〈二十三日目〉 平成22年3月27日 土曜日 晴れ 大田宿〜大湫宿〜細久手宿
 一日も早く続きを歩きに行きたいが、冬の美濃路は寒そうだし、十三峠や琵琶峠で雪に降られたら凍死してしまうかも・・・と喜多さんと話していたが、少し暖かくなってきたので、3月の3連休を利用して続きを歩く話がまとまった。新横浜を6:27発の「のぞみ3号」に乗れば、名古屋駅に7:53着。特急「ワイドビューしなの3号」に乗り換え、恵那駅には8:41着。3連休だから車はたぶん大渋滞で使えないので、少し高くはつくが、今回は往復新幹線と特急を利用することにした。

細久手宿で江戸時代から続くという、尾張藩指定本陣の「大黒屋」も予約した。現在の建物は安政の大火後に建てられたもので、築150年だという。創業は何と慶長年間だというから約400年前だ。

〈のぞみで新横浜から名古屋に向かう〉
 ただし、野尻宿から妻籠宿までの時のように大雨の中を歩きたくないから、「3日前に雨の予報だったら順延させてください」とお願いをしておいた。 3日前の天気予報では、恵那市の20日土曜日は降水確率50%で曇りのち雨、21日の日曜日は降水確率70%で、しかも山間部は荒れるという予報であった。

せっかくわざわざ横浜から歩きに行くのだから、気持ちよく歩きたい。大黒屋に1週間順延させてほしいと電話したら、次週も空いているという。新幹線と中央本線の指定券も取り直して、27日と28日で歩きに行くことにした。

〈さらに名古屋から特急しなので恵那まで〉
【大井宿続き】
 新横浜でのぞみに乗り込んでから2時間半後には、もう恵那駅前を歩き始めている。

歩くスピードに比べてなんと早いことか。

〈中野村庄屋の家 本酒屋〉
   

〈大井宿を十三峠に向かう〉
 

〈懐かしい看板〉

 〈犬矢来は犬のおしっこよけだという〉
中野村庄屋の家(本酒屋)

「中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。文久元年
(1861)皇女和宮が降嫁し、中山道を
通って江戸に下ることになりました。その準備に中山道の各宿場はおおわらわでした。
当時、大湫宿の助郷村であった野井村が、和宮が通行するということで岩村藩代官より強制的に
賄役
(まかないやく)につかせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代熊崎新三郎は、
和宮の通行が終わった後、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に切りつけました。
これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賄役の負担が、野井村の今後の慣例となる
ことをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。
最終的には野井村の勝訴となり、代官は罷免され野井村に金25両が下付されました。」

とのことで、幕府の力が圧倒的に弱くなってきている証明のような事件であろう。
浸水防止壁

しばらく歩くと「浸水防止壁」の説明板があった。

 田邊川が長島橋の近くで永田川に直角に流れ込んでいたため、洪水のたびに水は道路にあふれ、付近の人家に浸水した。そこで道の両側に石柱を立て、板をはめて浸水を防ぐことにしたのだという。

浸水防止壁の遺構は、道の片方にしか残っていなかった。

〈浸水防止壁〉
中野観音堂

その水があふれた川のそば、大井宿のはずれにある「中野観音堂」にお参りし、これからの道中の安全をお願いする。

〈中野観音堂〉
   

〈西行硯水では桜が満開〉
 

 〈西行硯水を覗き込む〉   〈これが西行硯水〉
西行硯水公園と西行塚

道路の左側に西行硯水公園の文字を見つけたので、道路を渡って見に行く。
説明板を読むと・・・

『文治2年(1186)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉で一年滞在
した後、木曽路を経てこの地を訪れ三年間暮らしたと言われる。歌人である西行は、多くの歌を詠み、
こんこんとわき出るこの泉の水を汲んで、墨をすったと伝えられている。』
ということだそうで、西行はいまから800年以上前にこの泉で歌を書きつけるための墨をすったのだそうだ。

