〈二十五日目〉 平成22年 4月24日 土曜日 晴れ 御嵩宿〜伏見宿〜大田宿〜鵜沼宿
 気候の良いうちに出来るだけ歩いておきたい。

3年越しの中山道を、何とか今年中に京都三条大橋まで歩きたいと思う弥次喜多道中は、
先月に続いて御嵩宿から加納宿までの約38kmを西に向かうことにした。

横浜の家を4時過ぎに出発した平成の弥次喜多は、8時半には予定通り本日の宿「犬山ミヤコホテル」の
駐車場に車を置かせてもらい、名鉄広見線で、前回たどり着いた「御嵩駅」まで戻り続きを歩き始めた。

〈名鉄広見線の終点御嵩駅〉

〈名鉄広見線の赤い電車〉
 およそ、ひと月前に終点とした御嵩駅に、犬山から電車を乗り継いでやってきた。

本当に一ヶ月も前のことだったのか・・・と思うほど、月日の経つのが早い。なぜ年をとると時間が流れるのが早いのか検証した人がいるのだろうか。思い起こせば、小学生の頃の一週間や一ヶ月、ましてや一年は長かった。もっと時間を有効利用しなければと思う。

話がそれたが、相変わらず親切な中山道の道標のおかげで安心して西を目指すことができる。

御嵩宿を歩き始めて間もなく、「鬼の首塚」があった。


〈相変わらず道標は親切〉
鬼の首塚(天神塚)町重文

 伝説によれば、鎌倉時代の建久・正治の頃(1190〜1200)頗る凶暴で悪行三昧の男が、次月の鬼岩の岩窟に住み着き
乱暴狼藉を極め住民を大いに大いに悩ませました。
 この者は西美濃不破の関の生まれであったため、住民はこれを「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び恐れていました。
そこで正治元年(1199)人々はこの地の地頭交告源盛康様に、この惨状を訴え退治してもらうことにしましたが、盛康は京の地にあり、
おいそれと帰ることができませんでした。そこで自分の家臣4名に太郎の退治を頼み御嵩の地に帰しました。
ところが、なかなか太郎を討つことができなかったため、蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、
そのお告げの通りに四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、それを捕え首を切ることができました。
 四人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都に運ぼうとしたところ急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなりました。
すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、それをこの地に埋めました。
 これが「鬼の首塚」の由来だと言われています。首塚のあるあたりを「桶縄手」と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十辺舎一九も
この地のことを詠んだ歌を残しています。

 桶縄手 今もその名を朽ちさりき
        塩漬けにせし 鬼の首かも                                       御嵩町 御嵩観光協会


何ともよくわからない伝説であるが、御嵩町の重文となっている。
どうして頗る凶暴で悪行三昧の男が女装してお祭りにやってくるのか。
どうしてなかなか討つことのできなかった太郎が女装したら捕える事ができたのか。
伝説というものは奥が深い。


〈鬼の首塚〉

〈関の太郎首塚〉
 
〈可児川沿いにほっとする風景が広がる〉
 顔戸(ごうど)あたりで旧中山道は、可児川に急接近する。
どこか懐かしい、ほっとする風景が広がる。弥次喜多道中はしばしみとれて佇むのであった。

このあたりの旧街道はほぼ国道21号線に沿った形で、御嵩までの旧道とは趣を異にしている。

旧中山道をそのまま国道にする道を選んだ伏見宿には、ほとんど昔日の面影は残っていない。

〈左伏見宿 右御嶽宿〉
【第50次 伏見宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠29軒 木曽川の物資輸送の商業地として栄えた】

