〈二十一日目〉 平成21年9月13日 日曜日 晴れ 妻籠宿〜馬籠宿〜落合宿〜中津川宿 | |
【妻籠宿の朝】 | |
〈妻籠宿の定番 いこまや前〉 |
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〈旅人宿阪本屋〉 |
〈阪本屋〉 |
妻籠宿の朝 朝早く目覚めた弥次喜多道中は、早朝の妻籠宿の散歩に出た。昨日は雨が降りしきる中だったから、撮った写真がみんな暗いが、今日は快晴だ。朝霧が流れ風情のある妻籠の朝を堪能する。 朝ごはんのときに、阪本屋のご主人に「外国の人もよく泊まられるんですか」と聞くと、「ああ、多いよ。おとといもドイツ人が団体で来たよ。明日はフランス人だ。」と言っていた。トイレは水洗ではないし、風呂も小さな木の風呂だ。部屋は昔のままの田舎に帰ったような不思議に落ち着く部屋だった。ホテルでは味わえない日本の趣を求めて外国の観光客も訪れるのだろう。 |
〈早朝の阪本屋の前で〉 |
〈旅籠 松代屋の前の有名な風景〉 |
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木曽らしい石を重しに乗せた屋根の家の写真などを撮っていると、一匹の犬が猛烈なスピードで駈けてきた。その後を軽自動車で地元のおじいさんが追いかけてくる。ちょっと首輪をはずしたすきに逃げだした犬は、うれしくて駆け回っているのだろう。 犬は妻籠宿の風情ある道を縦横無尽に駆けまわる。おじいさんが車から降りて捕まえようとするが、犬はそう簡単に捕まってくれない。 |
〈木曽地方独特の石を置いた屋根〉 |
妻籠の犬がなつく しかし、弥次さんがおいでおいですると簡単に近寄ってきていい子になるのだった。 こんなに犬になつかれる覚えはないのだが、妻籠の犬は割と人なつこいのであった。 |
〈なついた犬〉 |
〈朝もやの妻籠宿 美しい〉 |
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家々の格子戸には、このように花が飾ってある家が多い。妻籠をゆく旅人の目をなぐさめる、暖かいこころ使いがうれしい。 | 〈花を飾った家が多い〉 |
〈妻籠宿の入り口の高札場と水車〉 |
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昨日歩いて入ってきた、妻籠宿の入口まで戻ってみた。昨日と打って変って天気が良いのでいい写真が撮れる。五平餅を食べた「やまぎり」もまだ閉まっている。 | 〈五平餅のやまぎり〉 |
〈リュックをしょって出発〉 |
〈背負子とざるも絵になる〉 |
妻籠郵便局には、東海道関宿を歩いた時にもあった、明治時代の黒い郵便箱が設置されている。ポストは最初から赤かったわけではないのだ。ここ妻籠の郵便屋さんは、今でも笠に法被・地下足袋姿で配達しているのだそうだ。残念ながら、早朝で姿を見ることはできない。 妻籠宿は、昭和51年に全国初の国の「重要伝統的建築物群保存地区」に指定された。弥次喜多夫婦が大学生のころだが、そういえば世に「アンノン族」なる女性たちが跋扈していた時代だった。訪れる人もあの頃は若い女性が多かったようだが、平成も21年になると、あの頃のアンノン族とそのつれあいは、それなりの年になってしまっている。 |
〈妻籠郵便局〉 |
〈萩の花と妻籠宿〉 |
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〈江戸時代と変わらない町並みが続く〉 |
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〈しかもそれぞれの家に住み続けている〉 |
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〈上嵯峨屋 昔の木賃宿〉 |
〈家々に細やかな心遣いが〉 |
上嵯峨屋は木賃宿を解体復元したもので、かつての旅人はここで雑魚寝をした。家に入ってみると、部屋の真ん中には囲炉裏があった。 妻籠宿の本陣は島崎藤村の母の生家であった。また、脇本陣奥谷家は「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき・・・」の藤村の初恋の人「おゆふさん」の嫁ぎ先だ。いずれにしても、妻籠宿と馬籠宿は藤村とは切っても切れない縁がある。 |
〈古い糸車もオブジェ〉 |
〈民芸屋さんには藁で作った大きな馬が〉 |
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駐車場の右脇の細い道を行けば、それが旧中山道だ。 東海道は民家のない所を歩くことが少なかったが、さすがに中山道の木曽路は集落を過ぎれば、たちまち山道に入る。でも、これが中山道歩きの醍醐味だ。何しろ「木曽路はすべて山の中」なのだから。 |
〈また山道に入ってゆく〉 |
大妻籠にむかう途中の家に、賢そうな顔をした犬がいた。弥次喜多道中に吠えもせず、少し首をかしげてじっと見ている。妻籠の犬とは相性がいいのか、歓迎してくれているみたいだ。 | 〈かしこそうな犬〉 |