その先の道路を幹線から右へ外れるところに「西行塚西三丁」の石碑がある。
弥次喜多道中は、線路を越えて「西行塚」方面に向かう。

〈西行塚へ向かう道は中央本線を越え、これからいよいよ山中に入る〉        

〈これより西十三峠の碑の前をゆく〉
その「西行塚」があった。

 「恵那市の市街地を一望できる小高い丘の上に築かれたこの塚は、歌聖西行法師の供養のために造られたといわれています。小さな塚の上には、高さ1.4メートルの五輪塔が立っており、形式的には室町時代末期のものと推定されます。西行がこの地で入寂したという伝説は古くからあり、慶長十九年(1614)に書写された当市大井町の長国寺に伝わる『長国寺縁起』に終焉の様子が細かく記されています。西行塚は、大田南畝(蜀山人)の旅行記「壬戌紀行」(1802)や、秋里籬島の「木曽路名所図会」(1805)など、江戸時代の出版物に登場し、古くから中山道の名所の一つとして有名で、今も大切に祀られています。」
平成18年3月 恵那市教育委員会

〈伝西行塚〉

〈西行塚から中央アルプス・恵那山方面を望む〉   〈西行塚にはスイセンが咲き乱れる〉

〈十三峠の石畳〉

〈槇ヶ根一里塚 道の両方に残る〉
槙ヶ根一里塚

 槇ヶ根一里塚は、道の両側にちゃんとこんもりとした小山が残っている。
このあとも、何ヶ所かこのように両側に残っている一里塚を見たが、江戸時代の旅人は
なるほど、一里歩いては一休みする目安にしたのだろうと思わせる立派さだった。

〈天気も最高、景色も最高〉
道標

 自治体の姿勢について考える。

中山道を23日かけて日本橋から大井宿まで歩いてきたが、その間に通過したのは東京都、埼玉県、群馬県、長野県、岐阜県だ。中山道に関してだけ言えば、岐阜県が圧倒的に歩く旅人には親切だ。ほとんど地図を持たずに旧中山道を歩ける。追分には必ずと言っていいほど道を示す矢印がある。本当にありがたい。
長野県では道案内がなく、間違った道から何度引き返したことか。

〈自動車道に合流〉
 親切には違いないのだが、「茶屋水戸屋敷跡」の表示だけがしてあるのは、これはこれで頭を悩ませる。解説がどこにもないから、想像してみるしかない。

かつて、この街道が賑やかだったころ、水戸屋敷という茶屋があったのだろう。今は何の痕跡もなく、竹藪になってしまっている。しっかり想像力を働かせれば、茶屋で憩う旅人の姿も見えてくる。

〈茶屋水戸屋敷跡〉
 このように、分岐点には必ず道を示す案内があり、見落としさえしなければ正しい中山道をたどって行ける。

この場合は、道なりにまっすぐ行ってしまったら間違いだ。矢印の指し示すように、右の細い道を行くのが正解だ。

〈中山道は太い矢印の方向へ〉
案内に従って、セントラル建設の建物の脇の狭い道を進む。
〈案内の通りの道をゆく〉

〈もうすぐ槇ヶ根立場跡〉
槇が根立場の茶屋

 江戸時代の末頃ここには槇本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。そして店先にわらじを掛け、餅を並べ、多くの人がひと休みしてまた旅立って行ったと思われる。(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度が変わり、脇道ができ、特に明治35年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村に移転した。そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。

〈槇が根立場茶屋跡説明板〉
伊勢神宮遥拝所

 京都から江戸へ旅をした秋里籬島は、その様子を文化二年(1805)に「木曽名所図会」という本に書いた。そしてその挿絵に槇が根追分を描き、追分灯籠の横にしめ縄を張った小社を書いている。ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。

お伊勢参りをしようと江戸を出立して、路銀を使い果たしこんなところで手を合わせて遥拝しただけで帰った人もいるということか。

〈伊勢神宮遥拝所説明板〉

〈伊勢神宮への追分 右京大坂 左伊勢名古屋の道標〉
 この道標から左に下る道を行けば伊勢神宮に至る道なのだそうだ。
中山道を「上街道」、名古屋・伊勢に向かうこの道は「下街道」と呼ばれたそうである。

東海道を歩いている時も、あちこちに伊勢に向う追分があった。
四日市宿の先には「日永の追分」が、関宿には伊勢神宮の鳥居のある追分があった。
いつかここから伊勢神宮まで歩いてみるのもいいね・・・と、弥次喜多は夢を語るのであった。

それにしても、江戸や北関東から中山道をここまでたどり着いて、伊勢までの旅費や時間がなくなり、
この遥拝所で伊勢の方角に手を合わせただけで帰るなんて、あまりにもかわいそうだ。

