〈十九日目〉 平成21年6月20日 土曜日 晴れ 上松宿〜須原宿〜野尻宿
【第38次 上松宿 本陣1軒 脇本陣1件 旅籠35軒 尾張藩が管理した材木役所がおかれた】

〈木曽海道六十九次之内 上ヶ松 広重画〉
小野の滝

 中山道の西を流れる木曽川には、木曽八景の一つで、前回訪れた有名な景勝地「寝覚ノ床」があるが、広重はこれを題材とせず、少し南に行ったところの「小野の滝」を描いている。「小野瀑布」と言われたこの滝も木曽八景のひとつに数えられ、中山道を通る旅人に深い印象を与えていたという。
享和2年
(1802)にここを通った大田南畝は「壬戍(じんじゅつ)紀行」の中で、「小野の滝の左に茶屋あり、障子に名物小野の滝そば切りと書けり」と書いている。広重の描く滝の手前の家がそば切りを出していた茶屋であろう。滝壺から流れる小川にかかった橋の上で旅人二人が滝を興味深そうに眺めているが、柴を担いでゆく村人は見慣れているのだろう、立ち止まりもしないで通り過ぎる。

〈上松宿 小野の滝〉
 5月の連休に、宮ノ越宿から上松宿までの約60kmを2泊3日で歩いた弥次喜多道中は、次回は上松宿〜野尻宿(約20km)、野尻宿〜妻籠宿(約16km)、妻籠宿〜中津川宿(約16.5km)を、やはり2泊3日で歩きたいと思っていた。しかし、なかなか二人とも3連休にすることは難しいので、思い切って日帰りで挑戦してみることにした。そうすれば次回は1泊2日でも妻籠宿に泊まることができる。

ということで、本日の中山道歩き旅は、朝3時半に車で横浜の家を出発。8時前には前回もお世話になった格安の町営駐車場に車を入れ、歩き始めたのだった。

〈上松駅前からスタート〉
 道に「旧中山道」の案内が出ているが、だまされてはいけない。正しい中山道はこの歩道橋の手前、清水屋酒店の先を上って行くのが正解だ。この坂は「寺坂」というのだそうだ。

やはり、ただの観光客には歩いてほしくない道があるのだろうか。観光地に行くと、特に車の案内板にそのようなケースが多い。

〈この坂道が正しい中山道〉
 坂を上り切ると左手に「上松小学校」があり、校内に藤村の文学碑があるらしいので、ちょっと立ち寄ってみる。

山は静かにして性をやしない 水は動いて情をなぐさむ 藤村

上松小学校の脇には「尾張藩上松材木役所御陣屋跡」の碑がひっそりと建っている。
尾張藩直轄 上松材木役所跡

寛文三年から四年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半が伐られ、尽山も多いことに驚き山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、上松の原畑の地に直轄の材木役場を作ったといいます。この役所は、南北六十五間、東西五十五間で三千五百坪という広さです。また、周囲を高土手や丸太で囲い、大砲まで備えた堅固な陣屋でした。中には、奉行屋敷・東長屋・中長屋・奥長屋があって奉行・吟味役・調役・目代・元締・同心が常時詰めていました。また、陣屋内には、水天宮・三島大明神・伊勢神宮・熱田神宮・御岳大権現の五社を祀ってありました。

〈上松材木役所跡碑〉
 尾張藩は、木曽の山林・材木の権利を手中にするために山村代官から山に関する一切の業務を取り上げて、この地に直轄の材木役場を作ったというが、今は昔。国産の木材の凋落ぶりは目を覆うばかりだ。

昔は貴重品だった檜などの木材を今は誰がありがたがるだろうか。安い外材におされて、日本の山林業は成り立たなくなった。庶民の家は、ボードやクロスに隠されて、国産の高い木を使って建てても仕方がないような家ばかりになった。でも、広い敷地と潤沢な資金があれば、木曽の木を使って総檜造りの家を建ててみたいものだね。

