〈二十四日目〉 平成22年 3月28日 日曜日 曇り 細久手宿~御嵩宿
 昨日、大黒屋に宿泊したのは、我々弥次喜多道中を含めて3組だった。
いや、1組と一人旅2名と言ったほうが正しいだろう。

朝食は、前日に7時半でお願いしておいたのだが、一人旅の男性と女性は、
7時に済ませてしまい、顔を合わさないうちに出発してしまった。
二人とも今日は太田宿まで歩くつもりのようだ。
でも我々弥次喜多道中は、今日は次の御嵩宿までのつもりだからゆっくりの出立でも大丈夫だ。
  
〈泊まった部屋の様子〉
  
〈長押のこうもり〉                                                       〈金箔の引き戸にはラップがかけてある〉
大黒屋

 大黒屋の通された部屋は二階の二間続きの部屋だった。

床の間には、掛け軸が掛けられ花が活けてあるのだが、御覧のように壁紙は破れたままだ。

いかにも古そうな書が掛けてある。「山を負いて満楼を抱く」とでも読むのだろうか。為酒井氏 鄭奄枼とあるので、この旅籠に泊まった中国か朝鮮の人が主人の酒井さんのために書いたのだろう。

部屋に旅人用のノートが置いてあったので読んでいくと、2006年10月10日にNHKの番組「街道てくてく旅」で中山道を歩いた勅使河原郁恵さんの文章もあった。このころはまだ弥次喜多夫婦は街道歩きに目覚めていなかった。NHKでこのような街道歩きの番組をやっていることも知らなかった。

〈街道てくてく旅で泊まった勅使河原さん〉
 こうしてノートを読んでいくと、中山道を歩いている人の多さに驚く。そのうちのほとんどの人が東海道も歩いている。

1年にどのくらいの人がこの大黒屋に泊ってこのノートに記していったのだろうかと数えてみたら、去年1年間で40数名の人が書いていた。このノートはこの部屋専用みたいだから、想像するに1年に100組くらいの人は大黒屋に泊って中山道を通過しているのではないだろうか。弥次さんも1ページをまるまる使ってしっかりと街道歩きの面白さを主張してきた。

隣で部屋に置いてある本を読んでいた喜多さんが、「この部屋で水戸天狗党のなんとかいう人が切腹したんですって!」などと物騒なことをいう。そんなことを言われてもどうすることもできないので、おとなしく寝るしかない。

〈大黒屋の朝食〉
  
〈食事に使った部屋〉
 朝食をいただいて宿泊代を払おうと奥をのぞいたら、土間にきれいな土人形が飾ってあった。このあたりでは、昔から土で人形を作り、行事が済んだら川に流したのだそうだ。
こんなきれいな人形なのにもったいない。

江戸時代のものではないようだが、古いものでは大正から昭和初期のものだという。

中山道に面した部屋にはギャラリーが作ってあって、そちらは改築したらしくきれいになっていた。

夕べ、地元の人が集まって宴会をしていたが、このような集まれるスペースがあって地元の奥さんは大助かりだろう。

〈土製の人形〉
  
〈古い木でモダンな空間が〉                                 〈ギャラリーでは地元の作家が人形の展示をしていた〉
 そういえば、昨夜の料理のことに触れなかったが、一言でいうと非常にうまかった。
山の中だから、やはり魚は川魚だし、子供が好きそうな料理はないが、一つ一つがおいしい。
あまごの塩焼きも、鯉の甘露煮も、里芋の団子も絶品だった。
しかし、つい食べるのに夢中で写真を撮るのを忘れた。
 
 ギャラリーで御主人と若女将は愛想よく案内をしてくれて話をうかがっていると、奥からおばあさんが
出てこられた。そして、渡されたのが「晩秋の細久手宿」と、「“大黒屋の人々”吉之助じいさんのこと」という
女将さん酒井房子さんのお書きになった文章だった。

