 見学できます」という張り紙がしてある。蔵の見学に気持ちが動くが、時間がもったいないので続きを歩くことにする。

〈今年もうまい酒が搾れました 榮一〉

〈新加納一里塚 旧中山道は左の道〉
 ここは、間の宿新加納だ。左のまっすぐの道が旧中山道。右にカーブする道は、自動車を通すために新しくつくられたのだろう。

新加納一里塚の写真を撮っていると、60代半ばという感じの男性がやはり写真を撮りに来た。おっ、中山道を歩いている同好の士か・・・と思ったら、その先に京都ナンバーの車をとめていた。

奥さんは、車から降りずに助手席で待っている。ちょっと安易だね。少しは歩いてほしいね。

〈右京都の道標〉

〈これが本当の境川 この川を渡ると各務原市から岐阜市に入る〉
 勅使河原さん
中山道てくてく旅 「ガンバッテ」ください
元気でね!!

という手書きの応援が貼ってある家があった。

細久手宿の大黒屋に泊まった勅使河原さんの記帳によると、街道てくてく旅で中山道を歩いたのは2006年のことだ。ということは、この貼り紙は4年間も張りっぱなしということだ。

〈ガンバッテください〉

     〈懐かしい東芝のマークが この先あんな事態になるとは・・・〉        〈左木曽路の道標〉

〈手力雄神社の鳥居 しめ縄が珍しい形〉                〈しめ縄のしっぽが蛇のように巻きついている〉
手力雄神社

 手力雄神社があったので少し横道にそれて鳥居のところまで行ってみた。赤い鳥居には大きな変わった形のしめ縄が。いろいろな神社に行っているけど、こんな形のしめ縄は初めて見た。

歩いてくる途中で立ち寄れば街道のすぐ近くだったのに、参道に来てしまったから神社までは相当距離があるようだ。この鳥居で満足して引き返す。

〈切通の由来〉
 お見合いできます!結婚できます!
     結婚塾
 お問い合わせはつね川呉服店へ

結婚できます!はわかるが、お見合いできます!というほど、現代はお見合いもできないのだろうか。

いつの間にお見合いは廃れてしまったのだろうか。アメリカにはお見合いのシステムがないから、自分で相手を探すしかなく大変だということを若いころに聞いたことがある。お見合いを世話してくれるおせっかいおばさんがいなくなったということであろうか。

〈結婚塾〉

〈伊豆神社の昇格記念〉
 伊豆神社の昇格記念が気になる。
誰か部長か役員にでも昇格した記念に石碑を奉納したのかと思ったが、そんなわけはない。
神社の格付けはよくわからないが、この伊豆神社の格があがった記念のようだ。

〈岐阜女子高校近道の看板〉
明治水

 明治水といういかにも古そうな看板が屋根の上に残っている。帰ってから調べるとこの「明治水」とは目薬のブランドで、ロート目薬、大正目薬、大学目薬と肩を並べて売られていたようだ。

そういえば大学目薬というブランドは、弥次さんの小さい頃はテレビでも宣伝していた記憶がある。どこに行ったのかと思ったら、大学目薬は田口参天堂が明治32年に発売したのだそうで、今の参天製薬の製品だったのだ。サンテドウというCMが懐かしい。
ロートロートローート ロートロートローート ロートせ〜いや〜く〜、と大量の鳩が飛ぶCMも懐かしい。

〈明治水の看板〉

〈細畑の一里塚 こんな街中なのに両側に残る〉

〈西京道 加納宿まで八丁 伊勢名古屋ちかみち 笠松まで一里 中山道は右へゆく〉
【第53次 加納宿 本陣1軒 脇本陣 1軒 旅籠25軒 家康は西国大名の反乱に備え加納城を築いた】

〈木曽海道六十九次之内 加納 広重画〉

〈加納城ではなく金華山の頂上に岐阜城(稲葉山城)が見える〉
岐阜と岐阜城

 中山道から右手の山頂にお城が見えてきた。あれは岐阜城、かつての稲葉山城だ。古くは井ノ口城、金華山城ともいったという。金華山の山頂に立つこの城は、斎藤道三が城主となったこともある。このあたりは信長以前は井ノ口という地名であったが、斎藤龍興を追い落とした織田信長が「岐阜」と地名を変え、岐阜城を新たに築いた。

司馬遼太郎の「国盗り物語」には、『古代中国を統一した王朝である周帝国のそもそもの発祥は、陝西省
(せんせいしょう)の岐山(きざん)であった。信長はその岐山の岐をとり、岐阜という文字をえらんだ』とある。むろん信長にそのような素養があったわけではない。沢彦(たくげん)という禅僧に新しい地名の案をいくつか出させ、「岐」の縁起をきき、即座に岐阜の名をえらんだそうだ。

〈加納宿に入った〉
 その斎藤道三・織田信長も通ったであろう道をいま歩いている。明智光秀もこの地を訪ねているし、羽柴秀吉の頃の豊臣秀吉は蜂須賀小六を使いこの稲葉城を攻略した。その時、一人の猟師を捕え稲葉山城への間道を案内させたことが、この城の陥落に結びついたという。その猟師の名を「堀尾茂助」といい、このあと秀吉の家来となり、累進して豊臣家の中老職をつとめ、遠州浜松十二万石の大名にいたる。