〈馬頭観音〉

〈旧中山道沿いには石仏が多い〉
姫御殿跡

 下街道の追分のすぐ先に「姫御殿跡」という石碑があった。説明板を読むと、
『ここを祝峠といい、周囲の展望が良いので、中山道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき子持ち松といった。この子持ち松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起が良いといわれていた。そのためお姫様の通行の時などに、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。文化元年(1804)十二代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さざのみや)のご通行の時は、六帖と八帖二間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)十四代将軍家茂のもとへ下向した和宮のご一行は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったといい伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。』

 〈姫御殿跡〉

〈子持松跡〉

〈これが子持松 確かに松笠が多い〉
子持ち松

 確かに普通の松よりは圧倒的に松笠の数は多い。昔は、正月に子孫繁栄を祈って「数の子」を
食べるように、お姫様といえども子の多い松にあやかりたいと思ったのであろうか。

〈首なし地蔵〉
首なし地蔵

 この地蔵様は宝暦六年(1756)地元(武並町美濃)の人たちが、旅行者の安全を祈って建てたものである。
その後地蔵様は、下街道沿いの丘の上に移され、春の桜のころに地元の人が集まって盛大な祭典を行っている。

この地蔵様にはこんな話が残っている。
昔、二人の中間
(ちゅうげん)がここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。
「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が
目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したが、それらしい犯人
は見当たらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切りお
としてしまった。それ以来、何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。

〈乱れ坂を下る〉    〈中山道 乱れ坂の碑〉
乱れ坂と乱れ橋

 大井宿から大湫宿までの三里半(約14km)には、西行坂や権現坂などの数多くの坂道があり、
全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠のひとつで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の
息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために「乱れ坂」と呼ばれるようになったという。
このほかに「みたらし坂」とか「祝い上げ坂」ともいう。

坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資
して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋をかけた。この橋は「乱れ橋」あるいは「祝い橋」といい、
荷物を積んだ馬(荷駄)一頭につき2文づつ銭を徴収する有料橋の時もあったという。

平成15年3月  恵那市教育委員会

〈お継原さかをゆく〉
   
 
〈中山道 お継原坂〉
   

〈平六茶屋跡〉
 

〈かくれ神坂〉
 
〈平六坂〉

〈リュックを持っていないけど歩き旅らしき人に出会った〉

〈紅坂一里塚〉
 

〈江戸へ八十九里 京へ四十五里 道の両側に残る〉

〈気持ちの良い中山道を歩く〉

〈ぼたん岩〉
 

〈ぼたん岩 ぼたんと言われればそうかもしれないと言わざるを得ない 道の真ん中に大きな岩が〉

〈でん坂〉  〈二十二夜石塔〉
 @お継原坂、Aかくれ坂、B平六坂、C紅坂、Dでん坂といくつもの坂を上り下りしてきた。十三峠という名前は、峠が13あるということではなく、たくさんあるという意味での名前らしい。実際は十三峠におまけが七つといわれ、20の峠があるのだという。喜多さんは途中まで指折り数えていたが数え切れなくてあきらめた。深萱立場へ0.8kmの道標の先に小さい集落があった。左に丸く刈り込んだ植木にボールが差し込んであり、顔に見えるのが面白くカメラを向けたら、後ろで子供の声がした。

幼稚園から小学生くらいのこども4人が縁側に座り、棒アイスを食べながら「こんにちわ〜」と挨拶してくれた。一番大きい子は「気を付けて行ってくださ〜い」とおませなことを言ってくれる。

 〈木に顔があってもいいじゃないか〉
佐倉宗五郎碑

 佐倉宗五郎碑があった。名前は聞いたことがあるので、どんな人かと調べたら、『佐倉藩主堀田上野介は悪政を布いたため、領内の百姓が苦渋を極め飢餓に瀕した。その時印旛郡公津村の名主「木内宗五郎」は、まず国家老に門訴、次に江戸家老に訴え最後に正保元年十二月二日上野に御成の将軍に直訴した。そのため宗五郎の一門は極刑に処せられた。』
ということで、義民として講談や歌舞伎・映画でヒーローとして扱われる人だった。でも、下総国佐倉藩の話なのにどうして岐阜県のこのあたりに碑があるのか説明がなかったのでわからない。