〈木曽海道六十九次之内 伏見 広重画〉

〈伏見宿の田園風景〉

〈伏見宿本陣跡〉

〈中山道は国道21号線になっている〉
伏見宿休憩所

 文化2年(1805)刊行の「木曽路名所図会」の中に、「これ(伏見宿)より西は多く平地なり、往環の左右に並木の松あり、東海道の如し」と記してあるそうだ。

右のほうから三味線を持って歩いてくる3人づれは「瞽女
(ごぜ)」で、御嵩宿で立ち寄った「願興寺(別名蟹薬師)」では、瞽女達に屋敷を与えて保護していたのだそうだ。この寺から季節を決めて地方の村落に遊歴に向かう瞽女達を広重は描いた。

伏見宿の本陣は跡碑があるだけで、後ろの建物は公民館になっている。その向いにはりっぱな休憩所とトイレが作ってあったので、ありがたく利用させていただく。


〈伏見宿休憩所〉
 その休憩所に伏見宿トピックスとして「らくだ」の説明があった。

駱駝

文政7年(1824)、伏見宿の人々を騒然とさせる出来事が起こりました。なんと、珍獣「駱駝」がやってきたのです。
 もともとこの駱駝、幕府に献上される目的でペルシャ(現イラン)から連れてこられたのですが、幕府に献上を断られたため、見世物興行師の手に渡り、各地を見世物としてまわりました。そして中山道を旅する途中、興行師が伏見宿にさしかかったあたりで病気になり、3日間ほど逗留したのだそうです。その時の記録が「御祭礼当人帳」に残されています。それによると、近隣の村々から駱駝見物のため2日間で2000人以上の人々が集まってきたのだそうです。
 駱駝を初めてみた人たちは、どんなに驚いたことでしょうね。

〈伏見宿にやってきた駱駝〉

〈伏見宿にわずかに残る古い家〉
  
〈常夜灯〉                         〈本物かと思ったら屋根の飾りの鳩〉                    〈一里塚跡〉
ランのハウスに見入る

 街道沿いに趣味で作られているらしいランのハウスが2棟あった。

ランを育てて花を咲かせることが趣味の一つの喜多さんは、物欲しそうにじっと見入るのであった。

「うちの庭にはムリだよ」と先に断っておいた。

〈ランのハウスに見入る喜多さん〉
 宿場には不似合いな讃美歌が聞こえてきた。

しゃれた建物の「ルミエール」では、結婚式が行われていた。

この頃は、キリスト教信者でもないのに教会やこのようなしゃれた結婚式場で、牧師あるいは牧師風のアルバイトの外国人に、「あなたは病める時も健やかなる時も貧しき時も富める時もこの男を夫とし、敬い助け合うことを誓いますか」などと聞かれるものだから、「はい、誓います」としおらしく宣言してみるものの、夫がリストラにあったりして甲斐性がなくなったら、さっさと別れる女性も多いと聞く。

まさか、元気で稼いでくれるうちだけ愛しますとは言えないだろう。

〈ルミエール〉

〈神前結婚式もいいけどね〉

〈神の前で誓った以上辛抱だ〉
今渡の渡し場跡

 今渡の渡し場跡に着いた。

古くから「木曽のかけはし、太田の渡し、碓井峠がなくばよい」と俗謡に唄われたように、木曽川の急流を横切る「太田の渡し」は、中山道の難所中の難所であったという。

太田宿から木曽川を渡った大田南畝は「壬戌紀行」の中で、「太田川(木曽川)を渡るには一町ばかり川上より船にのるに、流れ急にして、めくるめくばかりなり」と記している。

〈今渡の渡し場跡碑〉

〈今渡の渡し跡の公園には日本ライン下りの船らしきベンチが〉

〈コーヒーについてきたモーニングセット〉

〈目の前の木曽川を眺めながらモーニングセットをいただく〉
モーニングセット

 太田橋のたもとにある喫茶店「ホワイトリリィ」で休んでいくことにする。時刻はちょうどお昼の12時で昼食時なのだが、入口でメニューを見ると、ランチはやっていませんとある。