〈上松宿をゆく〉

〈南へ向かう国道19号線〉
中山道は南に

 かなわぬ夢を見ながら、国道19号線の上にかかる旧道から南を見ると、まっすぐ延びる国道と、
その先に高い山が見える。帰ってから地図を見ると、正面が中央アルプスの摺古木山
(2169m)
右が阿寺山
(1558m)あたりであろうか。あらためて地図を見ると、このあたりの中山道は、ほぼ
真南に向かっている。頭の中の感覚では、西もしくは北西に進んでいるような気がずっとしている。

東海道はほぼ一貫して西に向かう旅であったが、中山道は日本橋からしばらくは北西に向かう
旅であった。高崎あたりからに西に向かい、御代田あたりからは南西に向かう旅になった。
そして今はほぼ真南に向かって歩いている。

それにしても、南アルプスと中央アルプスに挟まれた伊那盆地と、中央アルプスと北アルプスに
挟まれた木曽谷。道路も鉄道も川も住宅地もここにしか存在できない。

〈「南見帰」は何と読むのでしょう〉

〈正解は「みなみみかり」でした〉
 地名や人名にはどう読んでいいものか判断に苦しむことが多いが、「南見帰」は「南みかり」と読むらしい。
もとは「みかえり」だったのだろうが、いつの間にか「え」が発音されなくなったのだろう。

弥次さんの生まれた田舎の地名で、初めての人が読めそうにないものを羅列してみる。
「錦見」→「にしみ」、これも「みかり」のように「にしきみ」が「き」が発音されなくなったのだろう。
「南桑」→「なぐわ」、これは「南木曽」→「なぎそ」に通じるものがある。
「甘木」→「はたき」、「行波」→「ゆかば」これをちゃんと読める人などいないだろう。
ハイ!地名の勉強はこれくらいにして、先を行こう。

〈上松宿 たせやと越前屋〉
民宿たせや

 江戸時代、、立場茶屋であった「多瀬屋」は「民宿たせや」として今も営業している。

この郵便ポストの先を右に行くと「寝覚ノ床」に行く道であるが、前回見物してきたので今回は寄り道しない。

〈民宿たせや〉
女子中学生

 この「たせや」の前で写真を撮っていたら、ジャージを着た地元の女子中学生が追い越しざまに「おはようございます」と挨拶してくれた。こういう些細なことが、「いい町だな〜」という思い出につながる。

右の写真の左端に小さく写っている中学生がその子だが、親のしつけがちゃんとしているのか、学校で旅人には挨拶するよう言ってくれているのか。それともこの子のやさしさなのか。知らないおじさんに挨拶してくれてどうもありがとう。おじさんが女の子にあいさつして、無視され逃げられると辛いものがあるからね。越前屋は、江戸時代から続くそば屋さんでもあるという。

〈旅館 越前屋〉

〈たせやと越前屋を振り返る〉
桂の木


 正面に見えて来たのは、上松町の天然記念物 桂の木。案内板を見ると、この桂の木は現存する上松町の桂の木で一番太く幹の周囲は4.1mもあります、とある。

大きな木の好きな喜多さんは見上げて感嘆している。

〈上松町天然記念物 桂の木〉

〈江戸時代から旅人の目をなぐさめた・・・とある〉
 地図を片手に、旧中山道を探しながら歩く。今はいろいろな人がHPに歩いた道筋を載せてくれているので、大いに助かる。今回持ってきた地図は、親子で歩いている「風の吹くまま」の風来坊さんの地図と、そのHPから印刷させてもらった、木曽福島駅観光案内所の箕島さんが作られたという、手製の地図だ。無断で使わせてもらっているが、本当に助かります。ありがとうございます。

それにしても、親子5人で歩いている「ボクたちが歩くシリーズ」には本当にびっくりさせられます。大河、佐武、平次、の3人の小さい子もママも、もちろん弥次さんより2歳年上のパパも本当に大したもんです。