〈佐倉宗五郎碑〉

〈三社灯籠〉

〈藤村高札場〉

〈深萱立場の休憩所 未完成であったが昼食をとった〉
深萱立場

 「立場とは、宿と宿との間にある旅人の休息所で、「駕籠かき人足が杖をたてて、駕籠をのせかつぐ場所」と言われている。深萱立場は、大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など十余戸の人家があって、旅人にお茶を出したり、餅や栗おこわといったその土地の名物を食べさせたりしていた。立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台のついたりっぱな建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬にあたらないような工夫がされていた。

ちょうどその立場の位置に休憩所ができていた。トイレもあったが、鎖で鍵が掛けてある。ベンチもテーブルも真っさらだ。駐車場で工事をしている人に聞いたらあさってが検査・引き渡し日だそうで、2日早かったけどしっかり休ませてもらった。たぶん休憩者第1号だ。

〈山形屋 渡辺家〉

〈ここは中山道の深萱立場〉 
ここは中山道の深萱立場

 深萱立場には数件の茶屋があり、多くの旅人たちの憩いの場となっていた。
特に立場本陣は和宮をはじめ多くの姫君や大名行列の殿様たちが御小休みされたところである。
この道は大井宿と大湫宿の三里半
(約14km)を結び十三峠という。尾根伝いの展望のよい土道が
続き、途中には一里塚や石仏や多くの茶屋跡などが残り、いまでも往時の面影のよく残る道である。
恵那市・恵那市教育委員会・武並地区中山道保存会

〈西坂碑〉 〈その先は再び山中に入る〉

〈追分で道を確かめる〉
 

〈みつじ坂〉

〈三城峠〉
ばばが茶屋

 この十三峠には確かに一里塚や石仏・茶屋跡碑などが多く、歩く旅人にとっては退屈しない旧道だ。恵那市の皆さんの熱意が伝わってくる。この石碑は、表面は字もよく読めなかったが、裏に回ってみるとこのように解説してあった。
 『この峠に茶屋があり、老婆が店番をしていたことからこの茶店のことをばばが茶屋といっていた。恵那市』
それにしても、おばあさんが店番をしていた茶店はあちこちにあったと思うが、このように「ばばが茶屋」と名付けてくれて、石碑まで建ててくれるのは岐阜県恵那市ならではではないだろうか。

〈ばばが茶屋跡碑〉

〈大きな中山道碑 もう恵那市から瑞浪市に入った〉   〈大久後の向茶屋跡〉
 山中の道から自動車道に出て、歩いてきた道を振り返る。

中津川市から恵那市に入った時にもあった大きな石碑が、恵那市から瑞浪市に入ったところにもある。
恵那駅からここまで9kmというところだ。さらに山中では登り坂・下り坂の峠が続く。

〈中山道 観音坂と馬頭様〉
 

〈観音坂〉
観音坂と馬頭様

 大井宿と大湫宿の間の三里半(約13.5km)は、起伏にとんだ尾根道の連続で
、「十三峠におまけが七つ」ともいわれ、中山道の中でも難所の一つでした。

 ここは「観音坂」と呼ばれ、瑞浪市の東の端、釜戸町大久後地区に位置しています。
坂の途中の大岩の上には、道中の安全を祈念する馬頭観音像が立ち、坂の西には
天保二年
(1841)銘の「四霊場巡拝記念碑」が建っています。さらにその西に連なる
権現山の山頂には刈安神社が祀られ、山麓には往時駕籠などをとめて休息した
大久後・炭焼の二つの立場跡が残っています。  
 瑞浪市
 

 〈これがその四霊場巡拝記念碑〉

〈灰くべ餅の出会い茶屋跡〉
 

 
〈観音堂と弘法様〉


〈権現坂をゆく〉

〈刈安神社への石段〉
 

〈鞍骨坂〉 

〈炭焼立場跡〉
炭焼立場跡

 立場というのは、馬のつなぎ場をそなえた休憩所のことです。
小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉をうるおしました。
大田南畝(蜀山人)が享和二年
(1802)に著した『壬戌紀行』に、「俗に炭焼の五郎坂というを
下れば炭焼の立場あり左に近く見ゆる山は権現の山なり」という記述があります。
ここは眺望に恵まれていたので、十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。 
瑞浪市