大黒屋の女将「酒井房子さん」はお元気で、昔の細久手宿のことなどをいろいろと伺った。
「何歳になられますか」と聞けば「大正12年生まれの86歳」とのこと。

ちょっと長いが、「晩秋の細久手宿」という酒井房子さんのエッセイを載せておく。
晩秋の細久手宿    酒井房子

 遠き幼き日、「行って参りました」。学校から帰ると、磨りへった上がり端(はな)にカバンを据えて
表に出ると、手拭いをかぶった母が石ころ道の端に莚(むしろ)を敷いて、茶色になった豆の枝を並べ、
木槌で叩いて白い実を出して居る。西を向いても東を見ても、猫の子一匹通っていない静かな里の
秋であった。子供心にも寂しいなあと其の光景が昨日のように鮮明に脳裏に残っているが、
今の細久手宿の表通りは、あの頃とはまったく様相が変わってしまった。車の騒音に明け暮れている
毎日で、子供や年寄りは危なくて仕様がない。

 中山道はその昔、徳川幕府がその成立と同時に重要道路として造られ、出来たのが慶長8年、
東は大湫、西は御嵩で、其の間がすこし遠すぎるため、その後、7年遅れて細久手宿が設けられた。
江戸から数えて48番目の宿である。此のあたりは尾張藩の領地で、大黒屋は尾張藩指定の本陣で
ある。少し下手に公儀の本陣、脇本陣があったけれども、今はもう跡形もない。安政5年に起きた3回
目の大火で細久手宿は、一軒を残して、あと焼けてしまった。

 かねがね私の家は何年に建ったのかなと思っていた矢先、大修理の時、縁の下から「安政6年12月
吉日米九合清七」と書いた木片が出てきたので、築後150年と云うことがはっきりした訳である。きっち
り建てこんでいた町並み、宿場風情を残す重々しい格子戸のある家も、次々壊されて、もう、大黒屋
だけになってしまった。

 文化10年の記録によると、1日の通行人が550人、宿屋の25軒とあるので、往時の賑やかさを想像
することが出来る。現在は約60軒、人口180人と減ってしまい、このありさまは現在の社会情勢を反映
して寂しい限りである。

 明治、大正と、だんだんさびれて、この草深い山里を訪れる人も少なく、置き忘れられたような寒村に
一時期終戦を前後して亜炭の採掘により、方々から人々が集まってきて、少しは活気のあった時代に、
人に薦められて大黒屋の扉を開いたのが昭和26年4月、料理旅館として営業を始めたわけである。
私は若かったし、其の商売が嫌だった。其れでもいつしか仕方なく、いらっしゃいませ、が口に出るよう
になり、いろいろ覚え、身を粉にしてよく働いた。

 あれから幾星霜、時は移り変わり、亜炭が石油になり、土地ブームが来て、結構其の後も忙しかった。
そして東海自然歩道が出来、東から西から、それぞれ歩いて来て此処で一泊し、また歩いて中山道を
完歩する人が増えた。なかには、方々の道を歩くけれど恵那から細久手の間が一番昔の面影が残って
よいと云って、この街道を探索される人も多い。

 私は元々、秋はもの淋しくて気が滅入ってしまうからあまり好きではない。紅葉した山々を背に、すすき
の穂が旅立ちの前に風になびいている。熟れた柿の実が夕日に美しく照り映えている。好きなコスモスが、
もう少しの命と語りかけるように咲いている。振り返ると私も此の地に生を受け85年。知らぬ間に老いてし
まった。其の内、皆さんと同じように中山道を歩いてみたいな、と思っていたが今では足が弱ってしまい、
思いもかなえられそうになく残念である。山の木々も高くなり遠望もできなくなったけれども、春には春の
花が咲き、秋には秋の実が熟れる。そしてなにより、人情味豊かなこの山里が好きである。