〈大妻籠に向かう中山道〉 |
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〈大妻籠に着いた〉 | |
〈大妻籠 うだつのある民宿〉 |
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街道沿いに「県宝藤原家」の案内があったので、見学していくことにする。17世紀に建てられた家なのだそうだ。途中に、おしらせ「忠犬」の看板があったので読んでみる。 『この付近で、犬を使った有害鳥獣の追い払いを実施しています。この犬は訓練等をしていますので、人に襲いかかることはありません。もし、犬を見かけた場合は、無視をするようにしてください。』 南木曽町経済観光課農林係 なるほど、妻籠の犬はちゃんと訓練されているのだ。 |
〈お知らせ「忠犬」〉 |
〈県宝藤原家 17世紀の建築〉 |
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庚申塚 庚申講とは、人間の体内にいるという三し虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。 三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。三虫(さんちゅう)ともいい、上尸・中尸・下尸の三種類で、大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。60日に一度の庚申の日に眠ると三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされることから、庚申の夜は眠らずにすごすようになった。一人では夜を過ごすことは難しいことから、地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待ちが行われるようになったという。庚申待ちは平安貴族の間に始まり、近世に入っては、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。 |
〈中山道庚申塚〉 |
〈大妻籠庚申塚の民宿 籠が飾ってあった〉 |
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〈大妻籠から石畳の道にはいる〉 |
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〈つづら折りの石畳をひと組の夫婦が追い越して行った〉 |
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〈そば畑の白い花がきれい〉 |
〈山中の中山道〉 |
〈国道へ合流〉 |
〈すぐに橋を渡って旧道へ〉 |
〈国道を越えてまた石畳の道へ〉 |
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神居木 このあたりの道は、昨年7月に母親と3人で車で通ったところだ。そのときには、中山道歩きはまだ埼玉県を抜けたばかりで、倉賀野宿までしかたどり着いていなかった。この道を歩けるのはいつのことやらと思っていたが、1年たってこうして馬籠峠に向かう道を歩いている。あれから1年、弥次喜多道中は碓井峠を越え、和田峠を越え、塩尻峠を越え、鳥居峠を越え、木曽谷を南に向かって歩いてきた。 右のさわらの大樹の枝は、「神居木(かもいぎ)」といわれ、山の神または天狗が腰掛ける場所と信じられていたらしく、杣人はこの木の下を通ることさえ嫌がったそうだ。 |
〈さわらの大樹 樹齢約300年〉 |
相変わらずクルミの木があちこちにあるが、猿なのかリスなのか、食べ散らかしてる跡があった。これから冬に向かうが、脂肪がたっぷりのクルミは冬を越す格好の食糧になるだろう。 ここでも喜多さんは、猿やリスに対抗してクルミを収集していた。 |
〈クルミが食べ散らかしてある〉 |
〈一石栃立場茶屋跡〉 〈外国人のカップルがたくさん歩いていた〉 |
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一石栃立場茶屋跡 下り谷にあった白木改番所が寛永2年(1749)にここ一石栃に移され、以来明治2年まで木曽五木 (ひのき、さわら、ねずこ、あすなろ、こうやまき)をはじめとする伐採禁止の出荷統制がおこなわれたのだ そうだ。その一石栃立場跡では、ボランティアの人がお茶をふるまってくれていた。 お茶に、キャンディー、インスタントながらコーヒーも用意してくれている。喜多さんと二人お茶を いただいていたら、西欧人のカップルが2組入ってきて、一緒にお茶をいただいた。 ボランティアの人が、「どこから来たの?」と聞くので、中山道を歩いていることと、昨夜は妻籠に 泊まったことを話すと「夜の踊りを見に行った?」と聞かれた。残念ながら雨でくじけたことを話すと、 しきりに残念がっていた。見物人は85人くらいいて、そのうち外国人が35人。 アンケートを取ったがほとんどが良かったと答えてくれたよ、と誇らしげだった。 本当に残念だった。気力を振り絞って見に行けば良かった。 日本人の観光客は、妻籠にしろ馬籠にしろ、車で行けるところしか行かない人が多い。 妻籠から馬籠に至る山道ですれ違った人は日本人より西欧人のほうが多かったくらいだ。 西欧人のカップルともすれ違う時に「こんにちわ〜」と挨拶を交わす。気持の良いことだ。 |