〈素晴らしい田舎の景色を振り返る〉   〈山売ります どなたか買いませんか〉

〈樫の木坂〉
 

〈吾郎坂〉
 

〈権現山一里塚〉
 

〈巡礼水の坂をゆく〉
 

〈山中の中山道に突然ゴルフカートが現れた〉 〈絶好のゴルフ日和〉
 多少の坂はあるが、いい気持で「巡礼水の坂」を上っていると、目の前に40歳前後の男性4人が乗ったゴルフカートが現れた。旧中山道を横切るかたちでカート道ができている。自動でいったん止まるようになっているらしく、一瞬目があったが、ゴルファーの皆さんは珍しくもなさそうな顔をして、ゴルフ談議に花を咲かせながら通過してしまった。ここは「中山道ゴルフクラブ」で、地図をみるとゴルフ場は旧中山道をはさんで造られたようだ。

弥次さんも数年前までは、年に何回かはゴルフコンペに参加していたが、思うところあってきっぱりやめてしまった。ちょうど、街道歩きを始めたのと、煙草を止めたのと時期が一緒だ。喜多さんに内緒で買った1本10万円のドライバーが物置で泣いている。

〈巡礼水と馬頭様の説明を読む〉

〈馬頭様〉
 

〈中山道巡礼水の碑〉 〈これが巡礼水〉
 巡礼水と馬頭様

 この地には、お助け清水・巡礼水とと呼ばれる小さな池の跡が残り、その上段には宝暦七年(1757)
銘の馬頭観音が祀られています。その昔、旅の母子の巡礼がここで病気になったが、念仏によって
目の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられています。
 瑞浪市

坂を下りゆくに左の方の石より水流れ出るを巡礼水という常にはさのみ水も出ねど八月一日には
必ず出るというむかし巡礼の物この日此所にてなやみ伏しけるがこの水を飲みて命助かりしより
今もかかることありといえり 
大田南畝 壬戌紀行
 

〈びあいと坂〉         〈曽根松坂〉

〈曽根松坂をゆく〉

〈阿波屋の茶屋跡〉
 E西坂、Fみつじ坂、G観音坂、H権現坂、I鞍骨坂、J吾郎坂、K樫の木坂、L巡礼水坂、Mびあいと坂、N曽根松坂と十三峠を順調に進んできた。先ほどひと休みしたところから一人旅の60歳代の男性がほとんど同じペースで歩いている。喜多さんがちょっと話をすると、やはり今日は細久手宿の「大黒屋」に泊まるのだそうだ。何しろこの先は御嵩宿に着くまで宿泊できるところは「大黒屋」だけだ。

峠の三十三観音は、このように一戸建てに住まわれているのであった。大
宿の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進だそうで、その昔は、阿波屋の茶屋で餅とお茶で憩いながら道中の安全を祈ったことだろう。

〈三十三所観音石窟〉

〈尻冷やしの地蔵尊〉
尻冷やしの地蔵尊

 昔の旅人にとって道中の飲み水は大切でした。山坂の多い十三峠では特に大切であり、ここの清水は大変貴重とされました。この地蔵尊はそんな清水に感謝して建てられたもので、ちょうど清水でお尻を冷やしているようにみえるところからこんな愛称で親しまれてきました。
 地蔵坂という坂を上れば右に大なる杉の木ありて地蔵菩薩たたせたまう  壬戌紀行

ということで、今は湧いていなかったが清水が湧き出ていたらしい。

〈今は尻を冷やしていなかった〉

〈すごい数の道標〉
 

〈しゃれこ坂〉

〈八丁坂〉

〈山之神坂〉

〈竜子根〉

〈寺坂の石仏群〉  〈十三峠の碑 ついに十三峠の終点〉
 O地蔵坂、Pしゃれこ坂、Q八丁坂、R山之神坂、S寺坂とあらためて坂の名前を数えてみれば
「十三峠におまけがおまけが七つ」の言葉通り20の坂があった。

この寺坂の石仏群の先の十三峠の碑が「十三峠」の終点を教えてくれる。中山道を歩いた人たちの
HPを見れば、この十三峠のきつさを訴えているものが多い。確かに坂道は多かったが、弥次喜多道中は
「意外と平気」というのが正直な感想であった。