                                  瑞浪市日吉町細久手 大黒屋 0572-67-2518
 どうですか。80代半ばのおばあさんの文章とは思えない詩情あふれるエッセイではないですか。

しばらく歩いてから、「写真を撮らせてもらえば良かったね」と喜多さんに話したのだが、魅力的なおばあさんであった。

もう8時半近い。あまりゆっくりもしていられないので、そろそろ出発することにする。

〈大黒屋から御嵩宿をめざす〉
  
〈細久手宿本陣跡〉
  
〈サーキットへ向かう改造車が次々と通り過ぎる〉
山中のサーキット

 先ほどの酒井房子さんの文章に、「車の騒音に明け暮れている毎日で、子供や年寄りは危なくて仕様がない」という一文があった。

こんな田舎にそんなに頻繁に車が通るの?という疑問はこれですっかり氷解した。

昨日歩いていた時に聞こえていたサーキットに、名古屋あたりから朝早く走りにやってくる若者がたくさんいるのだ。
少し歩く間に、2~30台の走り仕様の車とすれ違った。

でも、弥次喜多が道の端によけると、走り屋の若者は少し頭を下げて恐縮がるのであった。根はたぶんいいやつなのだろう。

〈次々に通り過ぎるレース仕様車に腰がひける〉
くじ場跡碑

 旧中山道くじ場跡という石碑があった。

今は何もない道路の脇にポツンと石碑があるだけだが、その昔は駕籠かきたちが大湫宿や御嵩宿への荷の順番を決めてたむろしていた場所だという。

〈旧中山道くじ場跡〉
  
 今日は昨日と違って朝から曇りで、大黒屋のご主人によれば、3時くらいまでは雨は大丈夫のようだ。

宿を出発して30分足らずで「左中山道西坂」の碑がある。
また、自動車道から外れて山間の道に入る。

 道の反対側には誰が作って置いたのか、かなり思い入れの強い石碑が路傍にあった。細かい文字でびっしりと彫ってあるが、ちょっと読んでみる。

〈左中山道西の坂碑〉
瑞浪市内旧中山道の影
 (文字の間違いが多いのでたぶん地元の人が勝手に彫って置いたのでは・・・)


之より先千三百米一里塚迄瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた中山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残て居る一里塚より可児町に通している
一、道か東西南北に向て居る診(珍)らしい所
一、石室の中に観音像三体祭る
一、旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻
一、切られヶ洞
一、一里塚京へ四十一里江戸へ九十三里路上及一里塚付近よりの眺め
一、東に笠置山恵那山駒ケ岳
一、西に伊吹山鈴鹿連峰

一、北に木曽の御嶽山加賀の白山
一、南に遠く美濃平野に尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見ることもできる

〈瑞浪市内旧中山道の影〉
 早速、その「旧中山道の影」に紹介されていた「石室の中に観音像三体祭る」があった。

秋葉坂の三尊石窟

 細久手と御嵩宿の間は三里(約11.8km)。細久手宿から中山道を西へ、平岩の辻から西の坂道を上ると三室に分かれた石窟があります。
 右の石室に祀られているのは、明和五年(1768)の三面六臂(顔が三つで腕が六本)の馬頭観音立像。中央には一面六臂の観音座像が、左の石室には風化の進んだ石仏が安置され、石窟の右端に残る石燈籠の棹には天保十一年(1840)の銘があります。
 なお、ここは、石窟のすぐ上に秋葉様が祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれています。

〈秋葉坂の三尊石窟〉
家付き地蔵

 大井宿からの旧道に祀られている馬頭観音や地蔵菩薩は、このように屋根つきの石窟に鎮座されているのが多い。

石仏といえども野ざらしにしたくないこのあたりの人々の優しさだろう。

〈集合住宅に住まわれる〉
 
〈切られヶ洞〉
 
〈鴨の巣一塚〉
 美しい竹藪が延々と続くのだが、あまり手入れされていないようで、びっしりと密生している。

少し間引いてやった方が良いと思うのだが。

〈緑美しい竹藪が続く〉
  
〈里に下りてきた〉                                                       〈山内嘉助屋敷跡〉
山内嘉助屋敷跡

 竹藪の山中を過ぎると視界が開け人里に下りてきた。

坂道を下る途中に「山内嘉助屋敷跡」という石垣跡が残る場所があった。
ここからの見晴らしは素晴らしい。
この山内嘉助さんという人は、江戸時代酒造業を営み、中山道を通行する諸大名の休憩場所として、また旅する人々を泊めたとも伝えられているそうだ。

しかし、いまは石垣が残るだけで草ぼうぼうの湿地となっていた。

〈久々の常夜灯〉
たんぼの巨石

 右手に広がる田園風景を眺めながら歩いていると、田んぼの中にごろんと横たわる大きな岩が目についた。

山から転がり落ちてきたのだろうか。
それにしては、山は結構遠いし、大きな岩もこれ一つだけだ。

〈田んぼの中の巨岩〉
 民家の多少建ち並ぶ道に出ると、左手に不思議な自動販売機が目についた。

中身を見てみると、「シイタケの原木」とか「くり」とか書いてあって、300円とか500円とかの値段がついている。

〈不思議な自販機〉
 自動車道から右に折れる小道が旧中山道だ。

車両の通行は御遠慮ください、と表示されている。

このように車が通らない旧道を歩くのは本当に気持ち良い。

〈御殿場に向かう中山道〉
 道のスペースを確保するためだろうか。
木や植物が植わっているのに土をえぐってある。

木の根はどこに向かって生やせばよいのか困るであろう。

〈木の根はどこへ向かえばよいのか〉
  
〈しずかな里の旧道を歩いて馬の水飲み場に着いた〉
馬の水飲み場

 
ここは物見峠といい、道路の両側に計五軒の茶屋があり、十三峠の前後のこの地であれば往来の馬もさぞのどが渇いたであろう。
存分飲みなさいと北側に三か所の水飲み場が設けてあった。