まあ、コーヒーでも飲んで少し休もうじゃないの。昼食は太田宿に入ってからでもいいし・・・と注文したら、出てきたのはご覧のようなりっぱな食事だった。これで400円はうれしい。しかもコーヒーはおかわり自由だ。

東京や横浜では、すでに喫茶店のモーニングセットは死滅しているから驚いた。コーヒーを注文するとトースト、野菜サラダ、ゆで卵、バナナ、オレンジ、大福もち、りんごジュースが付いてくるのだった。二人とも大満足で木曽川にかかる太田橋を渡る。

〈喫茶店ホワイトリリィ〉
 
〈木曽川の難所といわれた太田の渡しを歩いて渡る〉
【第51次 太田宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠20軒 中山道の三大難所の一つ太田の渡しがあった】

〈木曽海道六十九次之内 太田 広重画〉
 
〈日本ラインを川下りの舟が下る〉
 
〈ライン下りの乗り場〉                         〈太田宿側から振り返る 太田橋の右手にはホワイトリリィ〉
 何年か前に歩いた人のHPには太田橋の歩道はなく、自動車に触れそうな位置を歩いていた。東海道浜松宿の手前の天竜川も立派な歩道ができたばかりだったし、歩き旅にはありがたい時代になったといえる。

太田橋のたもとに日本ライン下りの乗船場があったが、お客さんの姿は見えない。
弥次喜多道中も中山道を歩くというミッションがなければ乗ってみたいのだが、ここがつらいところだ。あきらめて続きを歩くことにする。
このあと何艘か川下りの舟を見ることになるが、最初に見たのは二人だけを乗せた舟だった。二人で採算が取れるのかね・・・と他人ごとながら心配になるのだった。

〈木曽川沿いの中山道〉
岡本一終焉の地

 岡本一平終焉の地という碑があった。
岡本一平とは弥次喜多世代にはすでに馴染みのない名前であるが、明治43年に美術学校を卒業し、夏目漱石に漫画の腕を買われて明治45年に朝日新聞に入社、漫画記者となり一時代を築いた人だ。昭和23年に亡くなったというが、奥さんの岡本かの子や、長男の岡本太郎のほうが有名かも知れない。

甲子園球場のアルプススタンドという名称は、昭和4年に取材で息子太郎と野球大会に来ていたところ、前年に増築されたスタンドが観客の着衣で白く映え上がっていたところを見た太郎が「わーすごい、アルプスみたい」といったことをヒントに朝日新聞にイラスト付きで発表したことから始まったという。調べてみると面白いことを発見したりするもんだね。

〈岡本一平終焉の地碑〉
 
〈太田宿は木曽川に沿った宿〉
  
〈太田宿は古い町並みが残る宿〉                                                       〈小松屋〉
小松屋と酒造御代桜

 旧小松屋(吉田家住宅)というのが見学自由になっていたので入ってみた。

案内の女性によると、この小松屋は江戸時代に伊勢参りなどの旅籠を営んでいて江戸時代末期の建物というが、昭和57年の洪水で木曽川の堤防が切れ、水が天井近くまで来たのだそうだ。
だから今の建物はその後改修したものだという。

宿場案内図を見て木曽川が近いなとは思ったが、川の近くに住んでいるとそういうこともある。

〈桝形の道が残る〉
  
〈酒造 御代桜〉

〈太田宿脇本陣 表正門〉

〈りっぱなうだつ国重要文化財〉
太田宿中山道会館

 太田宿中山道会館に立ち寄ってみる。

歩いてきた各宿では、それぞれ工夫を凝らして資料館や美術館などを公開している。

弥次喜多道中は、できるだけそれらに立ち寄りその地元の特色をつかみたいと思っている。

この中山道会館でも、江戸時代の旅の携行品などの展示があったが、やはり中山道三大難所「木曽のかけはし、太田の渡し、碓井峠がなくばよい」と言われたこの太田の渡しの説明に力を入れていた。