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〈馬籠峠に到着 標高801メートル〉 〈喜多さんは峠の茶屋でおやつ(くるみゆべし)を調達〉 |
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白雲や 青葉若葉の 三十里 正岡子規 この峠が、長野県と岐阜県との県境になる。 この馬籠峠は昭和に入ってから頂上が10数メートル削られて低くなり、現在は標高801メートルなのだそうだ。 |
〈馬籠峠 正岡子規の句碑〉 |
岐阜県に入った 岐阜県 中津川市にはいった。 日本橋を出立して以来、埼玉県、群馬県、長野県と踏破してきた。埼玉県、群馬県は短かったが、長野県は昨年(2008年)10月12日に碓井峠を越えて以来、約1年を費やした。 東海道の静岡県に匹敵する距離だろうか。調べてみると静岡県の東海道が約185km、中山道の長野県が約190kmだった。どうりで長く感じるわけだ。ともかく、やっと長野県を抜け岐阜県だ。 |
〈岐阜県に入った〉 |
〈岐阜県側は平野が広がる〉 |
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十辺舎一九の碑があった。 一九の「東海道中膝栗毛」に誘われて、あるいは広重の浮世絵に誘われて旧街道歩きを始めたわけだが、一九もこの中山道を歩いたわけだ。当時、「東海道中膝栗毛」で大評判をとった一九は、続編を書くために中山道も旅した。一発当たれば、二弾・三弾を出すのは今も昔も同じことだ。まして、今のようになかなか旅に出るのは大変な時代。膝栗毛を読んで旅した気分になった人々が大勢いたことだろう。 ここにはきれいな公衆トイレがある。 |
〈十辺舎一九の碑〉 |
〈馬籠宿へ1km〉 |
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【第43次 馬籠宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠18軒 島崎藤村の出身地】 | |
〈木曽街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之図 英泉画〉 |
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〈恵那山が見えてきた〉 |
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〈馬籠宿に到着〉 |
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〈整備されすぎて風情に欠ける馬籠宿〉 |
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〈大黒屋 馬籠宿は江戸時代から栗こわ飯が名物〉 |
〈栗こわ飯定食 1,500円〉 |
大黒屋 ちょうどお昼時なので、藤村ゆかりの「大黒屋」で馬籠名物の栗こわ飯を食べることにする。妻籠宿で出てきた藤村の初恋の人「おゆふさん」の生家、大黒屋だ。この大黒屋と、藤村の生家馬籠本陣とは目と鼻の先の距離だ。 江戸時代は、妻籠も馬籠も行政上は尾張藩の管轄で、代官所は木曽福島にあった。「夜明け前」で藤村の父、島崎正樹をモデルとした青山半蔵は明治新政府のもとで馬籠戸長を勤めていた。半蔵に福島支庁から出頭命令が届く。羽織はかまの正装で指定の日時に半蔵が出頭すると支庁の役人が書付を読み上げた。「今日限り、戸長免職と心得よ」半蔵は住民の山林立入りを自由にしてもらいたいという嘆願書を起草していたからだ。 |
〈大黒屋 いまはみやげ物屋さん〉 |
藤村生家 明治政府は木曽山林38万町歩の9割を官有地にしていた。山の恵みで生きてきた木曽谷の住民は生きる手立ての大半を奪われたのだ。尾張藩領有の時代も苦しい暮らしを強いられていたが、「明山(あきやま)」という出入り自由の山林さえも明治政府は官有地にして出入りを禁じた。戸長免職を言い渡された半蔵が、雨の中を馬籠に帰ってゆく。馬籠に帰って行く道の途中、木陰から眼下に木曽川の光るのを見ながら半蔵はつぶやく。「御一新がこんなことでいいのか」 「夜明け前」興味のある方は、是非読み直してください。たぶん中学生のころ一度読んでいるはずですが、中学生や高校生にはわからないことだと思います。 |
〈藤村生家 馬籠本陣資料館〉 |