〈中山道は寝覚簡易郵便局の左の細い道へ〉
木製県営住宅

 上松中学校を過ぎた先の右手に県営住宅があった。
・・・・・・さすが、木材の町 上松町。

木をふんだんに使った県営住宅だ。こんな県営住宅見たことないぞ。市営住宅とか、県営住宅というものは、低コストで作ってあることが多いので、ふつうはなんてことないコンクリート造りだ。

歩いてみると面白いことに出会うことが多い。

〈木を使った県営住宅〉

〈旧中山道の石畳が残る〉

〈なめ川が美しい〉

〈木曽路はすべて山の中を実感〉

〈民家の庭先を失礼〉
   

〈これが本当の中山道らしいので〉

〈広重が描いた小野の滝に到着〉
小野の滝 名所・木曽八景のひとつ

広重・英泉の合作である「中山道六十九次」の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵です。
明治42年鉄道の鉄橋が真上に架けられ、残念ながら往年の面影はなくなりました。
かつてここを旅した細川幽斉は、「老の木曽越」のなかで「木曽路の小野の滝は、布引や箕面の滝にも、
をさをさおとらじ、これほどのものをこの国の歌枕には、いかにもらしける。」と手放しでほめています。
また、浅井洌は、この地を訪れて

    ふきおろす松の嵐も音たえて 
      あたりすずしき小野のたきつせ

と、歌を詠んでいます。今も上松の旧跡にかわりありません〈説明板より〉

〈しばらく国道19号線を歩き〉

〈左の道を荻原集落に入る〉

〈一里塚跡 京へ六十四里 江戸より七十三里〉

〈跡碑だけで塚はない〉
 この一里塚碑には、京へ六十四里(約256km)、江戸より七十三里(約292km)とある。ずっと後になって建てられた碑であろうが、完全に江戸をたって京へ向かうことを意識した道標になっている。
う〜ん。それにしても300km近い道のりを日本橋から歩いてきた。

右の木は、榎
(えのき)と紅葉(もみじ)の合体木だそうだ。根本で二つの木が合体して、上のほうでは2種類の葉が入り乱れている。 

〈榎と紅葉の合体木〉
和水

 木曽路は水が豊富だが、この荻原にも水飲み場があった。「この水は浄化も消毒もしていない風越山の湧き水です。和水
(なごみ)」とある。

水をひしゃくでいただいた後、コーヒーの瓶にご自由にどうぞとあったので、木で作った名刺サイズの案内をもらってきた。木のいい香りがした。

〈和水 なごみ〉
 国道から左の旧道に入り、中央本線のガードをくぐると、景色のいい中山道が現れる。

眼下に見える中央本線には中津川からの電車が通り過ぎる。

〈旧中山道は左に上がる〉

〈中央線を特急が走る〉
 木々の間から木材の集積場が見える。

父親が山林業を割と手広くやっていたので、小さい頃は父親のトラックの助手席に乗って、よく岩国の木材市場や地元では「サンパル」と言っていた山陽国策パルプに木材を運ぶのについて行ったものだ。

昭和30年代には車などはほとんど走っていなくて、国道2号線でも見知らぬ人が手をあげて「バスが来ないから乗せてください」などというのんびりした時代だった。あの頃の我が家は、ちょうど「夕日ヶ丘の3丁目」と同じで、冷蔵庫や洗濯機が初めてやってきた頃だった。

〈木材の集積場が見える〉
 木曽古道の標識に、「尾張方面はこの先の庭を真っ直ぐお通りください」とあるので、遠慮なく通らせていただくことにする。

犬がワンワン吠える。リュックから揚げモチを取り出してやると、御覧のようにすっかりおとなしくなった。番犬としては失格だ。

〈木曽古道の標識〉

〈庭先を失礼〉 〈食べ物につられてすっかりおとなしくなった犬〉

〈線路沿いの中山道〉

〈立町の家並み〉
 国道19号線の反対に渡るので陸橋を越える。立町の旧道が見える。なかなかよさそうな集落だ。
陸橋を降りたところに明治天皇立町御小休所の碑があった。この場所にかつて本陣があったのだろう。