〈太田宿中山道会館〉
 弥次喜多道中が碓井峠を越えたのは平成20年10月のことだった。初めての本格的な峠越えで、熊除けの鈴も用意し少し緊張したが、思ったほどのこともなかった。

木曽のかけはしを通過したのは平成21年5月のことだった。美しい木曽川の流れを堪能しながら歩いた。そして、ここ太田の渡しを歩いて渡ったのは平成22年4月。

江戸時代と違って、平成の中山道はどの道も整備してあり、三大難所というには少し恐れ多い気がする。
むしろ平成の難所は、上松宿手前の歩道のない国道であり、埼玉県の何も史跡が残っていない国道沿いをひたすら歩く退屈さではなかろうか。

〈旧太田宿本陣門〉
承久の乱

 承久3年(1221)に起こった「承久の乱」の木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が、木曽川をはさんで戦いました。このあたりが戦場の北端であったと言われています。(可児側が幕府軍、太田川が朝廷軍)

承久の乱、懐かしいですねー。
高校時代の日本史の時間を思い出しますねー。

こうして街道を歩くと、戦いの跡がそこかしこに残り、昔はいろいろな人たちが戦って来たんだなーと、改めて感心するのです。

〈虚空蔵堂と承久の乱古戦場跡〉
坪内逍遥ゆかりのムクノキ

坪内逍遥(1859〜1935)は安政6年、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれました。
 その後、明治2年父の引退にともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。
 18歳にして上京し、明治16年東京大学を卒業すると、文学論「小説神髄」や小説「当生書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となりました。また、演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の礎を築きました。
 逍遥の明治42年から20年間にわたる「シェークスピア全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。
 大正8年には、夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、このムクノキの根本で記念撮影をしました。逍遥61歳でした。

〈坪内逍遥ゆかりのムクノキ〉
 
〈木曽川を日本ライン下りがゆく〉

〈うらやましい 弥次喜多も乗りたい〉
 
〈美しすぎて言葉も出ない〉
 どうですか、この美しさ。

このあたりは、「行幸巖
(みゆきいわ)」と呼ばれ、やんごとなき方々が多くこの景勝を堪能されたのだそうだ。

名所 行幸巌

 “日本ラインの景を知らずして河川の美を語るべからず”といわれた如く、正にラインの名にそむかず奇勝千変万態、水、狂うかと見ればまた油の如く、渦をなして流れ、軽舟飛沫をあびて下る。
 対岸に迫るは鳩吹山、ここ坂祝
(さかほぎ)河畔は、ライン下り第一の佳景。特に「行幸巌」からの眺望は、古来幾多の名士嘆賞の地として名高い。

昭和2年11月20日 昭和天皇 をはじめ

昭和32年7月19日 今上天皇まで 多くの皇室の方々がご覧になったと記してある。

〈名所 行幸巌の碑〉
 まったくの庶民である弥次喜多道中も、やんごとなき方々と同じ眺望を「行幸巌」から見させていただいたのであった。

それにしても、江戸時代の中山道を歩いた旅人も、このような絶景を見ながら歩けたら、疲れも忘れたことだろう。
 
〈猿啄(さるばみ)城展望台の標識があったがまっすぐに進む〉
 
〈少し河原に下りてみる〉 
  
〈廃墟となったレストランゆらぎ〉
 
〈ライン下りが気持ち良さそうに下ってゆく〉
【木曽川を離れうとう峠に】
  
〈そのゆらぎの先を下りると国道をくぐり、うとう峠に向かう旧道に〉
うとう峠

 しかし、地図がなかったらこの廃墟になったレストラン「ゆらぎ」の脇に鵜沼宿へ抜ける「うとう峠」への旧道があるなどとはわからない。

階段を下りて、小さな川に沿って国道をくぐるトンネルを抜け、さらに階段を上がったところに「←うとう峠」の道標があっても仕方ないことではなかろうか。

国道沿いのもっと目立つ所に設置して欲しい。いままで岐阜県の中山道に対する道標の親切さをほめてきたが、ここに限っては歩く人の立場で考えてと言いたい。

〈うとう峠を示す道標〉
 
〈丸木橋を渡って鵜沼宿に向かう〉
 御嵩宿から先はもう舗装された道ばかりでこのような峠道はないと思っていたので、意外な思いで歩くがやはりこのような道の方が中山道らしくてよい。