〈馬籠宿は坂につくられた宿場〉 |
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馬籠宿はあまりにもきれいに造られ過ぎて、旧街道歩きのセミプロ?としては「なんだかな〜」という感じがする。妻籠に来る欧米人は、古き良き時代の日本を訪ねて来てくれるのだろう。我々日本人も、ニューヨークや香港・シンガポールなどの高層ビルやブランド品を売る商店街でなく、スペインやイタリアなどの古い町を訪ねたいことがある。 妻籠に来た中国人は、日本にもこのような貧しい時代があったという証拠に残してある町並みという感想を抱いたそうだが、そうではない。豊かさとは何か。電化製品や車や、あふれるほどの物に囲まれ人生が豊かになっただろうか。携帯電話で追いかけられることが良いことなのだろうか。と弥次さんは考えながら歩くのであった。 |
〈そろそろ馬籠宿もおわり〉 |
〈馬籠宿を越えると田園風景が広がる〉 〈落合宿まで3.7km〉 |
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諏訪神社の隣に、藤村の父島崎正樹の碑があった。 のどかな田園風景が続く。観光客は、馬籠のつくられた町並みから一歩も外に出ない。 本当の良さは、このあたりにあるのにな〜・・・とつぶやいてみる。 |
〈島崎正樹翁碑〉 |
〈馬籠方面を振り返る〉 |
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〈正面に中央高速の赤い橋が見える 前から自転車を押してきた少年があいさつをしてくれた〉 |
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〈これより北 木曽路の碑 藤村が地元の人に頼まれて揮ごうしたのだという〉 〈芭蕉の句碑 送られつ送りつ果ては木曽の秋〉 |
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木曽十一宿を踏破 ついに5月2日に「是より南木曽路」の碑を過ぎてから、木曽十一宿を歩いてきた。 やはり、木曽路はどの宿もよかった。 贄川、奈良井、藪原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠、中山道すべてを歩くのは難しい人も、木曽十一宿は是非歩いてみて欲しい。 |
〈新茶屋の一里塚〉 |
いよいよ美濃国へ 信濃はまだ身近な感じがする。日帰りできそうなイメージだ。 でも美濃の国といえば、斎藤道三、織田信長のイメージでずいぶん遠くに感じる。 |
〈信濃 美濃国境の碑〉 |
【第44次 落合宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠14軒 恵那山から流れる2つの川が落ち合う所から落合の名が】 | |
〈木曽海道六十九次之内 落合 広重画〉 |
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〈落合の石畳へ〉 |
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〈りっぱな石畳が840mにわたって復元されている〉 〈十曲峠 山のうさぎ茶屋〉 |
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落合宿 落合宿は、恵那山から流れる二つの川が落ち合う所から落合川の名ができ、、宿場の名前も「落合宿」になったのだそうだ。 落合宿は古代東山道の時代から重要な宿場であり、中山道に駅制が制定される前に豊臣秀吉が草津に湯治に行く途中この宿で一泊している。 |
〈落合の石畳も終点〉 |
〈落合宿への中山道〉 |
〈もうすぐ落合宿〉 |
馬籠峠を越えたからあとは緩やかに坂道を降りて行くばかりかと思っていたら、意外と坂道がきつい。 しかし、落合の旧中山道は、舗装に小石が混ぜてあって、この特殊な舗装をたどってゆくと、道に迷うことがない。 |
〈落合宿には坂道が多い〉 |
〈落合川にかかる下桁橋から〉 |
〈あんなに遠くに見えた中央高速の橋が後ろに〉 |
〈落合宿本陣跡〉 〈落合宿助け合い大釜〉 |
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〈善昌寺のりっぱな松 ここは桝形を左に折れる〉 |
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〈標識に従って国道19号線を越える〉 |
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〈すすきと恵那山〉 〈GSに大量のライダーがやってきた 全員がホンダのバイクだった〉 |
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〈恵那山に雲がかかる〉 |