その先の民家の池に大きな鯉が泳ぎ、胸の大きい少し色っぽいカエルが座っていた。
こういうものを発見するから街道歩きは楽しいね。

〈明治天皇小休所碑〉

〈ムスメさんのカエル〉
 立町は雰囲気の良い旧中山道が残っている。この街道の曲がり具合がとてもよい。

この立町は立場のあったところだというが、参勤交代の時にはさぞにぎやかだったことだろう。

〈美しい街道 立町〉

〈木曽川にかかる吊り橋 これは旧中山道ではないが立ち寄ってみる〉

〈つり橋から見た木曽川〉

〈須原宿へのきれいな旧中山道〉
倉本駅

 この倉本駅でトイレ休憩した後、駅の少し先を左に折れてしばらくは国道から離れて旧道を歩く。

それにしても人がいない。人を見るのは、国道を走る車だけだ。

〈倉本駅〉
ゴミひとつない中山道

 このあたりの人は何で生計を立てているのか知らないが、旧道はきれいに掃除されている。街道を歩いて思うのは、ほとんどの道でゴミが落ちているのを見ないことだ。国道沿いの脇道には、缶コーヒーの空き缶や、弁当の食べカスや、ボロボロになった漫画雑誌などが捨ててあることが多い。トラックの運転手などが休憩して捨てていくのだろうが、なんとマナーが悪いことだろう。

このようにきれいに清掃された街道を歩いていると、キャンディーの袋ひとつ捨てる気にはならない。

〈倉本の旧中山道〉
 〈倉本に残る民家〉

〈これも旧中山道〉

〈一里塚跡碑〉
ほとんど道はなくなっているが、これも旧中山道だ。
地元のおじいさんが、ぼーっとして座っていたので、「一里塚はこちらでいいですか?」と聞くと、
道を教えてくれて、この先にあるのは公称一里塚だと教えてくれた。
地元の人も正式なものかどうか疑問に思っているらしい。

〈池尻集落をゆく〉

〈これも旧中山道〉
 池の尻集落の右手に桃山発電所が見えてきた。

このあたりは水が豊富だから水力発電所が多い。自然のエネルギーを使ったきれいな電気を発電する施設だ。

〈桃山発電所〉

〈危険につき線路横断禁止〉
線路横断禁止

 この先の旧道に入るには、線路を越えなければならないのだが、
「危険につき線路横断禁止 (近くの踏切等を通行してください)」とある。
近くに踏切などないので、無視して線路を渡ることにするが、線路の両側は草もなくなり
しょっちゅう人が横断しているのがわかる。

JR東海としても一応はこのような立て看板を立てて置かないことには事故の時に責められる
ということだろう。しかし、いくつになっても踏切のない線路を越えるのは怖いものだ。

〈正面に村の天然記念物 エドヒガンザクラ〉〈ニジマスの養殖場がたくさん〉
 旧中山道は思いもよらぬ道だった。

このエドヒガンサクラの左手に道ともいえぬ降り口があり、雑草をかき分け降りて行った。しかし、この道が正しい旧中山道なのだ。

〈これが本当の旧中山道〉

〈本当の旧中山道を振り返る〉

〈またも線路横断禁止〉

〈でも無視して横断する〉
 のぞきど森林公園の案内板の先を右に入る道があるが、その道が旧中山道だ。

国道からはずれて、旧道を歩くのは楽しい。

〈中山道の道標〉

〈大きなしだれ桜〉
あるはずのコンビニがない

 コピーしてきた地図には、この先の右手にコンビニタイムりーがあると書いてあったので、冷たい飲み物をゴクゴク飲み干す姿を励みに歩いてきた。・・・しかし、そのコンビニのあるはずの場所は更地になって、広い駐車場の跡地だけがむなしく広がっている。