〈馬の水飲み場〉

〈若い女性が一人で歩いてゆく〉

〈御殿場展望台から見える山々〉
御殿場

 文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、十四代将軍家茂公のところに輿入れしました。その際、一行が休憩する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。
 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、四千~五千人にも及ぶ大行列でした。近隣では十月二十八日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嵩宿にて休息、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。
 中山道が別名「姫街道」と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。


御殿場跡からは、左手に御嶽山(3,067m)、正面に笠置山(1,128m)、右手には恵那山(2,191m)見えるそうだが、あいにくの曇り空で全く見えなかった。残念。

〈御殿場〉

〈ラ プロバンス〉

〈すごい行列〉
ラ プロヴァンス

 御殿場の向かいに、La Provinceというケーキ屋さんがあったので、軽い気持ちでケーキとコーヒーでひと休みしていこうとしたのだが・・・

裏から入って入口にまわってみてびっくり。10人以上の人が列を作って入店を待っている。

喜多さんなどは、「こんな山の中にある店じゃつぶれてるんじゃないの」などと失礼なことを言っていたのに。
時間がもったいないのでコーヒーとケーキはあきらめることにした。

駐車場には、名古屋ナンバーの車もたくさんいたから有名な店なのだろう。

〈まだ10時だというのに駐車場もいっぱい〉
唄清水

 年中絶えることなくわきでる清水は、昔時中山道を上り下りする旅人に疲れと渇きをいやしていたであろう。

この碑は嘉永7年(1854)千村源征重臣が建立。

「馬子唄の響きに浪たつ清水かな」五歩

〈唄清水〉

〈謡(うとう)坂〉
 坂を下りきったところに、竹炭という大きな看板が出ている家があった。

廊下の窓ガラス越しに「竹酢液」とか「竹炭」とか展示してあって、売ってもいるようなので、喜多さんは「竹酢液」を買っていきたいと玄関を開けようとしたが、開かない。

商売っ気のない竹炭屋さんであった。

竹酢液
(ちくさくえき)とは、竹を蒸し焼きにして炭にするときに煙突からでる煙を採取し、それを冷却することで液化させたもので、その中には200種類以上のポリフェノール類や、酢酸、アルコール類などの化学物質が含まれているのだという。

喜多さんは、植木や花の除虫に使いたいのだという。

〈中山道謡坂 竹炭〉
一呑清水

 
中山道を旅する人々にとって、一呑清水はのどを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所でした。
 江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ、大変気に入り、のちの上洛の際、永保寺(現岐阜県多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられています。岐阜県名水50選の一つ。

とあるが、「この水は生水での飲用はしないでください」とあった。

〈一呑の清水〉

〈十本木立場跡〉

〈十本木一里塚へ向かう追分〉
謡坂十本木一里塚

 御嵩町に4か所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治41年に2円50銭で払い下げられ、その後取り壊されました。

 この一里塚は昭和48年、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。


とのことで、確かに文明開化のころには邪魔者扱いされてもしかたないところだろう。

復元に尽力された地元の方たちには頭が下がる。

〈謡坂十本木一里塚〉
【第49次 御嵩宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠28軒 可児大寺と呼ばれる願興寺の門前町として誕生】

〈木曽海道六十九次之内 御嶽 広重画〉
  
〈広重が描いたきちん宿はこの場所だという〉
広重の描いた御嵩宿の風景

 喜多さんが熱心に説明板を見ているが、ここは広重が描いた「御嵩宿」の木賃宿の場所なのだそうだ。

説明板には、

広重の作品の中に「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。

とあった。

〈謡坂石畳〉
謡坂石畳

 謡(うとう)坂の地名の由来は、このあたりの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」とと呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。
 険しくつづく山道、道の上をおおうようなたくさんの木々、足もとに生える草花など、謡坂の風景は今も当時の中山道の風景を色濃く残しています。