うとう峠に入る手前の国道沿いの上り坂に「岩屋観音」があり、長野県から続いている「中山道」の緑の矢印があったが、指している方角が微妙で確信が持てず、岩屋観音にはいかずに国道を歩いた。後で調べると、江戸時代の中山道はその「岩屋観音」を通る道で、木曽川の眺望が素晴らしかったらしい。

事前に予習をしてはいるものの、なかなか見逃してしまうところも多い

〈これが最後の峠〉

〈うとう峠にさしかかる〉

〈石畳に桜の花びらが積もる〉
うとう峠の一里塚

 うとう峠には、一里塚が残っている。説明板によると・・・

 各務原地域を通る中山道は、慶安4年(1651)にそれまでの木曽川を越えて犬山善師野から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山沿いを通り、ここ「うとう峠」を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。うとう峠の「うとう」とは疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。このうとう峠と鵜沼宿の間は十六町(約1.8km)におよぶ山坂で、長坂・天王坂・賽の神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。
 うとう坂の一里塚は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ「北塚」「南塚」が残っています。北塚は直径約10m、高さが約2mで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。

〈うとう峠の一里塚〉

 歩きているときはこの説明板をじっくり読まなかったので、この削られた小山がかつて一里塚だったとは気付かなかった。

こんな平地なのにどうしてここだけ切りとおしになっているのだろうと思って写真を撮ってきたのだが、なるほどこれは一里塚だ。

それにしても昭和20年から65年も経っているが、一里塚というものはよくよく押し固めて作ってあるものだと感心する。削られたままの姿で崩壊せずに残っていることに驚く。

〈兵舎建設のため半分壊された南塚〉

〈旧中山道から犬山城が見えてきた〉
犬山城

 正面に犬山城が見えてきた。

本日はこの赤坂の地蔵さんで終了。旧中山道を離脱して、鵜沼駅に向かう。

予定では電車で犬山駅に戻りホテルに帰るつもりであったが、目の前に犬山城が見えている。近そうなのでお城まで歩くことにする。

〈赤坂の地蔵さん〉
鵜沼駅

 JR鵜沼駅は、名鉄各務原線新鵜沼駅と通路でつながっていて非常にきれいな駅だ。

地図で見るとちょっと離れているように見えたが、りっぱな通路でつながれていて便利だ。

JR鵜沼駅から入り、名鉄新鵜沼駅側に下りて犬山城を目指す。

〈JR鵜沼駅と名鉄新鵜沼駅〉
 
〈木曽川沿いにそびえる犬山城〉
 残念ながらお城の見学は4時半までで、天守閣に登ってみることはできなかったが、明日帰りによってみようと思う。

実は弥次さんはちょうど20年前に、中京地区の某銀行のご招待で名古屋で行われたデザイン博に来た時に、この犬山城を見学したことがある。あの時は夕食を食べながら鵜飼いの見物もした。

それからの20年の間に、名古屋城、松江城、松山城、松本城、掛川城、小田原城、広島城などいろんな城を見学したが、現存する最古の城はこの犬山城だ。

〈城下町のたたずまい〉
 弥次さんの故郷の周防岩国も、吉川6万石の城下町だ。

岩国城は、徳川の一国一城令で破却されて戦後に建て直されたものだが、この犬山城の天守閣は天文6年(1537)に創建された時のものだという。

そのような蘊蓄で、今夜は犬山駅前の居酒屋で盛り上がろうと思う。

〈岩国と似たような匂いがする〉
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