〈二十二日目〉 平成21年 11月28日(土曜日) 晴れ 中津川宿〜大井宿
【中津川宿続き】

〈木曽海道六十九次之内 中津川 広重画〉
 横浜から350kmも離れた中津川までわざわざ歩きに行くのだから、やはり一泊くらいはしないともったいないと思うのだが、中山道は恵那駅の先からは中央本線を大きく外れる道になるようだ。

中津川宿の先の大井宿までやっつけておかないと、次回は途中でやめて帰るわけにいかなくなる。

ということで、今回は中津川宿から大井宿までの約12kmを日帰りで歩くことにした。

〈中津川中央公民館の近くの常夜灯〉
 例によって、朝早く目覚めた弥次さんは、喜多さんを無理やり起こして4時に横浜の家を車で出発した。

本当に、休日の高速道路1,000円をありがたく思っている。こんなに有効活用している人がいるだろうか。値下げの前は車で歩きに行くことなど考えもしなかったが、やはり今のところ車が一番便利で安い。

豊田JCTから東海環状道路に入り、さらに中央高速に。
天気は快晴、東海環状道路から見える山々の紅葉が見事だ。

9時前には、前回同様中津川中央公民館の駐車場に停めさせてもらい、早朝の中津川宿を歩き始める。

〈早朝の中津川宿を出発〉
 恵那山を水源とする中津川は、西北に流れて木曽川に注いでいる。

広重の描いた中津川は、前回の章に載せた「雨の中津川」と、今回載せた「中津川橋」との2種類があるが、この絵は中津川とそれにかかる中津川橋を前景とし、後ろには中津川の宿場が描かれている。

遠くかすんで見えるのは木曽の山々だ。あの山を越えて我々の弥次喜多道中も続いてきたのだ。

〈中津川宿本町〉
  
〈中津川宿本陣跡〉                                                               〈脇本陣庄屋跡〉

〈軒先の心づかいが旅人をなぐさめる〉
  
〈蔵元 恵那山〉
 中津川宿は今は決してにぎやかとはいえない町だ。
平成17年の国勢調査では、人口84,080人となっている。

しかし、江戸時代中山道を西に上る人は、木曽の深い山を越えて広々とした中津川にほっとしたことだろう。
また、東に向かう旅人は、これからの木曽の険しい道を思って溜息をついたかも知れない。

この宿場は、西には問屋場、本陣、脇本陣などがあって宿場の中心をなしていたという。今まさに歩いているこのあたりだ。

東には穀物、塩、味噌、たまり、酒、小間物、呉服物、古着、木綿、紙類などを扱う商家が並んでいたというが、
前回栗きんとんを買った店「すや」あたりがそうであろう。

さぞ、にぎやかであったろうと思う。

〈民家の格子に広重の絵が〉

〈街道歩きにはこのようなサービスがありがたい〉
 ちょうどこのあたりが広重の描いた中津川と中津川橋ではなかろうか。天気も良いので、木曽方面の山々もよく見える。
〈中津川橋から恵那山を望む〉

〈津島神社参道碑〉                            〈馬頭観世音〉                         〈駒場村の高札場跡〉

〈東山道坂本駅道標 右阿智駅 左大井駅〉              〈小手ノ木坂の紅葉〉                        〈中山道 小手ノ木坂碑〉

〈小手ノ木坂の双頭一身道祖神案内〉

〈双頭一身道祖神〉
 中津川市指定文化財 双頭一身道祖神

石像の左上に「是より苗木道」と彫られたこの道祖神は、中山道の通称「こでの木坂」の頂にあり
「道しるべ」にもなっていて、中山道から分かれる苗木道との分岐点に置かれている。
文化13年(1816)に建立され、男女別々の頭部を持ち、肩から足もとにかけて一体となっている
珍しい形態の石造物である。
                                               中津川市教育委員会

〈中央本線と笠置山〉
六地蔵

 六地蔵と称するお地蔵さんは各地にある。

民話で有名な笠地蔵は、六体のお地蔵さんが横に並んでいるし、東海道藤枝宿では、平面に六体のお地蔵さんが彫られていた。
この中津川宿の六地蔵は、石燈の六面に彫られている珍しいものだ。


地蔵菩薩は、釈迦入仏後、無仏の間この世に現われて衆生を救済する菩薩とされ、常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるよう力を貸してくれると信じられていました。さらに六つの分身を考えて六地蔵としての信仰が平安末期に始まったと言われています。