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〈きつい坂の上に集落がある〉 |
〈三文餅が名物だった与坂の立場跡〉 |
〈子野の一里塚跡〉 |
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〈りっぱなしだれ桜 春にはさぞ見事だろう〉 |
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ここにも白木改番所跡があった。 『この中津川市上金の地にあった「尾州白木改番所」は天明2年(1782)に建てられ、明治4年(1871)に廃止されました。白木とは桧などの木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用しました。』とある。 |
〈尾州白木改番所跡〉 |
たこやきショップ「いじわるばーさん」には、変わったメニューがあった。一年生か二年生でも買って一休みしたかったが、閉まっていた。 一年生 3個 100円、二年生 6個 200円、 三年生 9個 300円、卒業生 12個 400円、 女性教師 15個 500円、男性教師18個600円、 教師主任 21個 700円、教頭先生 24個 800円、 校長先生 30個 1,000円、 PTA会長 45個 1,500円、 校長の友人 60個 2,000円、 会長の友人 90個 3,000円 |
〈たこやきショップ いじわるばーさん〉 |
芭蕉の句碑があった。 山路きて なにやらゆかし すみれ草 松尾芭蕉が、貞享2年(1685)ころ詠んだ句だが、この場所で詠んだわけではないそうだ。 |
〈芭蕉句碑〉 |
【第45次 中津川宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠29軒 物資の集散地として商業が盛んだった】 | |
〈木曽海道六十九次之内 中津川 広重画〉 |
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〈中津川宿高札場〉 |
〈この道が中津川の中山道〉 |
〈栗きんとんのすや〉 |
〈中津川駅銘菓 すやの栗きんとんはこの時期だけ〉 |
すや 中山道の左手の「すや」という和菓子屋さんに行列ができていた。 行列に弱い喜多さんは、何かお土産に買っていくという。 栗で有名なな中津川は「栗きんとん」発祥の地なのだそうだ。 やはり「栗きんとん」が美味しそうだったので、ひと箱とバラ売り2個購入。 しかし、この「すや」という店は元は酢屋さんだったという。 |
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〈ここが桂小五郎が隠れていた料亭「やけ山」〉 |
〈桂小五郎隠れ家跡〉 |
桂小五郎の隠れ家跡 桂小五郎隠れ家跡の案内が・・・。歴史好きにはこたえられない。 長州藩士桂小五郎(後の木戸孝充)は、文久2年(1862)6月、江戸から京都に向かっていた藩主毛利敬親に、 「公武合体」ではなく「尊王攘夷」を唱えるべく説くため中津川宿で待ち受けていた。 話し合いの後長州藩は、やがて討幕運動の中心勢力となって行った。この「中津川会議」は、維新前後の 大切な会議であり、この折小五郎は地元市岡・間氏の厚意により、料亭「やけ山」に隠れていたのだという。 |
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NTTの建物が見えてきた。 本日の終点、「中津川中山道歴史資料館」は、このNTTビルに間借りしているのだという。 入場料320円を払ってな中山道歴史資料館に入ってみる。事務所に2人、展示場にも何人かいたが、お客は我々二人だけだ。 |
〈中山道歴史資料館が入るNTTビル〉 |
「街道を震撼させた天狗党の通行」という企画展は今日までで、もう客もないと思ったのだろう、次の企画展に掛け替えている最中だった。和田峠を越えた下諏訪宿の手前に、天狗党の墓があったが、生き残った大部分はこの中津川宿を通って行ったのだった。 「どこから来られました?」と資料館の女性が話しかけてこられたので、しばし話しをする。事務室にいた男性も、岩国出身だというと、三菱レーヨンにお勤めだったそうで、懐かしそうに話をされた。三菱レーヨン岩国工場へは200回以上行ったそうで、定年後郷里に帰ってこられたのだそうだ。 さあ、これから横浜まで車で5時間。幸いにも読みは当たって全く渋滞はなかった。 |
〈中津川中山道資料館〉 |
【後日談】 | |
横浜の家に帰ってから、喜多さんがクルミを土に埋めて外の実を腐らせて中の種を取り出し、オーブンで焼いたのがこのクルミの実だ。 クルミの実は脂肪がたっぷりでおいしかった。 このクルミの実をしっかり食べておけば、猿もリスもちゃんと厳しい木曽の冬を越せることだろう。 |
〈喜多さんが木曽路で拾ってきたクルミ〉 |
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