翌週、喜多さんと二人で満開になった桜を見るために近所を歩いたが二人で納得した。とにかく
弥次喜多夫婦の住んでいる横浜の地は山坂が多い。我が家も標高40m位の高いところだし、弘明寺まで
歩くと一度バス通りまで下りてさらに同じくらいの峠を越え、さらにきつい坂道を下らなければならない。
知らず知らず足が鍛えられていたということだ。
【第47次 大久手宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠30軒 くてとは窪地の湿地帯のこと】

〈木曽海道六十九次之内 大久手〉

〈大宿に着いた〉   〈右京へ四十三里半 左江戸へ九十里半〉
  大宿の(くて)は、広重の絵には久手と書かれている。この宿を歩くまでという字など知らなかった弥次さんであったが、「くて」とは窪地の湿地帯をさす言葉なのだそうだ。

このような高原の山中に、突然別世界のような美しい宿が現れたことに驚く。


〈大宿は雰囲気のある家が多い〉

〈細久手←大→大井〉

〈皇女らしき焼き物が〉
 大湫宿本陣跡

大湫宿は現小学々庭にあり、間口二十二間(約40m)、奥行十七間(約27m)部屋数23、畳数212畳、別棟添屋という広大な建物で、公卿や大名高級武士たちの宿舎でした。
また 此の宮(享保十六年 1731年)
    真の宮(寛保元年 1741年)
    五十の宮(寛延二年 1749年)
    登美の宮(天保二年 1831年)
    有姫  (同年)
    鋭姫  (安政五年 1858年)
などの宮姫のほか、皇女和宮が十四代将軍家茂へ御降嫁のため文久元年
(1861)10月28日その道中の一夜を過ごされたのもこの本陣です。

和宮御歌 遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり

〈大湫宿本陣跡説明板〉
 
〈今は小学校になっている本陣跡〉
 

〈虫籠窓の家〉

〈正月でもないのにお飾りのある家が多い〉
大湫宿脇本陣跡

 この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳数153畳、別棟6という広大なものでした。今はこわされて半分程の規模になっていますが、宿当時を偲ぶ数少ない建物として貴重です。

とあるが、寄らずに先を急ぐことにする。

〈大湫宿脇本陣跡〉
神明神社の大杉

 神明神社の鳥居の奥に大きな杉が見えたので、早速鳥居をくぐってみる。

するとその先には、ちょっとびっくりするくらいの杉の大木があった。樹齢は1300年とある。

〈神明神社に入ってみる〉

〈神明神社の大杉 推定樹齢1300年〉 〈落雷で落ちた枝〉
大湫宿内臨時速報

アア良かった 驚いた中山道大湫宿のシンボル樹齢千三百余年の「大湫宿神明神社の大杉」に落雷でも流石は「御神木 天然記念物」 損傷軽微 損害皆無

やたらとを使って喜びを表しているのであった。

飾ってある木片は、落雷にあって落ちてきた枝だそうだ。樹高60m、幹周り10m、直径3.2m。蜀山人の旅日記にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり、木のもとに神明の宮たつ」とある。と説明板にあった。


〈神明神社の大杉と池〉
 この神社の池の前に腰掛けて休憩していたら、地元のおばあさんが手押し車で通りかかったので、「すごく大きな杉ですね。あちこち歩いてるけどこんな大きな杉を見たのは初めてです」と話しかけてみた。

おばあさんは立ち止まって、「そうですか。私はあまりよそへ行かないからよくわからないが、そんなにすごいですか」とか、「昔はこの杉にはフクロウがいてよく鳴いていた」とか、10分くらい世間話をした。お歳を聞くと「何歳に見えますか」と逆に聞かれた。
「うちの母親は84歳です」というと、「おない歳」だそうだ。「それじゃ、どうも、お元気で」と言って別れた。

大湫宿の説明板〉
   
追記 令和2年7月12日 (2020.7.12)

樹齢千年超のご神木倒れる 岐阜 高さ40m 大雨影響で地盤緩み(共同通信)

 ショックなニュースが飛び込んできた。

『11日午後10時40分ごろ、岐阜県瑞浪市大湫町の「神明神社」の境内にある杉が倒れたと近くの住民が119番した。
瑞浪市によると、杉はこの神社のご神木で樹齢は1200〜1300年、高さは40m以上。大雨の影響で地盤が緩み根元
から倒れたとみられる。杉の幹回りは約11mで、県の天然記念物に指定されている。当時、同市には土砂災害警報
が発令されていた。』
   