                                          坂本地区文化保存委員会

〈珍しい形の六地蔵〉

〈刈入れの済んだ田んぼと中山道〉
 今日は、中山道を歩いている人にはまったく出会わなかったが、このあたりでやはり夫婦で歩いている人とすれ違った。

京都三条大橋から歩いているのか、それともたまたまこの道を歩いているのか聞いてみたかったが、会釈をして通り過ぎた。

歩いてきた道を振り返ると、いい感じで中山道がくねっている。

〈中津川恵那山方面を振り返る〉
 何の意味があるのか、ペットボトルを加工したらしい風車が賑やかに回っている常夜灯があった。

だいたいこのような風車は、水子地蔵に備えてあることが多いが、それらしいお地蔵さんも見当たらない。
よく見なかったが、常夜灯の手前の祠がそうであったのだろうか。

〈風車が賑やかな常夜灯〉

〈中山道は左の細い道へ〉
笠置山

 先ほどから正面に見える山の名前が気になって仕方がない。
地元の人に聞いてみたいのだが、なかなか人に会わない。

そう思っていると立派な家の前に車がとまり、上品そうな60歳くらいの女性がおりてきたので、喜多さんが「あの山は何という名前の山ですか」と聞いてみた。

すると「笠置山というんですよ」と教えていただいたのだが、弥次喜多に興味をもたれたらしく、「どちらから来られましたか」と質問された。

中山道を日本橋から歩いていることを言うと、目をまるくしてびっくりしておられたが、「それにしては日焼けしていないですね」と言われる。
女性の視点は違うものだと感心した。

〈坂本立場跡〉

〈道沿いの石仏群〉

〈地元の方に名前を教えてもらった笠置山〉
 東海道は、四日市から先は馴染みの薄い宿場名がいくつかあったが、それまでの宿場は現在の東海道とも重なり、そこそこ地名になじみがある。

しかし、中山道は最初からほとんど知らない宿場名ばかりだった。
もちろん「軽井沢」とか「奈良井」とか「妻籠」「馬籠」のように有名な観光地もあるのだが、いま中津川から向かっている宿は「大井宿」だ。恵那市だし、駅は「恵那駅」になる。

改めて見ると、東海道は江戸時代の宿場名がそのまま市の名前になっているところが多い。しかし、このあたりの中山道の宿場名は、大井、大久手、細久手と初めて聞く宿場名ばかりだ。


〈車はめったに通らない〉

〈田園風景が美しい〉

〈小さな川を渡れば恵那市〉

〈岡瀬澤の中山道碑〉
 中津川市から恵那市に入った。ここは岡瀬澤というところだ。
大きな中山道の碑がある。左右は、のどかな田園風景が続く。
【第46次 大井宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠41軒 東美濃の戦略的要衝で中山道最多の六ヵ所に桝形が】

〈木曽海道六十九次之内 大井 広重画〉

〈紅葉した里の山が美しい〉
 
〈中山道大井宿をゆく喜多さんと馬頭観音〉
 広重の有名な大井宿の絵がマンホールのふたになっている。

いま、こうして広重のデザインを見てみると、本当に素晴らしい芸術家だったことがよくわかる。

〈大井宿のマンホールのふた〉
 
〈このあたりは標識が親切で迷うことはない〉

〈甚平坂展望台の広重画〉

〈甚平坂展望台から望む御嶽山〉

〈長石塔 長国寺和尚が延宝8年(1680)に建立〉

〈上宿の女性8人で建てたという馬頭観音〉

〈寺坂の上宿石仏群 宿内へ悪人や悪病を侵入するのを遮り、無病息災を祈って建てられた〉
 この高札場の先に「南無阿弥陀仏の碑」があった。

説明板を読んでみると、武蔵の新井長左衛門という人が、伊勢参りの帰りにこの大井宿のいろは旅館に泊まった時、母のいろが病にかかり、一ヶ月の闘病の後亡くなった。
その母の供養にと石碑を建てた・・・とある。

旅に出て、国に帰ることなく病で倒れる人もたくさんいたであろう。
この武蔵の国の長左衛門さんは、母親孝行のつもりでお伊勢参りに連れ出したのであろうが、ま、母親もお伊勢参りができて思い残すことなくなくなったのではなかろうか。