バス停の名前は「タイムリー前」のままだったが、肝心の店が無くなっている。・・・コンビニの経営はなかなか難しいのですね。

〈コンビニタイムリー跡地〉
地元のおじいさんに水をいただく

 コンビニで飲み物を買うつもりだったので、手元のペットボトルは空になっている。
あれだけあちこちにあった水飲み場もこのあたりにはない。喜多さんは川の水でも飲みそうな勢いだ。

やっと、水飲み場を見つけて弥次喜多道中は、その先にいたおじいさん二人が話し込んでいたので聞いてみた。
「すいません、この水飲めますか?」
「飲めねえことはないけど、水道の水をやるから待ってな。」
と、そのおじいさんは自分の家に入って行ったのだった。
わざわざ氷を入れてくれた水を用意してくれて、弥次喜多夫婦は生き返った。
どうもありがとうございました。街道の人の親切が身にしみる。
 〈正面に木曽川の景色が美しい〉  〈この先で水を分けてもらった〉
【第39次 須原宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠24軒 江戸中期の水害後に計画的宿場として再建された】

〈木曽海道六十九次之内 須原 広重画〉
須原宿に到着

 須原宿に着いた。とりあえず、須原駅で水を仕入れて少し休憩することにする。先ほど、ペットボトルに水を分けてもらったのに、さらに自販機でお茶を買ってすべて飲みほし、さらに駅前の水飲み場で冷たい水をぐびぐび飲み干す。

汗になって蒸発するからわからないけど、体の水分が相当少なくなっていると見える。

〈水舟の里 須原宿〉

〈須原名物 桜の花漬 大和屋〉

〈須原駅〉
須原名物 桜の花漬け

 須原宿では江戸時代より桜の花漬が名物だったのだという。買って帰ろうかと思ったが、桜茶を飲む習慣もないので、たぶん使わないまま捨ててしまうことになると思い、断念する。先月横浜開港祭で買った「新島」の「くさやの干物」は、結局くさくて食べられず捨ててしまった。

中山道は、駅のほうに来ず、その先を左に上がる道らしいので、元の道に戻り正しい道を進む。

〈これが正しい中山道〉

〈須原宿 上町上〉

〈通ってきた道を振り返る〉

〈須原宿 本陣跡 主木村平左衛門とある〉

〈民家の庭先にも須原宿の行灯が〉

〈水舟 木曽檜をくり抜いて井戸として利用〉
西尾酒造

 須原宿は、今も宿場の面影を色濃く残している。宿の中央に用水路を通し、裏山から引いた豊富な湧水を木曽檜の大木をくり抜いた長い水槽にあふれさせ共同井戸として利用している。

その先の脇本陣だった西尾家が造り酒屋らしいので寄ってみる。脇本陣を勤めた家はほとんどが問屋や庄屋を兼ね、素封家で酒造業を営む家が多かったというが、現在まで酒造業を続けているのはこの西尾家一軒のみだという。

〈江戸時代から続く西尾酒造〉
杣酒

 杣酒
(そまざけ)というのが気になったので、1本購入する。この重い酒をリュックに入れてさらに8kmを歩くのだ。しかし、どぶろく風味で大好評というコピーがそそる。季節限定品のにごり酒だ。ご主人が冷蔵庫から出してくれた。

今回は車で出かけたのでその場では飲めない。横浜に帰ってから早速飲んでみた。火入れもしていない生酒だから、豊潤な香りがにおい立つ。本来なら酒粕になる白い濁りも気にならない。

〈西尾酒造 杣酒〉

〈須原宿の家並みと須原柏屋〉
鍵屋の坂


 柏屋の先を右に折れると、鍵屋の坂(須原宿の枡形)になる。

古い家の間を水が流れ、両側に道がある江戸時代の宿場の原風景で他では見られないという、。

〈鍵屋の坂〉

〈倉が美しい〉

〈長坂にさしかかる〉

〈御宿 喜久屋〉
【第40次 野尻宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠19軒 野尻の宿の七曲りと呼ばれ屈曲と坂が多い】