 この謡坂石畳は平成九年から十二年度にかけて、「歴史の道整備活用推進事業」として修復整備したものです。

〈謡坂石畳説明板〉

〈←耳神社 一呑清水→〉

〈棄てられ朽ちた哀れな一軒家〉
  
〈耳神社への石段〉 

〈これが耳神社〉
耳神社

 
全国的に見ても珍しい耳の病気に御利益があると言われる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本借りて耳にあてます。病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも、竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んですだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。

 元治元年(1864)武田耕雲斉が尊王攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。 

                                 御嵩町 御嵩観光協会

〈耳の病気が治ったお礼に錐(きり)を奉納する〉
 
〈←牛鼻欠け坂〉
 
牛の鼻欠け坂

 御嵩方面から上ると牛の鼻が地面にすれて、鼻を欠くほどの急坂だったことから「牛の鼻欠け坂」と呼ばれたのだというが、確かに上ってくるのはつらい坂だ。

中山道は、東からは歩きやすく、西からは大変なように作ってあると聞いた。大きな川に橋をかけさせなかったように、西から江戸に攻め込みにくくするためだったという。

だから、現代も中山道を歩いて踏破する人は江戸から京に向かったほうが幾分楽だと思う。

〈牛の鼻欠け坂碑〉
 
 左 細久手宿 八三〇〇米、右 御嵩宿 三五〇〇米の道標が田んぼの脇の追分にあった。

ということは、朝大黒屋を出てから8.3kmを歩いてきたということだ。
本日の終点御嵩宿までは、あと3.5km。ゆっくり歩いても1時間で着く距離だ。

今の時刻はまだ11時、12時過ぎには着いてしまうペースだ。
なるべくあちこち見ながらゆっくり歩くことにする。

〈右 御嵩宿3500米〉
 昨年の春には、上野の国立博物館で奈良興福寺の「阿修羅像」の展示があったので見に行ったが、この路傍の石像も阿修羅像と同じく、三つの顔と六本の腕を持った三面六臂像だ。

秋には、奈良正倉院展を見学したついでに、興福寺で再び「阿修羅像」を見学しようとしたが、二時間待ちだったのであきらめた。

東京や奈良などの人の集まるところでは、美術展とか仏像展などあるとびっくりするほどの人の波で、ゆっくり見ることなど難しいが、中山道では心ゆくまで鑑賞することができる。

〈阿修羅像と同じ三面六臂像〉
和泉式部廟所

 和泉式部廟所が国道の脇にあったので立ち寄る。

和泉式部は平安時代の女流作家で、和泉式部日記などを残している。和泉式部は心の赴くままに旅をして御嵩のあたりまで来て、病に倒れこの地で亡くなったという伝説があるのだという。

「和泉式部の廟所」といわれる所は全国に数か所あるらしいので、本当にこの地で亡くなったのかはわからないが、そのこ
から東山道としてこの中山道は旅人が歩いていたのだ。 

〈和泉式部廟所〉
 
〈御嵩宿に入った〉
  
〈御嵩宿にも古い町並みは残る〉
御嵩宿

 賑やかな御嵩の町並みに入った。

ずっと山の中のいい雰囲気の道を歩いてきたが、これからの中山道はもう山中の道はないのだという。

東海道のように、ひたすら舗装された道を歩くことになるらしい。

商家竹屋という建物があったので入ってみる。この大きな商家は明治10年ころ建てられたものだそうだ。入口に先ほど買えなかった「竹炭液」があったので喜多さんは買って帰ることにした。

〈商家竹屋〉
  
〈中山道みたけ館〉
中山道みたけ館

 中山道みたけ館という郷土館があった。
このあたりは、明治時代に亜炭が見つかって、一時大いに栄えたことがあったらしい。
その亜炭を採掘する道具や亜炭層などの展示もあった。

さあ、本日の終点名鉄御嵩駅が見えてえきた。
時間はまだ1時だから次の宿まで歩いても良いのだが、心の準備ができていないので
予定どおりこの駅から名古屋駅に向かうことにした。

今回の旅も無事に終了。
次回は、斎藤道三や織田信長ゆかりの「鵜沼宿」「加納宿」を旅する予定だ。

〈この中山道の突き当りが名鉄御嵩駅〉                                  〈可児薬師とも呼ばれる願興寺 重文の二十四体仏像がある〉
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