〈高札場〉
大井宿本陣


 大井宿は、東美濃の戦略的要衝にあって、中山道では最多の六ヵ所に桝形がつくられている。

旅籠の数も美濃十六宿最多で41軒あったという。

本陣は表門を残し焼失したが、残る門は江戸初期のものだという。

〈大井宿の桝形にある江戸初期の本陣門〉
 本陣門を左に折れると、何かありそうな感じなので見に行ってみる。

するとふたがされた井戸があった。この井戸は、皇女和宮が東下の際、水を汲んで供したのだそうだ。しかも、お泊りの中津川宿まで運んだのだそうだ。
だから「和宮泉(かずのみやせん)」と名付けられている。

中津川宿には、よい水がなかったのだろうか。きれいな川が2本流れているし、そんなことはないだろうと思うのだが・・・。

〈和宮泉〉
中山道ひし屋資料館

 中山道ひし屋資料館に入ってみる。

豪壮な町屋建築の典型「ひし屋」

大井宿の有力な商家であった「ひし屋」古山家は、江戸時代中期以降、大井宿の庄屋を務めた家柄で、明治以後は郵便取扱役、恵那郡役所掛屋(銀行)に任命され、養蚕研究や俳諧文化の推進にも力を尽くしました。その住居は明治初年に改築されていますが、大規模で質の良い近世的町屋建築の特色をよく示しており、平成9年に恵那市の文化財に指定されました。

ということのようで、りっぱな中庭と蔵のある豪邸を見学した。

〈中山道ひし屋資料館〉
 この「ひし屋」を任されている年配の女性は、我々二人しか見学者がいないものだから、あちこち案内してくれていたが、途中で車で訪れたやはり中年のご夫婦が来られたので、勝手に見させていただくことにする。
〈ひし屋の蔵と中庭〉

〈戸長役場跡 宿役人林家〉

〈旅籠屋 角屋〉
 大井橋を渡れば、もうすぐ恵那駅に着く。

この大井橋には中山道六十九次の画が飾ってあった。

〈阿木川にかかる大井橋を渡る〉
中山道広重美術館

 恵那駅前の喫茶店で昼御飯の焼肉ランチを食べた後、すぐ近くにある「中山道広重美術館」に立ち寄ることにする。

埼玉県の桶川宿を歩いた時に立ち寄った「中山道宿場館」で、「中山道六十九次の絵はがき」はないか尋ねたことがある。

「さあ、岐阜県の広重美術館にはあると聞きましたが・・・」と言われたが、そんな先にしかないの?とがっかりした。
しかし、その「中山道広重美術館」についに歩いて到着した。

しかし、ここにある中山道六十九次の絵はがきは、ちゃんとファイルに収められていて4,200円もする。
欲しかったのは、そんなりっぱなものではなく、丸子宿の丁子屋で買った東海道五十三次絵はがき500円程度のもので良かったのだが。

〈中山道広重美術館〉
 しかし、この「中山道広重美術館」は良かった。

ちょうど、広重と巴水-日本の風景−と題して、特別企画展がおこなわれていたが、巴水という人を知らなかった弥次喜多道中は感激した。

「大正・昭和の広重」と称された川瀬巴水の風景版画が素晴らしい。版画でここまで表現できるのかと驚く。

広重もすごいが、この巴水という人の版画が手に入れば是非一枚欲しいところだ。

巴水のビデオや、版画体験コーナーで広重の大井宿の摺りを体験していると予定時間を過ぎてしまった。一時間に2本しか電車はないから、遅れないように恵那駅に急ぎ、中津川行きに乗り込む。

〈恵那駅〉
 電車で中津川駅に着いた弥次喜多道中は、また旧中山道を歩いて車の置いてある、「中津川中央公民館」に戻ることにする。

紅葉が見事なこの家は、「間家大正の蔵」といい、東濃随一の豪商といわれた間家の敷地内にあった倉庫のひとつだそうだ。

中津川商人や宿場の資料が展示され無料解放されているそうだが、時間がないのでパスすることにする。

〈間家大正の蔵〉
 その代り、その先にあった酒屋さんに寄って地酒を買って帰ることにする。

ご主人お勧めの「五味饗宴」という酒を手に入れ、これから横浜までまたドライブだ。

高速道路1,000円の特典のある土曜日だが、特に渋滞もなく順調に横浜の我が家に着いたのは夜9時過ぎだった。
  
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