司馬遼太郎の受け売りであるが、歴史とはなんと面白いものかと思う。しかし、喜多さんにはあまり興味がないようだ。

〈中山道加納宿案内〉
 新しもの好きの信長が、岐阜という地名に変えた時のもとからの「井ノ口」の住人は、たとえば2003年に4町2村が合併し「南アルプス市」という名前に変わったような違和感を覚えたかも知れない。南アルプス市の地元では違和感を持っている人が多いと聞く。しかし、その地名が信長が本能寺で殺されたずっと後に、明治になってから「岐阜県」と名付けられたという面白さ。

 家康はその「岐阜」という地名を嫌い、慶長6年
(1601)岐阜城を破却し、広重の絵に出てくる加納城を奥平信昌に築城させている。その際岐阜城の天守や櫓などを加納城に移築したと言われているそうだ。家康は信長が天下を取る思いを込めて付けた「岐阜」という地名を忌み嫌ったという。

〈御鮨街道とは〉
 岐阜を改め加納としたこの町は、地図を見ると今も加納だらけだ。

岐阜駅の周辺には、
加納本町、加納新町、加納清野町、加納水野町、加納黒木町、加納本石町、加納青藤町、加納黒木町、加納永井町、加納朝日町、加納奥平町、加納鉄砲町、加納花ノ木町、加納長刀堀、加納沓井町・・・

加納という地名への誇り、こだわりが伝わってくる。

〈左 西京〉
 『美濃を制するものは天下を制する』といわれたそうだが、歩いてきてこの地の豊かさを思う。

広大な美濃平野、京に近く不破の関があったこと。

関東以北の武田信玄、上杉謙信たちも最終的には天皇の住まわれる京をめざした。

〈中山道加納宿東番所跡〉
 家康が岐阜城を破却させ築かせたという「加納城大手門跡」碑が交差点にあった。

中山道はこの交差点の手前を右に折れるから、かつての大手門の近くを中山道は通っていたことになる。広重の描く絵の通りだ。地図で確認すると現在は岐阜大学付属小学校・中学校の敷地になっているようだ。

その南には加納城跡が公園になっているようだが、石垣のみが残るだけで、本当に単なる跡地になっているみたいだ。

〈加納城大手門跡〉
 この建物は旧加納町役場で、歴史的建造物として壊さずに保存しているのだそうだ。

ただし崩壊の危険があるらしく、手前にはロープが張られ立ち入り禁止になっていた。

〈旧加納町役場〉
 載せるほどの写真でもないが、『中山道加納宿当分本陣跡』という見慣れない石碑が建っている。当分本陣?初めて見るね。なんだろね。と二人で不思議がっていたのだが、これは本当の本陣が利用が多く手いっぱいで足りなくなったので、当分の間本陣として使用することになったから当分本陣なのだそうだ。

脇本陣でもなく、当分本陣という呼称が正しいのだろうか。あくまでお宅の本陣は仮の本陣で正式な本陣ではないからね、という公儀の上から目線が感じられる。

〈中山道加納宿当分本陣跡〉
 中山道加納宿本陣跡には立派な家が建っていた。
皇女和宮御仮泊所跡ということになっているが、仮泊とはどういう意味だろう。 説明板を見ると・・・

 皇女和宮の歌碑

仁孝天皇の皇女、和宮親子内親王は将軍徳川家茂との結婚のため、文久元年(1861)十月二十日京都桂御所をご出発、中山道を通行して江戸に向かわれた。同年十月二十六日当地加納宿本陣の松波藤右衛門宅(現在地)に宿泊された。その時、自分の心情を詠まれたという歌が伝えられている。
遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿もたちうかうけり


ええ〜い、未練がましい!と喜多さんの怒りが聞こえてきそうである。

〈中山道加納宿本陣跡 皇女和宮御仮泊所跡と歌碑〉

〈中山道はまっすぐに〉                  〈岐阜駅への道〉                〈岐阜駅〉    
 岐阜駅で昼食を食べることにする。
駅ビルをぐるりまわって決めたのは「あお井」という美濃うどん屋さんだった。
喜多さんは「きのこおろし ざるうどん750円」、弥次さんは「飛騨牛肉おろしぶっかけうどん880円」
あまり期待していなかったが、よく冷水でしめてあり、のど越し最高。
非常にうまいうどんであった。喜多さんは東京にも店がないか聞いていた。
 
その後、予定通りの時間に犬山のホテルに戻った弥次喜多道中は、車で昨日心残りだった犬山城の見学に向かう。
日本には国宝の城が4つある。北から松本城、犬山城、彦根城、姫路城だ。
(その後松江城も国宝に〉
その中でもこの犬山城が最も古い城であります、と説明板に書かれている。

500円也を払い天守閣にのぼってみた。
さすがに天守からの眺望は素晴らしい。かつての城主たちは、毎日この景色を眺めていたのであろうか。

〈天文6年(1537)創建 国宝犬山城の天守閣〉

〈犬山城天守閣から北 鵜沼方面〉

〈犬山城天守閣から西 岐阜・大垣方面〉

〈犬山城天守閣から東 歩いてきた木曽方面〉
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