倒れてしまった神明神社のご神木

 7月4日には熊本で球磨川の氾濫をひきおこす大雨をもたらし、人吉市などで70人の死亡と10人以上の行方不明者を出した。被害は熊本県のみならず、九州全県や長野・岐阜にも氾濫被害をもたらし、ちょうど10年前に驚嘆した大杉を倒してしまった。コロナウイルスの厄災と相まって地球全体が大変なことになっている。


それにしても、ちょうど家屋を避けて倒れてくれたようで人的被害が出なくてよかった。あの話をしたおばあさんはまだお元気かわからないが、人家を直撃していたら死人が出たことだろう。

〈人家をよけて倒れてくれたご神木〉
   
大湫宿

 海抜510mの高地に、江戸から47番目の宿として、慶長九年(1604)に新たに設けられた。東の大井宿には三里半、西の細久手宿には一里半と、美濃十六宿の中では最も高く、それだけに人馬ともに険しい山道が続く難所に開かれた宿でした。東に桝形を設けた宿の中心には、今も神明神社の大杉がそびえ、古い町並みがよく残っています。
(中山道を歩く)

〈中山道 大湫宿碑〉

〈中山道大湫宿 高札場前をゆく〉
 

〈紅葉洞の石橋〉

〈小坂の馬頭様〉
 中山道 大湫宿大洞小坂

 安藤広重画 木曽海道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を画いたものである。

 広重の絵の山にへばりついたような石は、この大石を描いたもので、街道の案内書である「五街道中細見記」に「ほろ岩」「えぼし岩」と紹介されているという。岩の形からすると、広重が描いたのは「母衣(ほろ)岩」の方だと書いてあるが、正直今のほろ岩とは似ても似つかない。

〈中山道 大湫宿大洞小坂〉

〈これが江戸時代から有名なほろ岩〉
 中山道 二つ岩

 道の左に立てる大きなる石二つあり ひとつを烏帽子岩という高さ二丈ばかり巾三丈に余れり また母衣岩というは高さはひとしけれど巾はこれに倍せり いずれもその名の形に似て石のひましまに松 その外の草木生いたり まことに目をおどろかす見ものなり 

大田南畝 壬戌紀行

〈これが烏帽子岩〉
琵琶峠入口

 その二つ岩を過ぎ、左手の大湫病院を過ぎれば、いよいよ「琵琶峠」にさしかかる。

琵琶峠とは何とも雅らかな名前だが、この峠には全長600mの日本一長い石畳が残る。この石畳は、昭和45年に発見されたのだそうだ。平成9年度から12年にかけ石畳や一里塚などの整備をおこない、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました、とある。

〈琵琶峠にさしかかる〉

〈整備・復元された日本一長い石畳〉

〈琵琶峠〉

〈琵琶峠の石畳を上る〉

〈峠の文学碑 見晴らし台〉
 峠の文学碑 見晴らし台の案内があったので、中山道よりさらに山の方に上って見たが、木が生い茂って見晴らしは良くない。見晴らし台に三つの文学碑があったが、詳細に読む元気はなかった。琵琶峠の頂上に皇女和宮の歌碑があった。

 
住み馴れし都路出でてけふいくひ
 いそぐもつらさ東路のたび


喜多さんはずいぶん関東を見下したうらみがましい歌だと憤慨していた。

〈皇女和宮御歌碑〉
 皇女和宮は、中山道のいたるところで記録に残っている。
 「和宮は、弘化三年(1846)仁孝天皇の第八皇女として生まれる。時の天皇孝明天皇は異母兄であった。文久元年10月20日辰刻 (午前8時)、和宮の行列は江戸に向かった。幕府はこの時とばかりと、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数 2万人を送ったという。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り計四っの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくられたのである。」

   落ちて行く身を知りながら紅葉ばの
       人なつかしくこがれこそすれ


〈琵琶峠の頂上〉

〈八瀬沢一里塚 ここも道の両側に残る〉
 琵琶峠

 琵琶峠は標高558m、全長約1km、高低差は西側83m、東側53mで中山道の難所の一つに数えられていました。
それだけに峠からの眺望はよく、壬戌紀行ほかの多くの文献にも書かれています。また琵琶峠の石畳や一里塚、
それに文学碑や当時の石仏も残っていて、旧中山道を偲ぶことのできる貴重な史跡となっています。