〈木曽路駅 野尻 伊那川橋遠景 英泉画〉
 〈岩出観音〉
岩出観音

 木曽の清水寺といわれる岩出観音に立ち寄ってみる。確かに清水の舞台に似た造りだが、観音堂から見る景色はあまりにも普通であった。写真を撮る気にもならない。しかし、遠くから見る岩出観音は緑の中に映えて美しかった。

英泉が中山道六十九次の野尻宿の題材に選んだのは、この伊那川橋と岩出観音だった。英泉の画にはいかにも木曽らしい橋がかかっているが、現代の橋はなんてことない普通の橋だった。ちなみに西尾酒造の「木曽のかけはし」には、この英泉の画が使われているが、これは本当の「木曽のかけはし」ではない。

〈伊那川橋と木曽の清水寺〉

〈子供釣り専用河川ののぼり〉

〈これが子供釣り専用河川〉
 子供釣り専用河川ののぼりが目を引く。このあたりの河川は、入漁代が必要なのだろう。しかし、澄み切った川には、大きなヤマメのような模様の魚がたくさん泳いでいたが、子供は一人も釣りなどしていなかった。

天長院は、野尻駅からの電車の時間が気になるので、寄らずにパスすることにする。3時9分の電車に乗って上松駅まで帰らなければ、次の電車は5時27分までないのだ。

〈天長院〉

〈子供釣り専用河川脇のあやめがきれい〉
道の駅 大桑

 途中どこかで食事をするつもりだったが、やはり旧道沿いには食事できる店はほとんどない。少しはあったのだが、喜多さんが入りたくないあまりきれいではない店だった。

国道沿いに「道の駅大桑」があったので、立ち寄って蕎麦を食べることにする。喜多さんはざる蕎麦、弥次さんは天ぷらそばを注文。思いがけずおいしかった。

さあ、あと2kmだ。

〈道の駅 大桑〉
 のぞきど森林公園の案内板の先を右に入り、いよいよ本日最後の旧中山道を歩く。

〈午後になり日差しが強くなった〉

〈今度はちゃんとした踏切を渡る〉
 もうすぐ野尻宿に着く。手前に長く急な坂があった。

今日は20kmを歩いてきて、しかも夕べなかなか寝付かれず2〜3時間しか寝てなくて、横浜から4時間以上も運転してきて、本当に疲れていない自分に驚く。

好きなことは疲れないのだね。

〈急な坂を上がる〉

〈本陣跡 明治天皇御小休所〉

〈立派な派出所〉
 野尻宿へは入ったばかりで、本日は電車で車の置いてある上松駅まで帰ることになる。野尻警察官駐在所の立派なこと。この建物の奥にも立派な住宅がある。このくらい立派な駐在所だと、駐在さんの奥さんも気分が良いだろう。

本日のところは、御宿庭田屋のところを右に折れ、野尻駅にて終了。駅の待合室には、弥次喜多夫婦より少し年上の感じの女性4人と男性2人が大きな声で話していた。女性と男性は全然別のグループで、どちらも中山道を歩いてこの野尻宿に着いたらしい。やはり、中山道を歩いている人はいるのだと心強く思った次第です。

〈寅さんも泊まった旅館庭田屋〉
 無事に上松駅に電車で戻り、車に乗り込んだ弥次喜多道中は、国道19号線をひた走り奈良井宿に
立ち寄ることにした。喜多さんが、前に買った漆塗りの花瓶台が気にいったのでもっと買いたいのだそうだ。

小島漆器店が運よくあいていたので、またわがままを言って奥の仕事場まで気に入った大きさの花瓶台を
探しに行った喜多さんだった。はたして、気に入った大きさと長さの漆塗りの台を見つけた喜多さんは大喜びで、
子供の汁椀やはしもついでに購入。

帰りも順調にとばして、家に着いたのは夜の8時半。渋滞は全くなかった。
朝の3時半に横浜の家を出て、上松から20km歩いて、また横浜に帰るまで17時間。
一日というものは有効に使おうと思えば長いのだなと思った一日だった。
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