〈琵琶峠西上り口〉
 それにしても、いつも思うのだが歴史というものは、時の権力者の都合のいいように作られるものだ。皇女和宮は確かに生まれ育った都から、箱根から先は鬼が住むと言われた関東に行きたくはなかっただろう。当時の女性はほとんど生まれたところから出ないのが普通だった。ましてや皇女として生まれ育ったのだから。

有栖川宮熾仁親王も婚約していた和宮を将軍家茂にとられて「こんちくしょう」と思ったことであろうが、将軍家茂は若く、性格もよく、和宮を大事にしたそうだ。しかし、幕末の心労で若くして大坂でなくなってしまった。和宮の本当の気持ちは誰にもわからないが、詠んだ歌を見る限り本心はやはり江戸へは行きたくなかったようだ。

〈琵琶峠を過ぎてもまだ石畳が続く〉
 大湫とか細久手とかの「くて」は窪地、湿地とかの意味があるのだそうだ。

道の脇はその由来の通り湿地が多い。このような高原なのにどうしてだろうと思っていたら、尾瀬も高原なのに湿地だということに気がついた。

〈地名の通り湿地が多い〉

〈犬霊塔〉    〈国際犬訓練所〉
 何かけものくさいなと思ったら、国際犬訓練所という建物があった。右手にはりっぱな「犬霊塔」まである。
ちょうど預けてあった犬を引き取りに来たのであろう、大きな犬をベンツに乗せている老夫婦がいた。
このあとは、しばらく獣の匂いが続く。
 もう時間は3時10分だというのに、30人くらいの集団で歩いている人にすれ違った。この時間に琵琶峠方面に向かっても、休むところはないし、まして宿泊施設などない。たぶん、琵琶峠の入口あたりまでバスが迎えに来るのだろう。


〈集団で歩いている人たち〉
 そうこうするうちに、細久手宿まで2.7kmの道標だ。ゆっくり歩いてもあと1時間。喜多さんは、十三峠を歩いた人のホームページを見て、かなりおびえていた。それも杞憂に終わり、何とか無事に今夜の宿にたどり着けそうだ。

先ほどからしばらく耳にしていなかった車の爆音がしきりに聞こえている。近くに「瑞浪モーターランド」と「YZサーキット」という施設があるようだ。何年か前まではいわゆる暴走族がいて、土曜の夜はこんな爆音をわざと轟かせて走っていたものだが、家の近くではすっかり聞かなくなった。これも不況のせいだろうか。

〈細久手宿まで2.7kmの道標〉

〈弁財天の池〉

〈女男松とはいったい何でしょう〉

〈奥之田一里塚〉
【第48次 細久手宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠24軒 旧旅籠大黒屋は唯一残る江戸時代の建物】

〈木曽海道六十九次之内 細久手 広重画〉

〈細久手宿高札場跡〉
 

〈細久手宿に入った〉 〈細久手で唯一のお店〉
 予定通り4時過ぎに、細久手宿で唯一の旅籠「大黒屋」に着いた。そとはまだ十分明るい。大黒屋の隣に
たばことか塩とか看板の出ている店があったので入ってみる。できたら宿でのおやつや、寝酒なども入手
できればありがたい。しかし、置いてあるのは若干のおかしとかキャンディー、カップめんなどだけで
酒類はないようだ。お店のおじさんに「酒屋さんはありませんか」と聞くと「1km先にあります」とのこと。
「う〜ん、往復2kmか」「やっぱりやめておこう」と大黒屋さんに入って行った。

大黒屋さんは150年前の建物なので、今風のこぎれいさを期待してはいけない。夕食のとき、つかず離れ
ず歩いてきた年配の男性と話をした。やはり、街道をあちこち歩いているようで、東海道、奥州街道、日光
街道も踏破したと言っていた。中山道は、和田峠だけまだ歩いていないという。

そして、びっくりしたことに女性で一人歩いている人も宿泊していたが、およそ50歳前後。この女性とは、
食事の時間が合わず一度も会話をしなかった。

〈尾張藩指定本陣 大黒屋〉
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